ガラス張りの愛の巣
窓外に広がる東京の夜景は、激しい雨のヴェールに遮られ、まるで底の知れない深海のように霞んでいた。丸の内の高瀬法律事務所を後にした漆黒のロールスロイスは、深夜の首都高速道路を滑るように走り抜け、高輪の閑静な丘の上に建つ超高級タワーマンションへと滑り込んだ。
最上階専用のプライベートエレベーターが音もなく扉を開くと、そこは黒崎駿介が個人資産で所有する、全面ガラス張りのメゾネットペントハウスだった。天井高五メートルを超えるリビングからは、雨に濡れて赤く滲む東京タワーが一望できる。大理石の床、無機質なイタリア製のモダン家具、金属的な輝きを放つ螺旋階段。洗練されてはいるが、温もりという概念を徹底的に排除した、冷たい硝子の城だった。
「――お帰りなさいませ、駿介様。そして、琴音様」
エントランスで二人を迎えたのは、清潔な割烹着を身に纏ったふくよかな女性だった。週に三日、このペントハウスの管理と食事を任されている家政婦兼料理人の宮本よし江である。彼女の温和な笑顔と、漂ってくる出汁の優しい香りが、この無機質な空間における唯一の異物だった。
「遅い時間でしたので、消化に良い温かいスープと軽いお食事を用意しておきました。あの……お部屋は、やはり別々に……?」
よし江は二人の間に漂う、新婚夫婦とは到底思えない氷のような空気に戸惑いながら、おずおずと尋ねた。彼女なりに、若い二人の仲を取り持とうという親切心なのだろう。
だが、氷室琴音はその温情を一瞬の視線で凍りつかせた。仕立ての良いグレーのパンツスーツの襟元に飾られた、サファイアのピンが冷たく光る。彼女は低く澄んだ声で、事務的に言い放った。
「ええ、宮本さん。婚姻契約第8条に基づき、私たちのプライベート空間は完全に隔離されます。私の荷物は東側の主寝室へ、黒崎社長の荷物は西側の書斎奥の寝室へ運んでください。お互いの許可なく、それぞれの領域に立ち入ることは禁止されています」
「あ、はい……承知いたしました」
よし江は二人の冷徹な一瞥に気圧され、それ以上の言葉を飲み込んで一礼すると、静かにキッチンへと下がっていった。
リビングに残されたのは、琴音と駿介の二人だけだった。螺旋階段のガラス手すりに背を預け、駿介は胸ポケットからプラチナ製の高級万年筆を取り出し、指先で弄んだ。その漆黒の瞳は、相変わらず光を一切反射しない。完璧なポーカーフェイスの裏で、彼が何を考えているのか、琴音の「微表情解読能力」をもってしても読み取ることは困難だった。
「徹底しているな、氷室社長。いや、今日からは『妻』と呼ぶべきか」
「公の場以外では、その呼び方は不要です、黒崎社長。私たちは時価総額を守るための共同経営者。プライベートでの不要な接触は、判断力を鈍らせるノイズでしかありません」
琴音は冷ややかに言い返し、大理石のダイニングテーブルに置かれた冷めたディナーの席についた。二人の距離は、数メートルも離れている。物理的な距離の接近は、かえって精神的な境界線をより鋭く際立たせていた。
駿介はゆっくりと歩み寄り、琴音の対面に腰を下ろした。彼はジャケットの内ポケットから、小さなベルベットの箱を取り出し、テーブルの上で滑らせた。滑らかな大理石の上を音もなく滑り、琴音の手元でぴたりと止まる。
「それは?」
琴音が不審げに眉をひそめると、駿介は淡々と応じた。
「結婚指輪だ。明日の結婚発表会を控えている。メディアの前に指輪もはめずに現れる夫婦がどこにいる?」
琴音は箱を開けた。中に入っていたのは、装飾を一切削ぎ落とした、シンプル極まりないプラチナのリングだった。しかし、その内側には、微小な電子チップのようなものが埋め込まれているのが見えた。
「……ただの金属ではないようね。説明を求めます」
「生体データ連動型GPSスマートリング。米国の軍用セキュリティ企業に特注した特級品だ。君の皮膚に接触した瞬間から、常時心拍数、皮膚電気活動、そして詳細な位置データを暗号化して私のプライベートセキュリティルームへ送信する」
琴音の瞳が鋭く細められた。自尊心を鋭く刺されたような、激しい反発が胸に湧き上がる。
「監視するつもり? 契約書に、私の私生活の監視権を譲渡する条項はなかったはずよ。これは明らかなプライバシーの侵害だわ」
「勘違いするな。これは『リスク管理』だ」
駿介は一切の感情を排した声で、冷酷に言い切った。
「君を狙う佐々木専務の一派が、いつ物理的な手段に出てくるか分からない。君の妹、莉子の周辺にも不穏な動きがある。君の心拍数が異常上昇した瞬間、あるいは位置データが通常の行動範囲を逸脱した瞬間、私の警備チームに自動でサイレントアラートが飛ぶ。社長の突然死や誘拐は、我がグループにとっても莫大な株価下落リスクだ。私の百億の投資を守るための、最低限のセーフティネットだ」
合理的で、隙のない論理。だが、琴音は駿介の目元に現れた「0.1秒の綻び」を見逃さなかった。彼の瞳の奥に一瞬だけ走ったのは、単なる資金保護の冷徹さではない。それは、暗く、底知れない、過去のトラウマからくる過剰なまでの『保護欲』――大切な人間を二度と失わないという、異常なほどの執念の影だった。
(――この男、ただ私を利用しているだけではない。過去に、誰かを守れずに失った傷があるのだわ)
琴音はその発見に息を呑んだが、それを口にするほど愚かではなかった。感情の指摘は、この冷酷な同盟において最大の禁忌だ。
「……わかったわ。そのリスク管理、受け入れましょう。ただし、このデータがビジネス以外の目的で使用された場合、即座に百億円の違約金を請求します」
「当然だ。取引成立だな」
駿介は立ち上がり、琴音の隣へと歩み寄った。彼は箱からプラチナのリングを取り出すと、琴音の前に左手を差し出すよう促した。
琴音は躊躇しながらも、冷たい指先を差し出した。駿介の長い指が、彼女の手に触れる。彼の指先は、冷徹な言葉とは裏腹に、驚くほど熱かった。
駿介が琴音の左手薬指に、ゆっくりとスマートリングを滑り込ませる。金属の冷たさと、彼の指先から伝わる微かな体温が、琴音の皮膚を通じて脳裏へと直接駆け上がった。
その瞬間、琴音の指先が、自制心を失って微かに震えた。駿介の漆黒の瞳が、至近距離で彼女のサファイアの瞳を見つめている。ガラス張りのリビングを包む豪雨の音さえも遠ざかり、部屋の中に、言葉にできない奇妙な緊張感が走った。二人の距離は、契約書の境界線を越えて、互いの鼓動を意識させるほどに急接近していた。
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