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深海に潜む支配者

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大雨の銀座は、底知れぬ欲望を吸い込んで黒く光る深海のようだった。


 氷室琴音は黒塗りのクーペを路肩に滑らせ、傘も差さずに車を降りた。激しい雨が仕立ての良いグレーのパンツスーツを濡らすが、そんなことを気にする余裕は一分一秒たりともない。彼女に残された時間は、あと四十七時間。大手町の役員室で勝ち取った一時的な猶予は、砂時計のように冷酷に零れ落ちている。


 向かったのは、銀座の路地裏にひっそりと佇む、看板のない重厚なブロンズの扉。政財界の限られた超大物しか入会を許されない、会員制クラブ「深海」だ。


 エントランスで濡れたジャケットを預け、冷たい空気の流れる廊下を進む。重々しい防音扉の向こうに広がるのは、深海を思わせる深いインディゴブルーのベルベットと、マホガニーの調度品。そして、その最奥の個室で、その男は待っていた。


「――遅かったな、氷室の女王」


 低く、地響きのように心地よく、しかし骨の髄まで凍りつかせるような声。ソファの背もたれに深く身を預け、バカラのクリスタルグラスを傾けている男――黒崎駿介だった。


 ダークネイビーの三ピーススーツを完璧に着こなし、一糸乱れぬ漆黒の髪。その整った顔立ちは、ギリシャの彫刻のように冷徹で美しい。彼の背後には、寸分の乱れもない姿勢で立つ黒崎ホールディングス会長秘書室長、佐伯誠が影のように控えている。


 駿介は、日本の金融市場を単独で動かせる圧倒的な権力者――カリスマ経営者・財閥総帥(Tier 2)としてのオーラを全身から放っていた。


「約束の時間は二分過ぎている。私の時間は、君の崩壊寸前の会社よりも価値があるのだが?」


 駿介の漆黒の瞳が琴音を射抜く。琴音は息を整え、彼の正面の革製ソファに滑り込んだ。湿った髪が頬に張り付くのも構わず、ブリーフケースから一通の書類を取り出し、テーブルの上へ滑らせる。


「挨拶は省略させていただきます、黒崎社長。私に残された時間は少ない。――これが、私からの提案です」


 書類の表紙に躍る文字は、『婚姻契約書草案』。


 駿介はグラスを回し、氷の音を響かせた。その視線は書類に向けられることもなく、琴音の顔に固定されている。彼の表情には何の揺らぎもない。これこそが、ウォール街の修羅場と黒崎家の内紛で鍛え上げられた、駿介の「絶対的ポーカーフェイス(無表情の武装)」だった。琴音の天賦の才である「微表情の瞬時解読」をもってしても、彼の皮膚のわずかなピクリとも動かない。まるで底の知れない暗闇を見つめているかのようだった。


「契約結婚、か」


 駿介は冷淡に呟いた。その声には、驚きも、呆れも、ましてや興味すら含まれていない。


「佐伯」


 駿介が短く呼ぶと、背後の佐伯誠が静かに一歩前へ進み、手元のタブレット端末をテーブルに置いた。画面に表示されたのは、氷室フィナンシャルグループの最新の財務諸表と、ヴァルキリー・ファンドによる株買い占めのシミュレーションデータだった。


「氷室社長」と、佐伯が感情を排した声で説明を始める。「我が方の調査によれば、氷室グループの資金繰りは極めて悪化しています。専務の佐々木厳はすでに外資と結託し、あなたを社長の座から引きずり下ろす準備を完了している。この状況で、我がグループが氷室を救済するメリットは、計算上『ゼロ』です」


 駿介が冷ややかにグラスを置いた。


「佐伯の言う通りだ。氷室はすでに沈みゆく泥船。救済の価値なし。私の辞書に、慈善事業という言葉はない。君がいくら美しく、哀れな被害者を演じようとも、私の資本を動かすことはできない」


 完全に突き放された。凡百の経営者であれば、この冷酷な拒絶に絶望し、涙を流して縋り付いたかもしれない。だが、琴音は「氷の女王」だ。彼女は最初から、感情的な同情など期待していない。


「慈善事業を求めているのではありません。これは『等価交換』のビジネスです」


 琴音は背筋を伸ばし、サファイアの瞳を鋭く輝かせた。


「氷室が崩壊すれば、次にヴァルキリーが狙うのは黒崎ホールディングスです。佐々木専務の背後には、元金融庁長官の神崎玲がいます。奴の狙いは、両財閥を共倒れさせ、日本の金融市場を完全に支配すること。黒崎社長、あなたもまた、神崎によって大切なものを奪われたのではないですか?」


 その瞬間、駿介の「絶対的ポーカーフェイス」に、ほんの一瞬――わずか零点一秒、目元の筋肉が内側に収縮する「極限の怒りと憎悪」の微表情が現れた。琴音の瞳が、その綻びを逃さず捉えた。


(――やはり。お父さんの遺言書にあった通り、この男も神崎を憎んでいる。これが、私の最大の切り札)


 琴音は一気に攻勢に出る。


「私には、開発中の次世代金融AIプラットフォーム『アテナ』のプロトタイプがあります。私の市場予測アルゴリズムを組み込んだこのシステムは、ヴァルキリーの超高速空売り工作を完全に無力化できる。この技術を黒崎ホールディングスに提供し、両社の株式を相互に持ち合って防衛ラインを敷く。これが、婚姻契約書の裏に隠された駿介の真の目的――神崎への復讐を果たすための、唯一の現実的な手段です」


 沈黙が個室を支配した。雨の音だけが重く響く中、駿介はゆっくりと身体を起こし、琴音を凝視した。その瞳の奥には、冷酷なハゲタカではなく、獲物を値踏みする冷徹な捕食者の光が宿っている。


「……面白い。ただの無能な二代目お嬢様だと思っていたが、どうやらその牙は本物のようだ」


 駿介は初めて、書類を手に取り、パラパラとページをめくった。


「違約金百億円。愛は排除する。目的達成後は即離婚。……徹底しているな」


「お互いに感情はビジネスの不純物です。取引を最も強固にするのは、愛ではなく、破滅への恐怖を担保にした契約書だけですから」


 琴音が冷たく言い放つと、駿介の口元に、初めて危険な笑みが浮かんだ。それは、狂気と知性が融合した、底知れぬ男の笑みだった。


「いいだろう、氷室琴音。その取引、黒崎ホールディングスが買い取ろう。ただし、条件がある」


 駿介は書類をテーブルに放り投げ、琴音に顔を近づけた。彼の吐息が触れるほどの距離。しかし、その瞳には一滴の情熱もなく、ただ冷徹な支配欲だけがある。


「私の前では、君に一切の自由はない。メディアの前では完璧な愛妻を演じ、私の指示には絶対服従してもらう。君の人生のすべてを、百億円の違約金とともに私の支配下に置く覚悟はあるか?」


「ええ、望むところです」


 琴音は一歩も引かず、駿介の漆黒の瞳を見つめ返した。


「私を抱く必要はありません。ただ、完璧な仮面を被ってください」


 駿介の口元に浮かんだ危険な笑みが、さらに深くなった。


「交渉成立だ、氷の女王。君の檻に、私を招き入れよう」

HẾT CHƯƠNG

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