赤坂の密約
赤坂の喧騒から完全に隔絶された一角に、その老舗料亭「橘家」は静かに佇んでいた。数々の政財界の密約、国家の命運を左右する裏取引を闇に葬ってきた重厚な黒塗りの門。今夜は、激しい雨が去った後の湿った夜気が、庭園の青紅葉を濡らし、しっとりとした静寂を醸し出していた。門前には、ナンバープレートを伏せた漆黒の高級セダンが数台、音もなく控えている。
格式高い数寄屋造りの奥座敷。磨き抜かれた檜の床を通り、案内された個室の畳の上に、氷室フィナンシャルグループ専務・佐々木厳は座っていた。仕立ての良いオーダーメイドスーツを身に纏っているものの、その額には絶えず不快な脂汗が浮かび、手元のお猪口を持つ指先は微かに震えている。
「――くそっ、あの忌々しい小娘め!」
佐々木は冷めた酒を一気に煽り、床の間に飾られた一輪挿しを睨みつけた。彼の脳裏に焼き付いているのは、昼間に開催されたあの電撃結婚記者会見の光景だ。黒崎タワー最上階で、無数のフラッシュを浴びながら、完璧な「愛し合う恋人たち」を演じきった氷室琴音と黒崎駿介。そして、鳴海亜沙美の鋭い追及を一瞬にして黙らせた、あの傲慢なハゲタカの口づけ。
「会見の生中継が終わった瞬間から、我が社の株価は一気に十五パーセントも跳ね上がった。役員会の日和見主義どもは、手のひらを返したように『琴音社長の経営センスは本物だ』などと囁き始めている。志村取締役すら、次の動きを躊躇している始末だ。このままでは、代表権剥奪どころか、私が社内から孤立してしまう!」
佐々木が焦燥を吐き出すように声を荒らげたその時、ふすまが静かに開いた。引き締まった体躯に、完璧なオールバックの白髪。冷酷な三白眼を宿した男が、音もなく室内へと足を踏み入れる。黒崎ホールディングス副社長であり、駿介の叔父でもある男――黒崎征二だった。
「焦るな、佐々木専務。器が小さい男は、市場のわずかな値動きに一喜一憂するものだ」
征二は冷ややかな微笑を浮かべ、佐々木の対面に腰を下ろした。仲居が差し出す高級な純米大吟醸を断り、自ら冷酒をグラスに注ぐ。その一挙手一投足には、黒崎家の分家筆頭としての、傲慢なまでの支配欲が滲み出ていた。
「黒崎副社長……! しかし、駿介が氷室の防衛にこれほど深く介入してくるとは想定外だった。あの男は本当に、琴音を愛しているのではないか? あそこまでのパフォーマンスをメディアの前で見せつけられては……」
「愛、だと?」
征二は低く、乾いた笑い声を漏らした。その三白眼が、闇の中で不気味な光を宿す。
「駿介という男を、私は生まれてからずっと見てきた。奴は血も涙もない怪物だ。実の父親が倒れても眉一つ動かさず、ただ数字と復讐のためだけに生きている。そんな男が、出会って数日の女を本気で愛するはずがない。あのキスも、あの甘いセリフも、すべては市場を騙し、一般株主を味方につけるための完璧に計算された『演技』だ。100パーセント、ビジネスの偽装結婚だよ」
「偽装……。しかし、それをどうやって証明する? 世間はすでに彼らを『世紀のロマンチック・カップル』として熱狂的に支持している。物証がなければ、単なる邪推として片付けられてしまう」
佐々木の言葉に、征二は静かに手を叩いた。それを合図にするかのように、ふすまの向こうから、よれよれのジャンパーを羽織り、タバコの臭いを漂わせた男が滑り込んできた。首から重そうな一眼レフカメラを下げ、卑屈な薄笑いを浮かべた男――週刊真相の契約記者、馬場昌弘だった。
「お呼びですか、黒崎の旦那」
馬場は畳に直接膝をつき、上目遣いで征二の顔色を伺った。高級料亭の空気にはおよそ不釣り合いな、泥臭いドブネズミのような男だった。だが、その瞳の奥には、金に対する異常なまでの貪欲さが光っている。
征二は脇に置いていた革のアタッシュケースをテーブルの上に滑らせ、無造作に開いた。中には、帯封のついた一万円札の束がぎっしりと詰まっている。その額、一千万円。馬場の喉が、ごくりと音を立てて鳴った。
「これが、前金だ。成果次第で、この十倍を支払おう」
征二は冷徹に言い放った。
「お前の仕事は一つ。駿介と琴音が暮らす、高輪の超高級ペントハウスを二十四時間体制で監視することだ。完璧な夫婦など、この世に存在しない。特に、利害だけで結ばれた仮面夫婦ならなおさらだ。必ず、生活の綻びが出る」
馬場は札束に視線を吸い寄せられたまま、激しく頷いた。
「へえ、お任せください。寝室が別々である証拠写真、あるいは、二人がプライベートで一言も口をきかない冷え切った空気……。どんな些細な隙でも、俺の望遠レンズで引きずり出して見せますよ」
「それだけではない」と、征二はグラスを弄びながら続けた。「もし可能なら、二人の間で交わされたはずの『契約書』の現物、あるいはそれに類する物証を盗撮しろ。違約金百億円、愛を排除する、といった文言が書かれたペーパーワークが存在するはずだ。それを世間に晒せば、彼らのレピュテーションは一瞬にして崩壊し、株価はストップ安まで暴落する」
「なるほど……世紀の詐欺師夫婦、というわけですな。面白そうだ」
馬場は下卑た笑みを浮かべ、カメラのレンズキャップを弄んだ。
そこで、佐々木が声を潜め、征二に向かって身を乗り出した。
「黒崎副社長。実は、こちらの『家庭内の内通者』からも、非常に有益な情報が入っている。琴音の継母である冴子だ。彼女は、琴音を失脚させて自らの連れ子である竜介を社長に据えたがっている。冴子が高輪の氷室家別邸から、琴音の私生活のスケジュールと、別邸の予備キーを盗み出して私に渡してくれた」
征二の眉が、微かに動いた。
「ほう……別邸の予備キーか。それは使えるな。ペントハウスのセキュリティは強固だが、氷室家内部の人間が手引きするなら話は別だ。馬場、このキーとスケジュールを使って、奴らの新居の内部に『見えない耳』を仕込む準備をしろ」
「了解です。社長室やペントハウスのリビング……完璧な盗聴網を敷いてみせましょう。奴らがベッドの中でどんな冷たい会話をしているか、すべて録音して旦那にお届けしますよ」
馬場は札束の詰まったアタッシュケースを抱え、再び音もなく部屋を去っていった。
静寂が戻った個室で、佐々木は未だに不安を拭いきれない様子で、征二を見つめた。
「黒崎副社長。本当にこれで、あの二人を引きずり下ろせるのか? 駿介のバックには、一ノ瀬財閥の総帥が動くという噂もある。もし失敗すれば、私たちは……」
「くどいぞ、佐々木専務」
征二は冷酷な三白眼で佐々木を射抜いた。その視線には、蛇が獲物を睨みつけるような絶対的な威圧感が宿っていた。
「完璧な夫婦など、この世に存在しない。特に、あの冷徹な駿介と、氷の女王と呼ばれる琴音だ。愛を排除した契約書の下で、互いの牙を隠し持っているに過ぎない。必ず、ボロが出る。その綻びから一気に引き裂き、奴らの硝子の棘冠を粉々に砕いてやるのだ。お前はただ、社内の役員会でいつでも動けるよう、数の工作を続けていればいい」
征二の冷酷な言葉が、赤坂の夜の静寂に深く染み込んでいく。庭園の池に滴る雨の音が、まるで破滅へのカウントダウンのように、不気味に響き続けていた。
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