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硝子の棘の誓約

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丸の内のビル群が、鉛色の雨雲の下で冷たくそびえ立っている。東京の心臓部たるこの金融街は、数千億の資本と無数の欲望が音もなく交錯する巨大な渓谷だ。アスファルトを叩く雨音は、まるですべての感情を洗い流そうとするかのように無機質に響いていた。


 大手町の本社から車を走らせ、琴音と黒崎駿介が向かったのは、丸の内の歴史ある赤レンガビルの高層階に位置する「丸の内・高瀬法律事務所」だった。そこは重厚な革張りのソファと、壁一面を埋め尽くす数万冊の法学書に囲まれた、知的な要塞である。防音と盗聴防止の特殊ガラスで完全に守られた一室には、張り詰めた沈黙が満ちていた。


「――正気ですか、琴音様」


 デスクを挟んで対峙した老紳士が、低く、しかし重みのある声で問いかけた。


 ロマンスグレーの髪を完璧に整え、仕立ての良い漆黒の三ピーススーツを纏った男。氷室グループの顧問弁護士であり、知性の盾(Tier 6)と称される高瀬健一郎だ。彼は琴音の亡き父・宗一郎の代から三十年間、一族のあらゆる法的防壁となってきた人物であり、琴音にとっては「第2の父親」とも呼べる存在だった。その慈愛に満ちた瞳には、今、深い懸念が宿っている。


 高瀬の手元には、先ほど二人が持ち込んだ合意書をベースに、彼が会社法と民法を極限まで精査して作成した『婚姻契約書(公正証書・違約金100億円)』の最終草案が置かれていた。


「黒崎ホールディングスとの業務提携は、確かに佐々木専務への強力な牽制になります。ですが、この契約内容はあまりにも苛烈だ。婚姻届を提出した瞬間から、お二人にはこの契約書が法的な『絶対の掟』として課せられるのですよ」


 高瀬は眼鏡の奥の鋭い眼光を、琴音の隣に座る男に向けた。黒崎駿介。彼は完璧な仕立てのダークネイビーのスーツを纏い、片手を顎に添えて、彫刻のような無表情を保っている。その漆黒の瞳は、まるで自らに関する議論など他人事であるかのように冷ややかだった。これこそが、いかなるプレッシャーにも動じない駿介の「絶対的ポーカーフェイス(無表情の武装)」だ。


「高瀬先生」


 琴音はサファイアのピンが輝く胸元に手を当て、凛とした声で遮った。


「私の決意は揺らぎません。佐々木専務がヴァルキリー・ファンドと結託し、私の代表権を剥奪しようとしている今、私に残された時間は四十五時間を切っています。正攻法の交渉では、あの老害たちを黙らせることはできない。私に必要なのは、市場を一瞬で黙らせる『最強の資本同盟』です」


「ですが……」と高瀬は書類の第一条を指し示した。


「『婚姻契約第1条:感情排除の原則』。――お互いに本物の恋愛感情を抱かないこと。感情はビジネスの判断を狂わせる不純物である、と。さらに、目的達成後は即座に離婚手続きに移行し、どちらかがこの条項に違反、あるいは契約を破棄した場合、違約金として百億円を即時に支払う……。琴音様、これは結婚ではありません。ただの奴隷契約、あるいは互いの首に爆弾を巻き付けるようなものです」


「それで結構です」


 琴音は冷徹に言い放った。その表情には、一切の迷いも、甘えもない。


「感情はビジネスにおいて最大の脆弱性です。お互いを信じないこと、そして裏切れば百億円という破滅が待っているという『恐怖の担保』こそが、この同盟を最も強固に維持するための唯一の防衛策ですから。黒崎社長、そうですね?」


 琴音が視線を向けると、駿介はゆっくりと瞬きをし、低く心地よい声で応じた。


「その通りだ。私は慈善事業で君を救うわけではない。君が提供する『アテナ』の技術、そして氷室の持つ市場予測アルゴリズムが、私の復讐――神崎玲を奈落へ引きずり下ろすための最強の兵器になるからこそ、この席に座っている。互いの牙を信頼しているからこその、百億の違約金だ」


 駿介の言葉には、一滴の情熱も含まれていなかった。あるのは、ただ冷酷なまでの計算と、底知れぬ復讐の意志だけだ。


「ならば」と、駿介は長い指先でテーブルの上の別の書類を琴音の前に滑らせた。「契約の法的完成と同時に、もう一つの条件を実行してもらう。『株式の相互持ち合い提携』だ。黒崎ホールディングスと氷室グループが、互いの株式を十%ずつ取得し、持ち合う。これにより、第三者からの敵対的買収を物理的に困難にする」


 高瀬がその書類を素早く手に取り、鋭く眉をひそめた。


「……株式の相互持ち合いですか。なるほど、これは佐々木専務が仕掛けてくるであろう解任動議に対する、極めて強力なポイズンピル(有償新株予約権の無償割当て)の予備動作になります。黒崎グループという巨大な盾が氷室の背後に立つことを、市場に直接示すことができる。ですが、黒崎社長、これはあなた方にとっても、氷室の財務リスクを直接背負うことを意味しますよ」


「リスクを冒さなければ、神崎という怪物の首は獲れない」


 駿介は冷淡に言い切った。その漆黒の瞳の奥に宿る、一瞬の暗い炎。琴音はそれを静かに見つめ、自身の選択が正しいことを確信した。この男は、神崎を倒すためなら、自らの帝国すら賭ける覚悟がある。


「わかりました」と、琴音は自身のバッグから、重厚な木箱に入った「実印」を取り出した。「その条件、全面的に受け入れます。私の戸籍と社会的地位のすべてを、この資本同盟の駒として差し出しましょう」


 高瀬は深く、重いため息をついた。ロマンスグレーの髪が、部屋の微かな照明を浴びて白く光る。彼は宗一郎の遺影が飾られた別邸の書斎を思い浮かべているのだろうか。だが、彼もまたプロフェッショナルだ。依頼人の絶対的な決意の前に、これ以上の私情を挟むことはしなかった。


「……承知いたしました。では、これより『婚姻契約書』および『株式相互持ち合い提携合意書』の調印式を執り行います。お二人とも、署名と実印の捺印を」


 高瀬が厳かに、プラチナ製の高級万年筆と、朱肉の詰まった重厚な印肉台を差し出した。


 部屋の中に、ペン先が上質な和紙を滑る、微かな摩擦音だけが響く。


 黒崎駿介。その流麗な筆跡で、男は一切の躊躇なく署名し、重厚な実印を朱肉に押し当てた。紙に染み込む赤いインクは、まるで二人の人生を縛り付ける血の誓約のようだった。


 続いて、氷室琴音。彼女もまた、震える指先を自身の冷徹な意志で押さえ込み、完璧な筆跡で署名を刻む。そして、氷室家当主として受け継いできた実印を、その隣に力強く捺印した。


 カチリ、と静かな音がして、契約書が二通、高瀬の手によって厳重にバインダーに閉じられた。一通は高瀬法律事務所の耐火・防盗極秘金庫に、もう一通は駿介の金庫に保管されることになる。この瞬間、二人は法的に、そして経済的に、一蓮托生の「完璧な仮面夫婦」となったのだ。


「契約は完了しました」


 高瀬は書類を金庫に収め、重厚なダイヤルを回してロックした。静まり返る部屋の中で、彼は静かに眼鏡を外し、琴音をまっすぐに見つめた。その眼差しには、弁護士としての冷徹な仮面の裏に隠された、一人の年長者としての、そして「第2の父親」としての、張り裂けんばかりの痛みが滲んでいた。


「琴音様……。宗一郎様がもし生きておられたら、この愛なき硝子の契約を、どう思われたでしょうか……」


 その言葉が、静寂の部屋に冷たく響き渡った。


 琴音の胸に、鋭い氷の針が突き刺さるような痛みが走る。亡き父・宗一郎の厳しい横顔が脳裏をよぎった。「他者を信じるな。数字だけを信じよ」――そう彼女に叩き込んだ父。だが、その父がもし、自分がこのような血も涙もない契約書で自らの人生を縛り付けたことを知ったら、果たして誇りに思うのだろうか。それとも、自らの教育が娘をここまで凍りつかせたことを悔やむのだろうか。


 琴音の呼吸が、ほんの一瞬だけ浅くなる。


 その僅かな動揺を、隣に立つ駿介の漆黒の瞳が、静かに、しかしすべてを見透かすように捉えていた。だが、彼は何も言わず、ただ自身の腕時計に視線を落とした。残された時間は、あと四十六時間。仮面を被った二人の、不敗の旅路が今、幕を開けようとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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