落日の戴冠:血塗られた純白
冷たい大理石の床に滴る血は、彼女が身に纏う純白の教皇衣を無残に汚していった。
「エミリアーノ・ルシエラ。神聖なるルミナス教国の秩序を乱し、魔族と内通した大罪人よ。お前を教皇の座から引きずり下ろし、異端者として永久に放逐する」
冷酷な宣告を告げたのは、ルシエラ公爵家の家長であり、エミリアーノの実父であるヴァルハイト・ルシエラだった。その灰色の瞳には、実の娘に対する慈悲など微塵も存在しない。あるのはただ、一族の栄華を脅かす「バグ」を排除しようとする冷徹な意思だけだった。
エミリアーノは四肢を魔力拘束の鎖で縛られながらも、毅然と頭を上げた。白銀の長い髪が乱れ、翡翠の瞳が暗暗たる大聖堂の地下牢を射抜く。
「異端……? 神聖なる光を掲げながら、その裏で拉致した魔族の生命力を搾取し、奇跡を偽装しているのは誰ですか、お父様。ルミナス教国が説く『救済』とは、弱者から命を吸い上げるための甘い罠に過ぎない。この大魔法陣こそが、その動かぬ証拠です」
「黙れ、口汚い狂人が」
ヴァルハイトの隣から、低く這うような声が響いた。教国の実質的な支配者、大枢機卿マルクスだ。その純白の豪奢な法衣の影から、不気味な闇の触手が微かに蠢いている。マルクスは冷笑を浮かべ、床に刻まれた禍々しい魔法陣に杖を突き立てた。
「お前のその高純度な神聖魔力は、今日この時を以て、新たなる聖女の糧となるのだ。泣き叫ぶが良い。これこそが、我が神ルミナスへ捧げる真の儀式である」
マルクスが詠唱を始めると、床一面に刻まれた魔方陣が黒紫色の光を放ち、激しく脈打ち始めた。『邪神の搾取儀式』が起動したのだ。
「くっ……あああああッ!」
全身の血管を沸騰した泥が駆け巡るような、凄惨な激痛がエミリアーノを襲った。体内の魔力回路が強制的に逆流し、彼女が生まれ持つ千年ぶりの「純血の光」が、体外へと容赦なく吸い上げられていく。激痛に耐えかねて悲鳴を上げる彼女の前に、一人の少女が優雅に歩み寄った。
金髪のウェーブを揺らし、計算された愛らしい笑みを浮かべる姉、エレナ・ルシエラだった。
「可哀想なエミリアーノ。でも、お姉様に感謝してね? 貴女のその汚れた光は、私が『真の聖女』として、世界中に奇跡を示すための美しい燃料にしてあげるから」
エレナは屈み込み、エミリアーノの胸元から、亡き実母セシリアの形見である「白銀の髪飾り」を乱暴にむしり取った。エミリアーノの魔力を微弱に安定させていた、唯一の心の拠り所さえも奪われたのだ。
「お姉様……貴女のその『偽光の奇跡』が、どれほど多くの魔族の命を吸い上げて造られた血塗られたものか、民衆が知ればどうなるかしら……」
「ふん、誰が信じるものですか。貴女は今日、魔族と肉体を交わした淫らな裏切り者として、歴史から完全に抹殺されるのだから」
エレナは奪い取った髪飾りを誇らしげに掲げ、大聖堂の地下牢の冷たい闇の中で高笑いした。
エミリアーノは激痛で視界が歪む中、自身の翡翠の瞳に最後の魔力を集中させた。彼女の持つ特殊能力『嘘の看破』が発動する。瞳が微かに黄金色に輝き、目の前の者たちの魂の輪郭を捉えた。
ヴァルハイトの魂は権勢欲に塗れたドス黒い泥のようであり、エレナの魂は嫉妬と虚栄に満ちた腐った紫色だった。そして、大枢機卿マルクスの魂の奥底には、世界の生命エネルギーを喰らい尽くす「古代の邪神ディスピア」の、おぞましい黒い心臓の欠片が脈打っているのが見えた。
(……やはり、この国の『神』とは、光を装った怪物だったのですね)
エミリアーノは自らの神聖魔力で結界を破ろうと試みたが、抽出陣の凄まじい吸入速度には抗えず、体内の魔力の大半を失って膝を突いた。だが、彼女はただ無力に絶望していたわけではなかった。『嘘の看破』によって、この搾取魔方陣のエネルギーの循環波形、そしてルシエラ一族の血脈に眠る「血の呪い」の術式構造を、その脳裏に完璧に記録したのだ。
(この激痛と裏切り、そして母の形見を奪った罪……必ず、百倍にして返して差し上げます)
魔力をほぼ搾り取られ、抜け殻のようになったエミリアーノは、重罪人としてルミナス教国の北端にそびえる『堕天の崖』へと引きずられていった。
崖の下には、人間界と魔界を隔てる雲海が広がり、そのさらに奥には、光を吸い込む不気味な魔界の暗雲が渦巻いている。通常の人間であれば、落ちた瞬間に瘴気の突風に肉体を引き裂かれ、数秒で狂死するデスゾーンだ。
「さらばだ、我が一族の恥晒しよ」
実父ヴァルハイトの冷酷な言葉と共に、エミリアーノの身体は絶壁の縁から、奈落の雲海へと突き落とされた。
風が耳元で猛烈に咆哮し、引き裂かれた純白の教皇衣が虚空に舞う。白銀の髪が激しく乱れる中、エミリアーノは落下しながら、遠ざかっていく人間界の空を見つめていた。彼女の翡翠の瞳から、一滴の涙が零れ落ちる。それは悲しみではなく、底知れぬ怒りと復讐の誓いだった。
(私は絶対に死なない。この泥に塗れた純白を、いつか貴方たちの血で染め上げてみせる)
雲海を突き抜け、おぞましい高濃度瘴気が渦巻く魔界の最深部『アビス・クライス』の底へと、エミリアーノの身体は落下していった。
凄まじい衝撃と共に、彼女は魔界の湿った冷たい泥の中へと叩きつけられた。全身を苛む激痛と、呼吸を阻害する濃厚な瘴気。しかし、初代聖女の血を最も濃く継ぐ彼女の強靭な肉体と、残された微弱な神聖魔力の防壁が、奇跡的に彼女の命を繋ぎ止めていた。
泥まみれになりながらも、エミリアーノは辛うじて息を吹き返し、震える手で上半身を起こした。不気味な紫色の霧が周囲を覆い、硫黄と血の匂いが鼻腔を突く。
その時だった。
ズシン、と大震災のような重低音が地脈を揺らした。周囲の泥が激しく跳ね上がり、ただでさえ濃密だった瘴気が、急激に赤黒く変色しながら膨張していく。ただの自然災害ではない。世界の天理すらも破壊しかねない、圧倒的な「暴力」の気配だった。
エミリアーノが息を呑んで顔を上げると、紫色の霧を切り裂き、巨大な影が彼女を見下ろしていた。
それは、赤黒い瘴気を全身から激しく噴出させ、理性を完全に失って凶暴化した、巨大な「龍の影」だった。血走った鮮紅色の瞳が、泥の中に横たわるエミリアーノの「純白」を捉え、飢えた獣のように不気味な咆哮を上げた。
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