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深淵の抱擁:狂える龍王への接吻

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アビス・クライスの底は、光さえも凍りつくような暗黒と、鼻を突く硫黄の臭気に満ちていた。


エミリアーノ・ルシエラは、泥に塗れた純白の教皇衣の裾をかき抱きながら、辛うじて上半身を起こした。全身を苛む激痛。ルミナス教国の大聖堂地下牢で魔力を限界まで搾取され、実父ヴァルハイトと大枢機卿マルクスによって奈落へと突き落とされた肉体は、悲鳴を上げていた。


「はぁ、はぁ……っ」


冷たい泥が肌を刺し、濃厚な瘴気が喉を焼く。肺が焼けるように熱い。通常の人間であれば、このアビス・クライスに足を踏み入れた瞬間に精神を汚染され、数秒で狂死する。だが、初代聖女の血を最も濃く継ぐエミリアーノの強靭な肉体と、彼女の周囲に辛うじて展開されている常時発動の防御障壁――『神聖結界・防御閾値』が、奇跡的に彼女の命を繋ぎ止めていた。


しかし、その結界も風前の灯火だった。体内の神聖魔力はすでに十パーセント以下。結界を維持するだけで、脳の奥が焦げるような疲労感が襲う。


(私は、絶対に死なない……。あの偽りの光に満ちた国を、私を裏切った者たちを、この手で滅ぼすまでは)


その誓いを嘲笑うかのように、地脈が激しく鳴動した。


ズシン、と足元から突き上げるような衝撃。周囲の紫色の霧が赤黒く変色し、急激に膨張していく。ただの自然災害ではない。世界の天理すらも破壊しかねない、圧倒的な「暴力」の気配だった。


霧を切り裂き現れたのは、巨大な「龍の影」だった。全身から赤黒い瘴気を噴出させ、理性を完全に失って凶暴化したその存在――龍魔王レオンハルト。血走った鮮紅色の瞳が、泥の中に横たわるエミリアーノの「純白」を捉え、飢えた獣のように不気味な咆哮を上げた。


「ガアアアアアアッ!」


レオンハルトの咆哮は、周囲の頑強な火山岩を一瞬で粉砕し、赤黒い衝撃波となってエミリアーノへと押し寄せた。結界が激しくきしみ、ガラスが割れるような不気味な音が響く。エミリアーノは衝撃に耐えながら、自身の翡翠の瞳に魔力を集中させた。


特殊能力『魂の濁り視』。


彼女の視界の中で、レオンハルトの巨躯を包むエネルギーの奔流が視覚化される。彼の脳内、そして心臓の奥深くで、どす黒い泥のような瘴気が異常な速さで渦巻いていた。


――『瘴気汚染度・第二段階「狂暴」』。


すでに理性の光は完全に消え失せ、ただ破壊衝動と飢えだけがその肉体を支配している。レオンハルトが鋭い爪を突き出した。その爪には、触れるものすべてを炭化させる漆黒の炎――『黒焔の爪撃』が宿っている。


「アアアアアアッ!」


獣のような絶叫と共に、黒焔の爪がエミリアーノへと振り下ろされる。周囲の岩盤が一瞬でドロドロの溶岩へと融解し、凄まじい熱風がエミリアーノの白銀の髪を揺らした。神聖結界が激しくきしみ、消滅寸前の警告を発する。


(言葉での説得は不可能。まともに戦えば、この枯渇した身体など一瞬で灰にされる……!)


エミリアーノは冷徹に状況を分析した。生き残るための道はただ一つ。彼の懐に飛び込み、その暴走の起点である「瘴気核」を直接浄化すること。


だが、あの圧倒的な巨躯と暴力の嵐を前に、どうやって接近する?


(……私の最後の魔力、ここで賭けさせてもらいます)


エミリアーノは、泥に汚れた教皇衣の袖から、白皙の細い手を伸ばした。彼女の残された全魔力が、その手のひらに収束していく。


「閃光(ルクス・バースト)――!」


彼女が短く詠唱を唱えた瞬間、彼女の指先から極限まで圧縮された神聖魔力が放たれた。それは、周囲の敵の視界を完全に奪う目眩まし技術――『聖なる閃光弾』。


アビス・クライスの暗闇を一瞬で昼間のような純白へと染め上げる、音のない強烈な光の爆発。そのあまりの眩しさに、レオンハルトの鮮紅色の瞳が激しく揺らいだ。


「グ、ガアアアッ!?」


不意の目眩ましに、巨大な龍王は苦しげに頭を振り、その巨躯を悶えさせた。視界を完全に奪われ、周囲を無差別に薙ぎ払うレオンハルト。その隙を、エミリアーノは逃さなかった。


「はぁ、はぁ……っ!」


激しい息切れを堪え、彼女はぬかるむ泥を蹴った。引き裂かれた教皇衣の裾が泥を跳ね上げ、白銀の髪が光の残像を描く。熱波が彼女の肌を焼き、結界が完全に消失する寸前の激痛が襲う。だが、彼女の翡翠の瞳に宿る復讐の炎は消えなかった。


(私は、こんな奈落で終わる女ではない……!)


エミリアーノは、視界を失って暴れるレオンハルトの懐へと、自ら飛び込んだ。


ドサリ、と熱い筋肉の塊に全身が衝突する。龍王の全身から放たれる熱量は凄まじく、まるで燃え盛る炉に抱きついているかのようだった。しかし、エミリアーノは躊躇うことなく、彼の太い首元に両腕を回した。


「ガ、ア……おのれ、不浄な温もりが……っ!」


レオンハルトが視界を取り戻し、目の前のエミリアーノを押し潰そうと、その巨大な手を彼女の背中に回した。その爪が、彼女の華奢な肩肉に食い込み、血が滲む。だが、エミリアーノは苦痛に顔を歪めることなく、むしろその冷たい翡翠の瞳で、至近距離から魔王の血走った瞳を見つめ返した。


「大人しくしなさい、狂える龍王」


彼女は囁き、彼の頬を両手で強く固定した。そして、自身の唇を、彼の赤く爛れた唇へと、深く重ね合わせた。


――『聖光の口づけ』。


その瞬間、アビス・クライスの底に、黄金の光の粒子が美しく舞い散った。


エミリアーノの唾液に含まれる、初代聖女の純血から生成された超高純度の神聖エネルギーが、直接口づけによってレオンハルトの口内へと流し込まれていく。


「ん、む……ッ!?」


レオンハルトの身体が、雷に打たれたように激しく硬直した。彼の脳内を支配していたどす黒い瘴気の嵐が、彼女の唇から侵入した黄金の光によって、一瞬にして中和されていく。


魔王にとって、その光は「極上の毒薬」であり、同時に「抗えない救い」だった。脳髄を直接灼かれるような、凄まじい快感。数百年もの間、彼を苛み続けていた瘴気の激痛と狂気が、彼女の甘い吐息と光の魔力によって、一瞬で圧倒的な安息へと塗り替えられていく。


「ん……ぁ……っ」


レオンハルトの喉から、獣の咆哮ではなく、恍惚とした掠れた吐息が漏れた。彼の全身を覆っていた赤黒い瘴気が、見る間に澄んだ黄金の光の霧へと霧散していく。血走っていた鮮紅色の瞳は、徐々に理性の光を取り戻し、深みのある美しい黄金色へと変化していった。


重なり合う唇の隙間から、眩いばかりの光の糸が溢れ出し、二人の泥まみれの身体を優しく包み込んでいく。レオンハルトの爪から力が抜け、エミリアーノの肩から滑り落ちた。彼はただ、彼女の口内から注ぎ込まれる甘美な「奇跡」に、魂ごと溺れるように身を委ねていた。


(……これで、貴方は私の光なしでは生きられない身体になりましたね)


エミリアーノは心の中で冷たく微笑みながら、ゆっくりと唇を離した。光の余韻が消えかかる中、レオンハルトは驚愕に目を見開いたまま、エミリアーノを見つめていた。


ハァ、ハァ、と荒い呼吸を繰り返す彼の黄金の瞳には、かつての狂気はなく、代わりに底知れぬ「驚愕」と、そして抗いがたい「渇望」が宿っていた。


「お前は……一体、何者だ……」


掠れた声。レオンハルトは、泥に塗れ、教皇衣を引き裂かれながらも、毅然と美しく佇むエミリアーノを見上げた。彼女の白銀の髪は泥に汚れ、翡翠の瞳は冷徹な光を放っている。その姿は、あまりにも神聖で、同時にあまりにも背徳的だった。


エミリアーノは、彼を見下ろしながら優雅に微笑んだ。


「貴方を狂気から救い出した、唯一の支配者です。龍の王よ」


レオンハルトの胸の奥で、何かが決定的に壊れ、そして再構築された。この女の光がなければ、自分は再びあの地獄のような狂気に引き戻される。この温もりを、この甘美な救済を、誰にも渡したくない。


「……俺の渇きを癒やす、唯一の女」


レオンハルトは、熱い衝動に突き動かされるように、エミリアーノの細い腰を強引に抱き上げた。エミリアーノが息を呑む間もなく、レオンハルトの全身から漆黒の黒焔が立ち上り、周囲の空間を裂いた。その腕はあまりにも強固で、彼女を絶対に手放さないという執着に満ちていた。


「お前を、俺の城へ連れて行く。二度と、誰の目にも触れさせん」


空間跳躍の魔術。アビス・クライスの底から、二人の姿が一瞬にして消え去った。彼らが向かう先は、黒い火山岩で築かれた険しき牙城――龍魔王城『ドラッヘンフェルス』。


エミリアーノは魔王の強固な腕に抱かれながら、暗黒の虚空の中で静かに目を閉じた。


(ようこそ、私の甘美な檻へ。レオンハルト)


偽りの神への逆襲劇は、今、奈落の抱擁から始まった。

HẾT CHƯƠNG

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