囁きの罠
「反応があります、社長」
高輪の超高級ペントハウス。全面ガラス張りのリビングに、重々しい声が響いた。声を上げたのは、氷室フィナンシャルグループの本社警備主任であり、元警視庁捜査一課の刑事でもある渡辺誠二だった。がっしりとした体躯を厳格な警備制服に包んだ彼は、手にした特殊電波探知機の液晶モニターを見つめ、鋭い眼光をさらに細めた。
東京タワーの赤い光が、雨上がりの湿った夜空に浮かび上がり、ガラス窓を通じてリビングの床に長い影を落としている。完璧に統制されたはずのプライベートな空間に、異質な電子音が微かに鳴り響いた。
「リビング中央のエアコン内部、それから、テラスに面した白い陶器の植木鉢の陰……。最後に、この大理石のキッチンカウンターの裏です。合計三か所。すべて軍事レベルの超小型高性能盗聴器です。周囲の音声を感知して自動起動し、特定の周波数で暗号化電波を送信するタイプですな。佐々木専務の秘書、大野が仕掛けたものに間違いありません」
渡辺はピンセットを使い、エアコンのルーバーの奥から、爪の先ほどの大きさしかない漆黒のコンデンサマイクを器用に引き抜いて見せた。元刑事としての直感が、この新居のセキュリティが物理的に突破されたことを告げていた。
「即座にすべての部屋をスイープし、警察に通報すべきです。不法侵入の痕跡も残っているはずです」
渡辺の進言に、氷室琴音は一瞬だけ薄い唇を噛み締めた。仕立ての良いグレーのパンツスーツの襟元に、氷室家伝来のサファイアのピンが冷たく輝いている。継母である冴子が別邸から予備キーを盗み出し、佐々木専務に手渡したという田中の報告書が、脳裏をよぎった。家庭内の裏切りが、ついにこの「唯一の安息の地」であるはずのペントハウスにまで侵入してきたのだ。
怒りと嫌悪感で胸が締め付けられそうになったその時、琴音の隣から低く落ち着いた声が放たれた。
「いや、外すな。渡辺、そのままでいい」
声の主は、黒崎ホールディングス社長、黒崎駿介だった。彼はダークネイビーの三ピーススーツを完璧に着こなし、ソファに深く腰掛けたまま、光を一切反射しない漆黒の瞳で盗聴器を見つめていた。その表情には、驚きも焦りもない。完璧な「絶対的ポーカーフェイス」だった。
「黒崎社長? 何を言っているの?」
琴音はサファイアの瞳を鋭く輝かせ、駿介を振り返った。
「私たちのプライベートな会話がすべて奴らに筒抜けになるのよ? 契約結婚の真実や、アテナの開発ログ、財務の防衛策……すべてを握られたら、次の役員会で確実に破滅するわ」
「だからこそ、利用するんだ」
駿介は立ち上がり、音もなく大理石の床を踏んで琴音に近づいた。その佇まいには、冷酷な市場の支配者としての圧倒的なカリスマが宿っている。
「敵が我々の『弱み』を聴きたがっているなら、望み通りのものを聴かせてやればいい。渡辺、盗聴器を元の位置に戻せ。奴らに、我々が気づいていないと思わせるんだ。これは『盗聴器を逆手に取った「偽の財務情報」の会話演技」という、最高峰の情報戦だ」
駿介の言葉に、琴音の知的な脳細胞が一瞬にして活性化していく。知的な興奮が、嫌悪感を塗り替えていくのを彼女は感じた。相手の罠を逆手に取り、自滅へと誘導する心理戦。これこそが、彼女が駿介と手を組んだ最大の理由だった。
「……なるほどね。佐々木専務とヴァルキリーのエリックは、私たちが電撃結婚のレピュテーション効果で一時的に株価を上げたものの、内情は不仲で、さらに資金繰りに窮しているというシナリオを望んでいる。それを、この『見えない耳』に吹き込んで信じ込ませるのね」
「その通りだ、私の賢い妻」
駿介の口元に、危険で美しい笑みが浮かんだ。
「奴らがその偽情報を信じて、明日の市場で過剰な空売りを仕掛けた瞬間、一ノ瀬総帥から獲得した五十億と、我が社の百億の融資枠を底値で一気にぶつける。完璧な踏み上げ(ショートスクイーズ)を発生させ、ヴァルキリーの資金力を根底から焼き尽くす」
駿介はそう言うと、ソファを指し示した。琴音に隣に座るよう促すジェスチャーだった。渡辺誠二は二人の意図を瞬時に理解し、無言で一礼すると、盗聴器を元のエアコン内部と植木鉢の陰へと戻し、足音を消してリビングから退室していった。
広いリビングに残されたのは、琴音と駿介の二人だけになった。窓の外では、東京の夜景がガラス越しに静かにまたたいている。
「さあ、世紀の演目の時間だ」
駿介がソファに腰を下ろし、琴音を引き寄せた。二人の距離は、互いの吐息が触れ合うほどに極めて近い。駿介のジャケットから漂う、微かなウッディ系の香水が、琴音の嗅覚を優しく支配していく。感情を殺し、「感情はビジネスの不純物」と自分に言い聞かせてきた琴音だったが、この至近距離での肉体的接触には、どうしても身体が熱くなるのを止められなかった。
駿介はスマートフォンを取り出し、画面に即興の「台本」をタイピングして琴音に見せた。画面には、不仲を装う冷酷なセリフと、資金不足に絶望する言葉が並んでいる。
駿介が琴音の耳元に顔を寄せた。その唇が彼女の耳たぶに微かに触れ、琴音の左手薬指の「生体データ連動型GPSスマートリング」が、彼女の心拍数の急上昇(110、120……)を検知して、プラチナの細いフレームの奥で静かに、鼓動のように赤く明滅し始めた。駿介はスマートフォンの画面を琴音に見せながら、声のトーンを一変させ、冷酷で、荒々しい声をリビングに響かせた。
「――いい加減にしろ、琴音! これ以上の資金支援など、黒崎ホールディングスとしては認められない!」
その声の鋭さに、琴音は一瞬息を呑んだが、即座にプロの経営者としての、そして『仮面の妻』としてのスイッチを入れた。彼女はスマートフォンの文字を追いながら、声を震わせ、絶望に満ちた完璧な演技を開始した。
「どうしてそんな冷たいことが言えるの、駿介……! 私たちはパートナーとして、共にヴァルキリーと戦うと約束したはずよ! 氷室のDX改革予算を凍結するなんて、裏切りだわ!」
声は激しい怒りと悲しみに満ちていたが、琴音の表情は冷徹なポーカーフェイスのままであり、そのサファイアの瞳は駿介の漆黒の瞳を真っ直ぐに見つめ返していた。二人の視線が交差し、言葉の刃とは裏腹に、そこには絶対的な信頼の火花が散っている。
駿介は、スマートフォンの画面に次の指示を打ち込みながら、さらに冷酷な声音で言葉を重ねた。
「約束? あれは株価を維持するためのただのパフォーマンスだ。私はビジネスマンだ、琴音。倒れゆく泥船に、これ以上の資本を投じるほど愚かではない。君の父親が残したアテナのコードも、所詮は未完成のゴミだ。そんなもののために、我が社の緊急融資枠を使うわけにはいかない」
その言葉は、佐々木やエリックが最も聴きたがっている「駿介の本音」そのものだった。盗聴器の向こうで、大野や佐々木が勝ち誇った笑みを浮かべている様子が、琴音の脳裏にありありと浮かんだ。
琴音はソファの上で、駿介の胸元を軽く押し返すような仕草をしながら、さらに涙を堪えるような声を作った。
「……そんな。アテナは、お父さんが命をかけて遺してくれた技術よ。それをゴミだなんて……。黒崎ホールディングスの後ろ盾がなければ、私はもう、明日の市場の売り浴びせに耐えられない……」
その時だった。駿介の大きな手が、テーブルの下で、琴音の冷たい右手を静かに、だが圧倒的な力強さで握りしめた。彼の指先は驚くほど熱く、琴音の細い手を包み込むようにして、その体温を伝えてくる。
声の演技は冷酷な決別を語りながらも、肉体はこれ以上ないほど温かく、優しく繋がっている。この強烈な二面性に、琴音の胸の奥で、微かな、しかし確実な「微熱」が生まれ、心拍数がさらに跳ね上がった。スマートリングが静かに点滅を繰り返す。
駿介は、琴音の手の甲を親指で優しく撫で、彼女の緊張を解きほぐすようにしながら、最後の、そして最大の「蒔き餌」となる台詞を提示した。
琴音は、駿介の温かい手の温もりを全身で感じながら、絞り出すような、絶望的なトーンでマイクに向かって囁いた。
「もう、終わりね……。明日、私は個人の全資産を売却して、社長の座から撤退するわ……」
その言葉が終わった瞬間、駿介の手の力がさらに強まり、彼女の細い指先を壊れ物を扱うように、しかし決して離さないという強い独占欲を込めて握りしめていた。二人の吐息が、静まり返ったペントハウスの闇の中で、静かに重なり合った。
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