仕組まれたロマンス
高輪の超高級ペントハウスを包んでいた豪雨は、夜明けとともに嘘のように引き、ガラス張りのリビングには冷徹なまでに澄み切った朝の光が差し込んでいた。東京タワーが朝靄の中に鋭い輪郭を浮かび上がらせている。
氷室琴音は、自身の主寝室のドレッサーの前で、左手薬指にはめられたプラチナの指輪を見つめていた。一見すると、どこにでもあるシンプルな結婚指輪。だが、その皮膚に触れる内側では、生体データ連動型GPSスマートリングが音もなく起動し、彼女の体温、脈拍、そして位置情報を六本木の黒崎タワーへと送信し続けている。
「……百億の投資を守るための、リスク管理、ね」
琴音は自嘲気味に呟き、仕立ての良いグレーのパンツスーツの襟元に、氷室家伝来のサファイアのピンを留めた。指先はまだ微かに冷えている。昨夜、指輪を滑り込ませてきた黒崎駿介の、あの異常なまでに熱い指先の温度が、未だに皮膚の奥に残っているかのような錯覚に襲われる。感情はビジネスにおける不純物。そう自分に言い聞かせ、彼女は氷の仮面を完璧に整えた。
リビングに降りると、そこにはすでに完璧なスリーピーススーツを纏った駿介が、大理石のテーブルを挟んで座っていた。その漆黒の瞳は光を反射せず、いつもの「絶対的ポーカーフェイス」を維持している。二人の間には、婚姻契約第8条である「寝室隔離」という冷たい境界線が厳然と横たわっていた。
その静寂を破るように、プライベートエレベーターのチャイムが鳴り響いた。扉が開くと、燃えるような赤いパンツスーツに身を包んだ美女が、軽快なヒールの音を響かせて現れた。
「おはよう、お二人さん。新婚の甘い空気……を期待したけれど、やっぱりドライアイス並みの温度ね。最高だわ」
現れたのは、業界最大手のPR会社「アテナ・コミュニケーションズ」の代表取締役、結城玲奈だった。知的なボブヘアを揺らし、華やかで計算し尽くされた笑みを浮かべる彼女は、駿介が巨額の顧問契約を結んでいる広報のスペシャリストだ。
玲奈はテーブルの上に、重厚な革のファイルから取り出した書類を滑らせた。それは、彼女が率いるチームが徹夜で書き上げた、共同記者会見用の「シナリオ台本」だった。
「さあ、これが明日、有楽町の会見場で披露してもらう『世紀のロマンス』のシナリオよ。メディアが大好物の、冷徹な天才同士の、実は学生時代からの秘めた恋。完璧な嘘を、本物として大衆に呑み込んでもらうわ」
琴音は書類を手に取り、その「世紀のロマンス」プロデュース戦略の文面を冷徹な目で追った。台本には、二人が大学時代の共通の講義で出会い、互いの知性に惹かれ合いながらも、財閥の敵対関係ゆえに想いを隠し続け、今回の危機をきっかけに駿介が「命を賭けて彼女を守る」とプロポーズした、という完璧なストーリーが綴られていた。
「……論理的整合性に欠ける部分があります」
琴音はペンを取り、台本の一節を冷酷に指し示した。
「2018年の秋、私はロンドン経済学校へ短期留学していました。この台本にある『十月の駒場キャンパスでの雨の日の遭遇』というエピソードは、私の出入国記録と矛盾します。鳴海亜沙美のような鋭い経済キャスターは、こうした極小のタイムラインの歪みを見逃しません。金融庁のノンキャリア査察官である長崎も、私の過去の動向を洗っているはずです。ここを修正してください」
玲奈は目を見開いた後、愉快そうに肩をすくめた。
「さすがは氷の女王ね。ロマンチックな台本を、まるで契約書のバグチェックみたいに添削するなんて。でも、その通りよ。修正するわ」
「私からも一つ」
駿介が低く心地よい声で割って入った。彼は台本の後半、プロポーズの場面を指先で叩いた。
「プロポーズの言葉が冗長すぎる。私のパブリックイメージは『血も涙もないハゲタカ』だ。そんな男が、こんな甘い台詞を口にすれば、かえって世間は偽装を疑う。言葉は最小限に、行動で語るべきだ」
「例えば?」と玲奈が問いかける。
「『君の時価総額は、私が一生をかけて保証する』。これだけで十分だ」
駿介の冷酷な台詞に、琴音は微かに眉をひそめた。恋愛の言葉としては最悪だが、ビジネスの提携としてはこれ以上ないほど説得力がある。彼らの「不敗の契約結婚」を象徴するような言葉だった。
「いいわ、最高にクールでエロティックよ」
玲奈はペンで素早くメモを取ると、突然、表情からプロの笑みを消し、鋭い眼光で二人を見つめた。
「でもね、お二人さん。言葉の整合性だけでメディアを騙せると思ったら大間違いよ。大衆が求めているのは、数字やアリバイじゃない。視覚的な『熱量』、つまり肉体的な説得力よ。あなたたちの目は、お互いをビジネスライクに値踏みし合っている。これでは会見場の最前列に並ぶ経済記者たちに、一瞬で見破られるわ」
玲奈は立ち上がり、二人の前に回った。
「今から、スキンシップのシミュレーションを行うわ。立ち上がって、至近距離で対峙して」
琴音は一瞬、躊躇した。他人に触れられることを極端に嫌う彼女にとって、これは自らの潔癖な防衛線を破る行為だった。だが、明日の会見で失敗すれば、佐々木専務に代表権を奪われ、会社は崩壊する。支払うべき必要経費だと、彼女は己に言い聞かせた。
二人はリビングの中央、全面ガラスの前に立った。窓外の東京タワーが、二人の影を冷たく床に落としている。
「まず、駿介。琴音の肩を抱き寄せて。距離はゼロよ。お互いの呼吸が触れ合う位置まで」
玲奈の容赦ない指示に、駿介が一歩踏み出した。完璧に整えられたダークネイビーの3ピーススーツから、微かにウッディでスパイシーなコロンの香りが漂う。それは、昨夜琴音の寝室の外で感じた香りと同じだった。
駿介の大きな手が、琴音のグレーのジャケットの肩に置かれた。しっかりとした骨格を感じさせる、強い圧迫。次の瞬間、引き寄せられた彼女の身体は、駿介の胸元へと完全に衝突した。彼の厚い胸板の熱が、上質なウールの生地を通して、琴音の肌へとダイレクトに伝わってくる。
「――っ」
琴音は思わず息を呑んだ。冷徹な言葉を吐くこの男の身体が、これほどまでに熱く、圧倒的な存在感を持っているという事実に、頭の芯が痺れるような感覚を覚える。
「琴音、身体が硬いわ。まるで逮捕される容疑者よ。もっと力を抜いて、駿介の胸に身を委ねるの。そして、駿介。完璧な角度で、彼女の顎を持ち上げて。キスをする一歩手前の、最もカメラ映えするアングルよ」
玲奈の言葉に従い、駿介の手が琴音の肩から滑り、彼女の首筋、そして顎へと移動した。彼の熱い親指が、琴音の白い顎のラインをそっと持ち上げる。至近距離で、光を一切反射しない駿介の漆黒の瞳が、琴音のサファイアの瞳を真っ向から見つめていた。
見つめ合う二人の距離は、わずか数センチメートル。お互いの吐息が、唇の上で交錯する。
(これは仕事。ただのビジネスの演技よ……!)
琴音は必死に心拍数をコントロールしようとした。だが、顎を伝う彼の指先の熱、そして視線から注がれる圧倒的な支配欲の前に、彼女の自制心は悲鳴を上げていた。
ピピッ、と。
静寂の中で、極小の電子音が鳴り響いた。琴音の左手薬指のスマートリングが、彼女の急上昇した心拍数を検知し、微かに振動したのだ。
同時に、駿介のジャケットのポケットの中で、スマートフォンがサイレントアラートのバイブレーションを震わせた。駿介の漆黒の瞳が、僅かに細められる。彼は琴音の動揺を、生体データという絶対的な数値で掌握したのだ。
駿介の口元に、極めて微小な、だが挑発的な笑みが浮かんだ。彼は顎を掴む指の力を緩めず、琴音の耳元へと顔を寄せた。彼の唇が、彼女の耳たぶに触れるかのような至近距離で止まる。
「――記者の前で躊躇すれば、すべてが瓦解する」
冷徹極まりない、しかし鼓膜を直接揺らすような熱い囁きが、琴音の耳元で響いた。
「君の心拍数は現在、120を超えている。明日の会見場には、カメラのフラッシュと、神崎の手先たちが張り巡らされているんだ。その程度の動揺で、私の百億の投資を守りきれると思っているのか、氷室社長」
その言葉は、琴音の自尊心を鋭く抉ると同時に、彼女の闘志に冷たい火を灯した。彼女は駿介の胸元に手を置き、彼をじり、と見つめ返した。
「……余計な心配は不要よ、黒崎社長。本番では、完璧な『妻』を演じてみせるわ。あなたのその冷たい心臓の音さえ、私の演技のBGMにして差し上げる」
「いいわ、その緊迫感! 最高にエキサイティングなロマンスの完成よ!」
結城玲奈が満足そうに手を叩き、台本をファイルに収めた。しかし、窓外の朝光は、明日の有楽町で繰り広げられる、メディアという名の残酷な戦場を静かに予感させていた。
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