黒曜石の聖衣:叛逆の仕立て
「お前は、俺だけのものだ。他の悪魔どもに、その光を分け与えることなど、絶対に許さん……」
漆黒の聖堂へと戻る道すがら、龍魔王レオンハルトの狂おしい独占欲に満ちた言葉が、私の耳の奥で甘く、そして重く響き続けていた。手元にあるのは、彼の鋭い爪で自ら傷つき、その赤い龍血が微かに滲んだ一輪の黒薔薇。私はその花弁をそっと指先でなぞり、暗闇の中で妖艶な笑みを浮かべた。
傲慢なる龍の王よ。私を都合の良い治療道具としてこの城に幽閉したつもりでしょうが、貴方が私に執着すればするほど、その首に繋がれた見えない鎖は深く、貴方の魂を縛り上げるのですよ。
「エミリアーノ様、お足元をお気をつけください」
傍らに控えるメイドのルルが、ランタンの灯りで私の行く手を照らしながら、囁くような声で言った。彼女の頭部から生えた小さな一対の黒い角が、薄暗い廊下でかすかに揺れる。先ほど彼女の手の甲の傷を私の聖光で癒やして以来、ルルの無表情だった瞳には、私に対する深い傾倒と、微かな恍惚の熱が滲んでいた。監視役としての冷徹さはすでに消え失せ、私を害するものから守ろうとする従者としての本能が芽生え始めている。
だが、今の私には一つ、どうしても解決しなければならない問題があった。ふと視線を落とすと、私の身を包む純白の「聖光の治癒衣」は、教国の大聖堂地下から奈落へと突き落とされた際の泥にまみれ、裾は無残に引き裂かれていた。自動防御の結界こそ辛うじて機能しているものの、このままでは魔界の過酷な瘴気に晒され、私の神聖魔力を増幅する法衣としての機能が徐々に劣化してしまう。
「ルル。この城で最も優れた腕を持つ鍛冶師の元へ案内しなさい。私のこの汚れた衣を、魔界の力で仕立て直す必要があります」
「……ゲオルグの工房ですね。かしこまりました。あの方は非常に頑固で、人間を激しく嫌っておりますが……エミリアーノ様のためなら、喜んでご案内いたします」
ルルは躊躇うことなく、レオンハルトの監視を欺くようにして、私を城の地下深くへと導いた。
階段を下りるにつれ、空気は地熱を帯びて重くなり、硫黄の匂いと鉄を叩く重々しい音が響いてきた。龍魔王城「ドラッヘンフェルス」の最下層。そこには、赤黒い溶岩が川のように流れる、巨大なドワーフの工房が広がっていた。飛び散る火花と地脈の熱気が、引き裂かれた私の衣を揺らす。
「おい、誰の許可を得てここに入り込んだ!」
火炉の前から、地響きのような低い声が響いた。そこに立っていたのは、太い腕と立派な白髭を持つ、小柄だが頑強なドワーフの老人、ゲオルグだった。彼は巨大な「黒鉄の鍛冶槌」を肩に担ぎ、煤で汚れたエプロンを揺らしながら、鋭い眼光で私を睨みつけた。
「……人間の女か。しかも、あの忌々しいルミナス教国の神官衣を着てやがる。帰れ! 俺たちの同胞を奴隷として鉱山で酷使し、使い捨てにしやがった教国の人間を、俺はこの工房に一歩たりとも通すつもりはねえ!」
ゲオルグは床に激しく唾を吐き、明確な敵意と偏見を露わにした。その全身から放たれる頑固一徹な覇気が、工房内の温度をさらに引き上げる。
「ゲオルグ、無礼ですよ。このお方はレオンハルト様の――」
ルルが私の前に立ち、鋭い角を向けて説得しようとしたが、ゲオルグはそれを鼻で笑った。
「魔王様が人間の小娘を囲おうが、俺の知ったことか! 俺は技と誇りに生きる職人だ。教国の偽善者どものために振るう槌は持ち合わせていねえ!」
言葉での説得は無駄。ルルの忠告すら跳ね返すその頑なな心を、私は「嘘の看破」を用いて静かに観察した。私の翡翠の瞳が微かに黄金色に輝き、彼の魂の波形を捉える。ゲオルグの魂は、教国への強烈な憎悪と、職人としての誇りで満ちていた。しかし、その右肩から腕にかけて、どす黒い瘴気の霧が不気味に渦巻き、彼の骨を内側から激しく蝕んでいるのが見えた。――『 shouki による骨の腐食』。長年、魔界の過酷な地脈の熱と瘴気に晒され続けた結果、彼の肉体は限界を迎えているのだ。槌を握るその指先は、微かに激痛で震えていた。
「……貴方のその右肩。ずいぶんと痛むようですね、ゲオルグ」
私はルルを優しく手で制し、ゲオルグに向かって真っ直ぐに歩み出た。
「何だと……!?」
「数十年の間、地脈の瘴気に骨を蝕まれ、夜も眠れないほどの激痛に耐えながら槌を振るってきた。その職人としての誇りは見事ですが……その腕、もう数ヶ月も持たないわ。次にその重い槌を振り下ろした瞬間、貴方の右腕の骨は内側から粉々に砕け散る」
私の冷徹な指摘に、ゲオルグの顔が驚愕で強張った。彼は己の病を誰にも明かさず、ただ一人で耐え抜いてきたのだ。それを、初対面の人間の小娘が一瞬で見抜いたのだから、動揺しないはずがない。
「ふん、ハッタリを抜かすな! 教国の聖女が、俺の身体をどうこう言える立場か!」
「ハッタリかどうか、今すぐ証明して差し上げましょう。……私の光が痛いか、それとも救いか、その身で試してみなさい」
私はゲオルグが構える巨大な槌を恐れることなく、彼の眼前にまで肉薄した。そして、引き裂かれた袖から白皙の細い手を伸ばし、彼の右肩へと直接触れた。
「なっ……やめろ、汚らわしい光で俺を焼く気か!」
ゲオルグは身を捩ろうとしたが、私の手のひらから放たれた圧倒的な神聖魔力が、彼の肉体を瞬時に包み込んだ。それは、魔族にとって脳を灼くほどの甘美な快感と、絶対的な安息をもたらす「聖光の抱擁」の力。
「ぐ、あ……っ!? これは、何だ……!?」
ゲオルグの口から、苦悶とも恍惚ともつかない掠れた悲鳴が漏れた。彼の右肩から、数十年の間彼を苛み続けていたどす黒い瘴気の霧が、黒い煙となってシューシューと音を立てて吐き出されていく。私の聖光が彼の骨の髄まで浸透し、腐食していた細胞を瞬時に再生させ、地脈の呪いを完全に洗い流していく。
「あ、ああ……熱い、だが、信じられないほど軽い……。痛みが、消えていく……!」
ゲオルグは膝から崩れ落ち、自身の右手を何度も握りしめた。槌を握るたびに走っていたあの鋭い激痛が、嘘のように完全に消失していた。彼の黄金の瞳には、驚愕と、そして言葉にできないほどの深い感謝の涙が浮かんでいた。
「……どうかしら、ゲオルグ。私の光は、貴方を滅ぼす毒だったかしら?」
私は彼を見下ろし、慈悲深くも冷徹な笑みを浮かべた。ゲオルグは自身の非礼を深く恥じるように、床に頭を擦り付け、震える声で懇願した。
「お、お許しください、エミリアーノ様……! 俺は、何という愚かな思い込みをしていたんだ。貴女様は教国の偽善者どもなどとは違う、本物の『救世主』だ。このゲオルグ、生涯をかけて貴女様の忠実な鍛冶師となり、その力を捧げることを誓います!」
頑固なドワーフの心が、私の圧倒的な「治療の奇跡」の前に、完全に粉砕され、狂信的な忠誠へと作り変えられた。私は彼の頭を優しく撫で、その絶対的な服従を受け入れた。
「良いでしょう、ゲオルグ。ならば、私のこの汚れた衣を仕立て直しなさい。魔界の過酷な瘴気を弾き、私の光を遮断する、私にふさわしい新しい衣を」
「は、はい! それならば、我が一族が命がけで火山帯の最深部から採掘した、最高の金属『魔界の黒曜鉱』がございます! 光を完全に吸収し、物理・魔法双方の攻撃を遮断する、超硬質の魔導金属です。これを用い、貴女様のためだけの特別な聖衣を仕立ててみせましょう!」
ゲオルグは立ち上がると、狂気的な熱意を瞳に宿し、工房の奥から漆黒に輝く不思議な金属「魔界の黒曜鉱」を取り出してきた。彼は「黒鉄の鍛冶槌」を振るい、地脈の熱を直接引き出す「魂の鋳造」を用いて、金属を極限まで薄く、そしてしなやかな繊維状へと成形していく。ルルもまた、魔王城から集めてきた最高級の黒レースと金の刺繍糸を手に、ゲオルグの作業を喜々として手伝った。
数時間の後、工房の火炉の光の中に、完成した新たな衣が浮かび上がった。
それは、かつての純白の教皇衣とは対極に位置する、退廃的な美しさに満ちたドレスだった。光を吸い込む「魔界の黒曜鉱」が黒いシルクのように織り込まれ、胸元と袖口には、私の肌の白さを際立たせる繊細な黒レースがあしらわれている。そして、ドレスの裾と襟元には、龍魔王城の権威を示す豪奢な金の刺繍が施されていた。
私は引き裂かれた古い衣を脱ぎ捨て、完成した「背徳の聖衣」へと身を包んだ。肌に吸い付くような黒曜鉱の冷たい質感と、首元の「血のチョーカー」の深紅の輝きが、絶妙なコントラストを描く。
鏡の前に立つ私の姿を見て、ルルは顔を紅潮させ、恍惚とした表情でその場に跪いた。
「ああっ……美しい……。エミリアーノ様、まるで魔界を統べる本物の女王のようです……」
ゲオルグもまた、自身の最高傑作と、それを完璧に着こなす私の圧倒的なカリスマの前に、深く頭を垂れた。
白銀の長い髪と、黄金色に微かに輝く翡翠の瞳。そして、黒と金、黒レースが織りなす「背徳の聖衣」。その姿は、教国の清廉なる聖女などではなく、魔界の闇をも従える、絶対的な「支配者」そのものだった。
「素晴らしい出来栄えです、ゲオルグ。この衣と共に、私は教国の偽りの光をすべて焼き払い、世界の天理を書き換えて差し上げましょう」
私が大鎌を構えるように優雅に微笑んだその時、工房の扉が激しく開き、血相を変えた龍族の衛兵が駆け込んできた。その手には、国境付近の「ハーフエルフの里」が、教国軍の放った人工瘴気によって崩壊の危機に瀕しているという、最悪の知らせが握られていた。
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