黄金の聖雨:枯死せる結界樹の蘇生
魔界の夜は重く、そして息が詰まるほどに濁っていた。
国境付近に広がるハーフエルフの隠れ里を取り囲む森は、今や異様な黄金色の霧に包まれていた。それは光を崇める聖光教国ルミナスが「神の奇跡」と称して散布した、極悪な人工瘴気――『神の毒ガス』。吸い込めば肺腑を内側から焼き焦がし、魔族や亜人の魔力回路を狂わせるバイオテロ兵器だった。不気味な微光を放つ毒霧が、静かに、だが確実に里の生気を吸い上げていく。
カタ、カタと静かに揺れる馬車の窓から、私はその光景を冷徹に見つめていた。
私の身を包むのは、ドワーフのゲオルグが仕立て上げた新たな衣――『背徳の聖衣』。光を吸い込む漆黒の金属「魔界の黒曜鉱」が編み込まれたドレスは、車内に侵入しようとする黄金の毒霧を自動的に弾き、私の神聖な気配が外に漏れるのを完璧に防いでいた。白銀の長い髪が、黒レースの襟元に美しく散る。首元で妖艶に輝く「血のチョーカー」の深紅の宝石が、私の胸の内で燃える復讐の炎を証明しているようだった。
「エミリアーノ様、ハーフエルフの里に到着いたしました。ですが、里の結界が……」
御者台からルルの無口な声が響く。馬車が止まったのは、かつては美しかったであろうハーフエルフの隠れ里の入り口だった。だが、今の里は「死の都」と化していた。
里の中央にそびえる巨大な『結界樹』は、人工瘴気に侵されて葉をすべて黒く腐らせ、幹からはどす黒い樹液が涙のように流れ落ちていた。結界樹が枯死しかけたことで、里を保護していた防衛線は完全に崩壊している。地面には、高熱にうなされる亜人や難民たちが折り重なるようにして倒れ、絶望的な喘ぎ声を漏らしていた。
「ああ、神よ……なぜこのような試練を……っ!」
里の薬草師たちが、必死に独自の解毒薬を亜人たちの口に流し込んでいたが、彼らの薬は教国が開発した最新の毒ガスにはまったく歯が立たない。薬を飲んだ獣人が激しく血を吐き、薬草師は絶望にその場へへたり込んだ。ただの自然災害ではない。これは、教国が私の生存を確認するために仕掛けた、おぞましい罠なのだ。
私が馬車から一歩、荒廃した泥の上に降り立ったその瞬間――ひゅう、と空気を切り裂く鋭い音が響いた。
一筋の風の矢が、私の喉元からわずか数ミリメートルの距離をかすめ、背後の馬車に深く突き刺さる。突き刺さった矢の周囲の空気が、キィィンと不気味に震えていた。
「そこまでだ、教国の汚れし聖職者め。我が里にこれ以上の毒を撒き散らすつもりなら、その首を容赦なく射抜く」
霧の奥から現れたのは、黒い革鎧に引き締まった肢体を包んだ、クールなハーフエルフの美女――里の長、セリア・シルヴァルトだった。長く尖った耳を警戒に震わせ、その背には巨大な魔弓『風穿ちの魔弓』が番えられている。その翡翠の瞳には、かつて教国に故郷を焼かれたことで刻まれた、人間に対する絶対的な憎悪と殺意が宿っていた。
セリアの放つ張り詰めた殺気に対し、私は一歩も退くことなく、静かに彼女を見つめ返した。私の翡翠の瞳に魔力を集中させ、特殊能力『嘘の看破(魂の濁り視)』を起動する。
セリアの魂の輪郭が、私の視界に浮かび上がる。そこにあるのは、純粋な悪意ではない。故郷を奪われ、今また同胞を失おうとしている、淡い青紫色をした「極限の絶望」と「深い悲哀」だった。彼女はただ、これ以上大切な者を失う恐怖に耐えかね、必死に牙を剥いているに過ぎない。
「私を射抜けば、この里の者は全員死にますよ、セリア。それでも良いのなら、その引き金を引きなさい」
私の凛とした声に、セリアの弓を引く指先が微かに揺れた。
「戯言を! 教国の人間が、我らを救うはずがない! 貴様らはいつもそうやって慈愛を騙り、裏で我らの命を搾取してきたのだ!」
セリアが激昂し、魔弓の弦をさらに引き絞ったその時、里の奥から悲痛な叫び声が響き渡った。
「長! カリンが……カリンの呼吸が止まりかけています!」
「何だと……っ!?」
セリアの顔が血の気を失った。その隙を見逃さず、私は彼女の横をすり抜け、倒れ伏す亜人たちの方へと迷いなく歩み出た。泥にまみれた荒野を進む私の背中を、セリアは驚愕と警戒の目で見つめ、魔弓を番えたまま私の後を追う。
難民の天幕の前に横たわっていたのは、灰色の狼の耳と尻尾を持つ、幼い獣人の少女カリンだった。彼女の小さな体は、瘴気熱によって異様な高熱を帯び、皮膚のあちこちには黄金色の毒素の斑点が浮かび上がっていた。黒い血を吐きながら、弱々しく胸を上下させるその姿は、いつ息を引き取ってもおかしくない。
「カリン……! くそ、解毒が間に合わないのか……!」
セリアが膝を突き、カリンの小さな手を握りしめて絶望に声を震わせる。その横に、私は優雅に『背徳の聖衣』の裾を翻して跪いた。泥が黒曜鉱のドレスを汚したが、私は気にも留めなかった。
「触るな、汚らわしい人間め!」
セリアが私の手を拒絶しようとしたが、私は彼女の鋭い眼光を冷たく見つめ返した。
「黙って見ていなさい。私を拒むということは、この子の死を選択することと同義です」
私の圧倒的な覇気に気圧され、セリアは一瞬息を呑み、伸ばしかけた手を止めた。
私はカリンの小さな体を両腕で優しく抱きしめ、彼女の額にそっと白皙の手を当てた。そして、私の中に眠る神聖魔力を起動する――『聖光の抱擁』。
私の手のひらから、温かく艶やかな黄金の光が放たれ、カリンの全身を包み込んだ。魔族にとって脳を灼くほどの快感と圧倒的な安息をもたらすその光は、カリンの体内を巡る人工の瘴気を一瞬で中和し、崩壊しかけていた魔力回路を瞬時に再生させていく。カリンの苦しげだった呼吸がすっと穏やかになり、黄金の毒素の斑点が皮膚から綺麗に消失していった。
「う……ん……っ」
カリンがゆっくりと大きな目を開け、私の顔を見上げた。その瞳には、先ほどまでの濁った熱はなく、澄んだ光が宿っている。
「光の……お姉様……? あったかい……」
カリンは私のドレスの袖を小さな手でぎゅっと握りしめ、安堵したように微笑んだ。
「な、何という奇跡だ……。教国の毒ガスによる瘴気熱が、一瞬で消え去った……!?」
周囲の薬草師や亜人たちが、信じられないものを見る目で私を見つめ、ざわざわと騒ぎ始めた。セリアもまた、魔弓を握る手をだらりと下げ、信じがたい現実に言葉を失っていた。
だが、一人を救っただけでは、この里の絶望は終わらない。里全体に立ち込める『神の毒ガス』を完全に消し去り、枯死しかけている『結界樹』を蘇生させなければ、難民たちは再び瘴気に侵されて死に至るだろう。
里全体を浄化するためには、広域浄化術『浄化の聖雨』を展開しなければならない。だが、現在の私の神聖魔力はゲオルグの治療により18%にまで低下している。この状態で広範囲の魔法を放てば、私の魔力回路が過負荷で破裂しかねない。
(……少し、貴方の力を借りるわよ、レオンハルト)
私が心の中でそう呟いた瞬間、私の足元の影が急激に膨らみ、赤黒い溶岩の光を放つ巨大な影が現れた。空間を裂いて姿を現したのは、龍魔王レオンハルトだった。彼の黄金の瞳には、私に対する狂おしいほどの独占欲と、他の亜人たちが私に触れていることへの激しい「嫉妬」の熱が宿っていた。
「エミリアーノ、俺の目を盗んでこのような泥に塗れた場所へ来るなど、良い度胸だな。お前は俺だけの治療道具だと言ったはずだ」
レオンハルトは傲慢に言い放ちながらも、私の背後にそっと歩み寄り、その強固な手を私の腰へと回した。首元の『血のチョーカー』がドクンと脈打ち、私たちの間で絶対的な契約の魔力循環が完成する――『龍の血誓』の深化。
レオンハルトの体内を巡る強大な龍の魔力が、血誓の契約を通じて私の魔力回路へと流れ込み、枯渇しかけていた私の神聖魔力を急速に増幅させていく。漆黒の炎と黄金の光が、私たちの周囲で螺旋を描くようにして渦巻いた。
「お前の光を、存分に見せてみろ。この俺の魔力ですべてを埋め尽くしてやる」
魔王の圧倒的な魔力を得た私は、手に持っていた白銀の杖――『天帝の聖杖』を天へと高く掲げた。黄金の魔力波形が私の翡翠の瞳を黄金色に染め上げ、背徳の聖衣の黒レースが風に激しくたなびく。
「天よ、偽りの光を洗い流し、大地に真の安息を与えなさい――『浄化の聖雨(プルビア・セイント)』!」
私が凛とした声で呪文を詠唱した瞬間、聖杖の先端からまばゆい黄金の光の柱が天へと放たれた。黄金の光は暗雲を貫き、里の上空に立ち込めていた『神の毒ガス』を一瞬にして吹き飛ばした。
そして、天からキラキラと黄金に輝く、美しい光の雨が降り注ぎ始めた。
黄金の雨が触れた瞬間、大気中に残留していたすべての瘴気が音を立てて霧散していく。地面に染み込んでいた黄金色の毒素が洗い流され、荒れ果てていた泥の大地から、青々とした瑞々しい草花が急速に芽吹き始めた。
「結界樹が……結界樹が蘇るぞ!」
誰かの叫び声に、全員が里の中央を見上げた。黒く腐り、枯死しかけていた巨大な結界樹が、黄金の雨をその全身に浴びて、幹の傷を一瞬で塞いでいく。黒い樹液の代わりに、神聖な光の粒子が幹を巡り、枝先からは一斉に、鮮やかな緑色の若葉が芽吹き、里全体を包み込む強固な緑の結界が再構築されていった。
黄金の雨を浴びた難民や亜人たちは、その場で体調が劇的に回復していくのを感じ、次々と立ち上がった。彼らの瞳からは瘴気の濁りが完全に消え去り、奇跡の光景に震えていた。
「ああ……神よ、本物の、本物の聖女様だ……!」
誰かが跪き、私に向かって祈りを捧げ始めた。それを皮切りに、天幕の周囲にいた数百人の亜人や難民たちが、次々と泥の上に膝を突き、私に向かって狂信的な平伏を捧げ始めた。彼らにとって、教国の「有料の奇跡」とは違う、無条件で命を救ってくれた私こそが、唯一無二の「真の救世主」となったのだ。
黄金の雨が降り注ぐ中、セリア・シルヴァルトは自身の『風穿ちの魔弓』を泥の上に落とした。彼女のプライドと、人間に対する根深い憎悪は、目の前で行われた圧倒的な「無条件の救済」によって、根底から完全に粉砕されていた。
セリアは雨に打たれながら、ゆっくりと私の足元へと歩み寄り、泥の上に深く膝を突いた。彼女の翡翠の瞳からは、人間への呪いではなく、自身の愚かさと深い感謝が混ざり合った涙が溢れ落ち、泥を濡らしていた。
「……人間を呪っていた私をお斬りください。ですが、我が一族は今日より貴女様の影となります」
セリアは私のドレスの裾をそっと掴み、忠誠の誓いを立てた。その言葉に、私は慈悲深く、そして冷酷な女王の笑みを浮かべた。これで、魔王の支配下ではない、私個人の「直属隠密部隊」が国境に完成したのだ。
私がセリアの頭を優しく撫でようとしたその時、蘇生した結界樹の根元に、不気味に黒紫色の光を放つ小さな結晶が露出しているのが目に入った。それは、教国が意図的に地脈を汚染するために埋め込んでいた、高濃度の瘴気結晶――『瘴気結晶「ディスピアの種」』。
教国の非道なバイオテロの決定的な証拠。それを見つめる私の元へ、一人の龍族の斥候が血相を変えて駆け込んできた。
「エミリアーノ様、レオンハルト様! 国境の関所『鉄の門』より、教国軍の正規追撃部隊が、この里の生存反応を感知して急速に接近中との報告が!」
教国の猟犬たちが、私の光を追ってすぐそこまで迫っていた。復讐の夜会は、まだ始まったばかりだった。
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