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薔薇の檻と大悪魔のチェス盤

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龍魔王城「ドラッヘンフェルス」の最上階に位置する『漆黒の聖堂』は、かつて初代聖女が幽閉されていたとされる曰く付きの密室だった。

 高く聳える黒大理石の柱には、外からの侵入者を拒むように鋭い薔薇の棘を模した鉄柵が絡みつき、冷たい風がステンドグラスの隙間から吹き込んでは、煤けた祭壇の影を揺らしている。

 教国を追放されたあの日から、私の新しい檻となったこの部屋で、私は退廃的な静寂に身を浸していた。


「……お着替えをお持ちいたしました、エミリアーノ様」


 音もなく扉が開き、無表情な魔族の少女が進み出てきた。

 彼女の名はルル。頭部から生えた小さな一対の黒い角と、完璧に着こなした黒いメイド服が特徴的な、この部屋の給仕兼監視役だ。龍魔王レオンハルトが私の身の回りの世話をさせるために付けた、無口で冷静沈着な従者である。


 ルルは私をベッドの端に座らせると、手際よく着替えの準備を始めた。しかし、その指先が微かに震えているのを、私は見逃さなかった。彼女の視線は、私の首元で妖艶に輝く「血のチョーカー」と、鎖骨の間で赤く鈍い光を放つ「龍の逆鱗鱗」に釘付けになっていた。


「ルル。そんなに怯える必要はありませんよ」


 私は優しく、しかし元教皇としての気品を湛えた声で彼女に語りかけた。

 泥に汚れ、裾が激しく引き裂かれた「聖光の治癒衣」を纏ったままでも、私の威厳が損なわれることはない。私は彼女の強張った手にそっと触れた。


「……あ」


 ルルが小さく息を呑む。彼女の手の甲には、先ほどの作業で付いたと思われる小さな切り傷があった。

 私が指先から微量な神聖魔力を流し込むと、温かい黄金の光が彼女の肌を包み込み、傷口を一瞬で綺麗に塞いでいく。それは、魔族にとっては脳を灼くほどの安息を伴う、極上の「聖光」の力だった。


「これで痛みは消えたでしょう?」


 私が微笑むと、ルルの無表情だった顔に明らかな動揺が走った。彼女の瞳の奥に、かつてない敬意と、主君であるレオンハルトへの忠誠を揺るがすほどの、私に対する狂信的な依存の芽生えが宿るのを、私の『嘘の看破』がはっきりと捉えていた。


 ルルは深く頭を垂れ、震える声で囁いた。


「……感謝、いたします。エミリアーノ様……」


 彼女の心が、静かに私の方へと傾き始めている。監視役すらも、私の光の虜にする。これこそが、この魔王の城で私が生き残り、そして教国への復讐を果たすための第一歩だった。


 その時、聖堂内の空気が一瞬にして凍りつき、空間が不自然に歪んだ。


「おやおや、実に美しい『奇跡』を拝見させていただきました。堕ちた女教皇よ」


 影の中から染み出すようにして、一人の老紳士が姿を現した。

 頭部から生えた美しい漆黒の角と、知性を湛えた赤い瞳。高級な礼服を完璧に着こなしたその老悪魔は、優雅に帽子を胸に当てて一礼した。彼こそは、魔界の歴史を陰から見守ってきた狡猾なる大悪魔、バルバトスだった。


「私の結界をすり抜けて現れるとは、無礼な大悪魔ですね。……用件は何かしら?」


 私は動じることなく、冷たい眼差しを彼に向けた。

 バルバトスは不敵な笑みを浮かべ、懐から一台の古いチェス盤を取り出し、黒大理石のテーブルへと置いた。それは、魔界の全勢力の動きをリアルタイムで視覚化する伝説の遺物「深淵のチェス盤」だった。


「貴女様という『極上の聖光』がこの地に堕ちたことで、魔界の天秤が大きく揺らいでおります。少し、これからの『ゲーム』の盤面についてお話ししませんか?」


 バルバトスはチェス盤の上に、四つの異なる意匠の駒を並べた。


「現在、この魔界は四大魔王によって四分されております。貴女様を独占しようと狂奔する、我が主レオンハルト。そして、東の影魔王アルフォンス、南の獣魔王ギルベルト、北の氷魔王ユーリ……。彼らは皆、教国が地脈に打ち込んだ『光の楔』による瘴気暴走に苛まれております」


 彼は白銀の教皇を模した駒を、盤面の中央に置いた。


「貴女様の『聖光』は、彼らの狂気を完全に鎮める唯一の救い。すでに影の魔王や獣の王は、貴女様の噂を聴きつけ、その手を伸ばそうと暗躍を始めております。放っておけば、貴女様を巡る魔王同士の凄惨な戦争が勃発するでしょう。……そこで、私と『等価契約』を結びませんか? 私に貴女様の聖水を分けていただければ、彼らを制御する知識と、教国の闇を暴く情報を提供しましょう」


 バルバトスは赤い瞳を怪しく光らせ、私に契約書を差し出してきた。狡猾な悪魔特有の、甘い誘惑の罠だ。

 だが、私はその提案の裏にある彼の「強欲」を、冷徹に見透かしていた。


「魅力的な提案ですが……お断りします」


「……ほう?」


 バルバトスが意外そうに眉を上げた。


「私は既に、龍の王レオンハルトと『龍の血誓』を結んでおります。首元のこのチョーカーが見えないかしら? 大悪魔ともあろう者が、二重契約の禁忌を犯せと唆すのは、少し悪趣味ではありませんか?」


 私は首元の「血のチョーカー」にそっと指先を滑らせ、優雅に微笑んだ。契約の魔力が微かに共鸣し、聖堂内に厳かな光圧が満ちる。


「それに、私は貴方に『支配』されるつもりはありません。……等価交換を望むなら、ビジネスをしましょう。私の高純度な聖水を、貴方に一定量『提供』して差し上げます。その代わり、貴方は私の『最高顧問』として、魔界の動向と教国の極秘情報を、常に私へ流し続けなさい。もし裏切れば、聖水の供給は永遠に断たれ、貴方は極上の魔力を失うことになるわ」


 主導権を完全に握り、逆に大悪魔を自身の「下僕」としてハッキングするような、冷酷な実利の提示。

 バルバトスは一瞬、呆気に取られたように目を見開いたが、やがて腹を抱えて愉快そうに笑い出した。


「クハハハ! 素晴らしい! まさか、人間の女教皇にここまで完璧なカウンターを喰らうとは! いいでしょう、エミリアーノ様。このバルバトス、貴女様の知略と、その底知れぬ聖光の価値に、喜んで知恵をお貸しいたしましょう」


 彼はチェス盤の黒い駒を、私の足元へと滑らせた。それは、彼が私の「最高顧問」として、その傘下に加わったことを示す無言の誓いだった。


 バルバトスが空間の歪みの中に消え去った後、私は静かに立ち上がり、聖堂の裏手に広がる『黒薔薇の庭園』へと歩みを進めた。

 夜の冷気が私の白い肌を刺し、咲き乱れる血を吸う黒薔薇の棘が、引き裂かれた教皇衣の裾に絡みつく。退廃的な美しさに満ちたその庭園の奥から、強烈な地熱と硫黄の匂いと共に、巨大な影が現れた。


「……エミリアーノ」


 低い、掠れた声が私の名前を呼んだ。

 現れたのは、龍魔王レオンハルトだった。彼の黄金の瞳は、日常的なストレスと他者への強烈な猜疑心により、微かに赤く濁っている。――『瘴気汚染度・第一段階「焦燥」』。私の光から離れている僅かな時間すら、彼の精神を苛んでいるのだ。


「王よ。こんな夜更けに、私に何か御用かしら?」


 レオンハルトは無言で私に近づくと、その逞しい手で、一輪の美しい黒薔薇を差し出してきた。その鋭い爪の先には、薔薇の棘で自ら傷ついたと思われる、赤い龍の血が微かに滲んでいた。


「……これを、お前にやる」


 不器用極まりない、しかし強烈な独占欲を孕んだ贈り物だった。

 彼は私の首元のチョーカーを見つめ、その黄金の瞳を狂おしく細めた。彼の呼吸は荒く、私を今すぐにでもこの薔薇の檻に閉じ込め、誰の目にも触れさせたくないという、焦燥に満ちた支配欲がその全身から立ち上っていた。


「お前は、俺だけのものだ。他の悪魔どもに、その光を分け与えることなど、絶対に許さん……」


 私は彼が差し出した黒薔薇を優雅に受け取り、その狂おしい独占欲の熱を感じながら、静かに、そして美しく微笑んだ。


(焦りなさい、傲慢なる龍の王よ。貴方が私に執着すればするほど、その首の鎖はより深く、貴方の魂を縛り上げるのですから)

HẾT CHƯƠNG

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