氷の女王の孤立無援
ガラスの檻――大手町にそびえ立つ氷室フィナンシャルグループ本社ビルの最上階役員室を、氷室琴音はそう形容していた。
窓の外では、灰色に濁った東京の空から激しい雨が降り注ぎ、超高層ビルの窓ガラスを容赦なく叩いている。地上二百メートルから見下ろす大都会の景色は、まるで冷酷な数字の羅列のように味気ない。しかし、そのガラスの檻の内側に立ち込める熱気と悪意は、外の豪雨よりも遥かに琴音の身を脅かしていた。
「琴音社長。いや、あえて琴音『お嬢様』とお呼びしましょうか」
マホガニーの長大な円卓の最奥から、低く、ねっとりとした声が響いた。声を上げたのは、専務取締役の佐々木厳。仕立ての良いグレーのオーダーメイドスーツを窮屈そうに纏った恰幅の良い男だ。その双眸には、隠しきれない権力欲と、二十六歳という若さで頂点に君臨した琴音に対する強烈な侮蔑がぎらぎらと光っている。
「前社長の宗一郎氏が謎の心臓発作で急逝されてから、まだ一週間。我々役員会も、あなたの就任を特例として認めた。しかし、この一週間の市場の動向はどうだ? 我がグループの株価は乱高下し、大口顧客からは経験不足を懸念する声が殺到している。時価総額八千億円を誇る氷室の舵取りを、経営経験すらない小娘に任せるなど、土台無理な話だったのだ」
佐々木が仰々しく両手を広げると、円卓を囲む白髪交じりの役員たちが一斉に頷いた。同調圧力という名の、目に見えない包囲網が琴音に向かって急速に狭まっていく。
琴音は背筋をまっすぐに伸ばし、ただ沈黙を守っていた。仕立ての良いダークグレーのパンツスーツに、低めに結んだ黒髪。胸元には、氷室家当主の証であるサファイアのピンが冷たい光を放っている。その佇まいは、まるで嵐の中に立つ一本の氷柱のようだった。
彼女の武器は、冷徹な論理思考だけではない。幼少期、厳格すぎる父・宗一郎の顔色を窺い、その支配から生き延びるために極限まで研ぎ澄まされた天賦の才――「微表情(マイクロエクスプレッション)の瞬時解読」があった。
琴音の鋭い視線が、円卓に並ぶ役員たちの顔を静かに走る。
佐々木の隣に座る社外取締役の志村孝が、大声で追及を重ねた。
「そうだ! これ以上の混乱は株主に対する背信行為だ。佐々木専務の言う通り、本日ここに、氷室琴音社長の代表権剥奪、および社長解任動議を正式に提出する!」
志村がテーブルを叩く。その瞬間、琴音の瞳が彼の顔に現れた「0.2秒の綻び」を捉えた。志村の左の目元が微かに引きつり、視線が佐々木の胸元へと流れた。そして、自らの懐にあるスマートフォンを触るように指先が動く。
(――なるほど。志村取締役は、佐々木専務から次の『ポスト』を約束されている。あの焦り方は、すでに裏でヴァルキリー・ファンドの代理人と接触し、インサイダー取引の手数料を受け取った後だから。私を引きずり下ろさなければ、自分の不正が露呈する恐怖に駆られているのだわ)
琴音はさらに視線を動かす。叔父である日和見主義の慎太郎は、額に脂汗を浮かべ、琴音と目を合わせようとすらしない。彼は佐々木の脅迫に屈している。誰も、この部屋に琴音の味方はいない。完全な孤立無援。危うい玉座(Tier 4)の真実が、そこにあった。
「どうした、琴音社長。反論もないか?」
佐々木が勝ち誇った笑みを浮かべ、あらかじめ用意されていた辞任合意書を琴音の前に滑らせた。ペンを握らせ、署名を強制するための冷酷なペーパーワークだ。
沈黙が役員室を支配する。誰もが、この小娘が泣き出すか、あるいは無様に怒鳴り散らすのを期待していた。だが、琴音の薄い唇から漏れたのは、冷ややかな、そして鈴の音のように澄んだ声だった。
「佐々木専務。そして志村取締役」
琴音はゆっくりと立ち上がった。その一挙手一投足には、創業家としての揺るぎない気品が宿っている。彼女は前に滑らされた合意書を一瞥もせず、脇に置いた革のファイルから一通の書類を取り出した。
「あなた方の会社に対する忠誠心には敬意を表します。ですが、この解任動議は、法的に『手続き不備』であり、無効です」
「何だと……!?」
佐々木の眉が跳ね上がった。琴音はその微表情に「無知からくる動揺」を読み取りながら、冷徹に言葉を紡ぐ。
「氷室フィナンシャルグループ基本定款、第三十四条第二項。――創業者である祖父・雅治が制定し、亡き父・宗一郎が強化した特別条項です。代表取締役の急逝に伴い後継者が就任した場合、就任から三十日以内に提出される解任動議については、すべての外部独立取締役に対する『四十八時間前の事前書面通知』、および一族の信託財産代理人である高瀬弁護士の立ち会い、同意を必須と定めています」
琴音は定款の写しを卓上に提示した。志村の顔が引きつり、佐々木は背後の法務担当者へ鋭い視線を送った。法務担当者は青ざめた顔で小さく首を横に振る。佐々木の一派は、琴音の若さを侮るあまり、氷室の古い定款に隠された「防衛トラップ」を見落としていたのだ。
「そんな化石のような規定が……!」
「化石であろうと、法的に有効な我が社の最高規範です」
琴音は佐々木をまっすぐに見つめ返した。その瞳は、一点の曇りもないサファイアのように冷徹だ。
「事前通知は送られておらず、高瀬弁護士の立ち会いもありません。したがって、本日の決議は定款違反により無効。私はこの臨時役員会の『四十八時間の保留および延期』を宣言します。――これ以上の強行は、株主代表訴訟の対象となりますが、佐々木専務、あなたにその個人賠償を背負う覚悟がおありですか?」
静まり返る役員室。佐々木は拳を握りしめ、壊れそうなほどに歯を食いしばった。琴音の論理的な手続き論の前に、数の暴力は一時的に沈黙せざるを得なかった。
「……チッ。小賢しい真似を。四十八時間の猶予など、死刑宣告が引き延ばされたに過ぎんぞ、琴音!」
佐々木が吐き捨てるように言い、席を蹴って立ち上がった。役員会は散会となったが、琴音の勝利ではない。四十八時間。それが、彼女に残された最後の砂時計の寿命だった。
役員室を出た琴音の背中を、秘書の桜井萌が青ざめた顔で追いかけてくる。
「しゃ、社長……! お見事でした、ですが……」
「わかっているわ、萌。佐々木専務は次の役員会までに、より強硬な手段を講じてくる。外部のファンドを動かし、株価を意図的に引き下げて私を引きずり下ろす。四十八時間以内に、私を支える『圧倒的な後ろ盾』を用意しなければ、氷室は乗っ取られる」
「後ろ盾って、そんなの、この短時間でどうやって……!」
「方法はあるわ」
琴音はエントランスのガラス越しに、激しく降り続く雨を見つめた。その脳裏に浮かぶのは、氷室と敵対するもう一つの巨大帝国、黒崎ホールディングスの若き社長――黒崎駿介の姿だった。
「萌、今日のスケジュールをすべてキャンセルして。高輪の別邸ではなく、私が自ら車を運転して向かう場所があるの」
「え? どこへ行くのですか?」
「――深海へ。私を『氷の女王』と呼ぶハゲタカに、取引を持ちかけに行くのよ」
琴音は萌の制止を振り切り、地下駐車場へと向かった。彼女の手には、父の遺品である懐中時計と、自身の人生を賭けた「ある契約書」が握られていた。
嵐の東京。黒塗りのクーペのエンジンが重低音を響かせて起動する。琴音はアクセルを強く踏み込み、大雨の降りしきる首都高速道路へと車を走らせた。ワイパーが視界を遮る雨水を激しく払い落とす。その行く先に待つのは、救済か、それとも底知れぬ深淵か――。
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