闇に蠢く蛇の影
黒鉄鉱山を見下ろす崖の上にそびえ立つ黒川大膳の豪邸は、地獄のような炭鉱の底とは完全に切り離された別世界だった。石炭の煤煙に汚されることのない大理石の床、赤々と燃える暖炉、そして贅沢な脂を滴らせる山獣の肉香が室内に満ちている。
鉱山主である黒川大膳は、豪奢な毛皮を肩に羽織り、不気味な金色の「黒鉄鞭」を傍らに置いて、傲然と椅子に腰掛けていた。その傍らで、丸々と肥太った身体を高級な絹の衣服に包み、いやらしく指の宝石リングを弄んでいる男がいた。剛田家を裏切り、一族の没落を招いた張本人であり、現在は大膳の特別顧問を務める剛田鉄山であった。
「大膳様、地下格闘場『黒死坑』での一件、耳に入っておりますな」
鉄山は狡猾な目を細め、卑屈な笑みを浮かべながら囁いた。
「内力を持たぬはずの奴隷が、碧葉剣派の外門弟子を素手で破り、あの上限なき怪力を誇る雷太をも捩じ伏せた。あれはただの偶然ではございませぬ。あの少年の名は鉄馬……私がかつて売り払った、烈火の息子に間違いございませぬ」
「ほう……」
大膳は重厚な声を漏らし、杯の酒を一口煽った。
「死んだと報告のあった凡骨のゴミが、生きていたというのか。しかも、雷太の拳を真っ向から壊したとなれば、ただの奴隷の筋力では説明がつかんな」
「その通りでございます。奴は、剛田家が秘かに伝承していた外家禁忌の功法『砕骨再生法』を修得しているに違いありません。自らの骨を叩き砕き、再生の過程で黒鉄石の成分を吸着させ、生身の肉体を金属へと変質させる狂気の武功……。あれが完成すれば、かつて帝国秩序を揺るがした伝説の『金剛不壊』の肉体が蘇ることになります。今すぐ根絶やしにせねば、我らの破滅を招きますぞ」
鉄山の言葉に、大膳の目が冷酷な光を宿した。剛田家が滅ぼされた真の理由は、彼らの外家武功が、才能と血統による帝国の内力支配を脅かしたからだった。その生き残りが、この鉱山の底で牙を研いでいるなど、決して許されることではない。
そこへ、ジャラリと不気味な金属音を立てて、看守長・甚八が書斎へと入ってきた。その手には、奴隷たちを震え上がらせてきた棘付き鎖鎌「蛇咬」が握られていたが、その鋭利な棘の一つが、物理的にひしゃげて刃こぼれしていた。
「大膳様、これをご覧ください」
甚八は屈辱に顔を歪めながら、刃こぼれした鎖を差し出した。
「第4奴隷宿舎を捜索した際、あの鉄馬という小僧の首にこの蛇咬を巻き付け、内力を流し込みました。常人の肉なら骨ごと削ぎ落とすはずの棘が、奴の首の骨に衝突した瞬間、このようにひしゃげたのです。奴の骨格は、すでに通常の骨ではございません。まるで、玄鉄の塊を皮一枚で包んでいるかのような異常な硬度でした」
鉄山がそのひしゃげた棘を指先でなぞり、興奮したように声を弾ませた。
「これこそが一族の『鉄骨』の証! しかし、大膳様、恐れることはございませぬ。砕骨再生法には、初期段階における致命的な弱点がございます。骨の金属化が不完全なこの時期、関節の可動域が極端に制限され、何よりも『呼吸の乱れ』によって骨格の支持力が一時的に崩壊するのです。呼吸を乱し、関節の死角を突けば、あの硬い骨などただの重い足枷に過ぎませぬ」
「なるほどな」
大膳は立ち上がり、背後の暗闇に向かって冷酷な命令を下した。
「厳馬! お前の部隊を率い、今夜、第一採掘場へ臨時の武力制裁に向かえ。鉄馬の周囲にいる奴隷どもを人質に取り、奴の正体を完全に暴き出せ。抵抗するならば、その場で全員の頭部を叩き潰せ」
「ハハッ、承知いたしました、大膳様!」
暗闇から、赤銅色の肌を持つ野獣のような大男――副看守長の厳馬が姿を現した。その肩には、重さ八十キロを超える極太の赤銅鉄棒「赤鬼」が担がれており、その凶暴な佇まいに鉄山は思わず身を縮めた。
だが、その瞬間、書斎のさらに深い影から、言葉に表せないほどの圧倒的な威圧感が溢れ出した。室内の空気が物理的に急激に重くなり、暖炉の炎が凍りついたように静止する。
「ひぃっ……!?」
鉄山が恐怖のあまり悲鳴を上げ、大理石の床に這いつくばった。影から音もなく姿を現したのは、顔を不気味な鉄仮面で覆い、全身に重厚な鎧を纏った巨大な戦士――無名であった。大膳の寝室を守る絶対の番人であり、その全身から放たれる「不壊硬気功」の波動は、鉄山や甚八の内力を物理的に押さえつけるほどの重圧を持っていた。
「案ずるな、鉄山」
大膳は不敵に笑い、無名の肩に手を置いた。
「我が牙城には、この無名がいる。ネズミがどれほど骨を鍛えようと、帝国の秩序を踏みにじることはできん。厳馬、行け。第一採掘場を血で染めてこい」
「はっ!」
厳馬が凶暴な笑みを浮かべ、鉄棒をジャラリと鳴らして去っていく。鉄馬を取り囲む死の網は、確実に、そして冷酷に狭まりつつあった。
同じ頃、鉱山都市のスラム街の地下深く、お蘭の闇診療所は、湿った空気と血の匂いに包まれていた。
薄暗い松明の光の下、鉄馬は上半身を裸にし、診療所の冷たい木床の上に立っていた。彼の全身には、雷太との死闘で負った無数の生々しい打撃痕と裂傷が刻まれ、左腕のケロイドからは未だ玄鉄の混ざった黒い血が微かに滴っている。右腕は「玄鉄の包帯」によって胴体に固く縛り付けられたままだ。
――ギィィ……、ギィィ……。
鉄馬が一歩を踏み出すたびに、床板が彼の異常な自重に耐えかねて重い悲鳴を上げる。「第二整復」を完了した彼の脚骨は、常人の二倍の密度を誇り、体重はすでに一・五倍を超えていた。この重い足音と金属臭は、看守たちに自身の生存と異常性を察知される決定的な物証となりかねない。
「ふぅ……」
鉄馬は深く静かな逆腹式呼吸を行い、全身の骨格の連動を意識した。熊五郎から教わった「省力力学」をさらに進化させる。筋肉の力で無理に歩くのではなく、金属化した骨の噛み合わせと大地の重力を完全に調和させ、衝撃を大地の深部へと直接逃がす。
次の瞬間、鉄馬が踏み出した一歩は、完全に無音であった。床板はミリ単位すら撓まず、軋み音は一切消え去っていた。足音の完全な擬装。内力を持たぬ彼が、泥臭い鍛錬の末に獲得した、物理的な隠密の力学であった。
「さすがだね、鉄馬」
診療所の影から、妖艶な扇子を手にしたお蘭が、感嘆の吐息を漏らしながら現れた。その傍らには、右腕全体を包帯で固定し、満身創痍でありながらも不敵な笑みを失わない雷太と、巨大な盾を壁に立て掛けた大吾が控えていた。
「これで、黒死坑での賭け金はすべて回収できたよ。蘭星堂の闇ルートを使い、お前が次の段階『鉄骨期・中成』へ進むために必要な、特殊な玄鉄の粉末と薬草の調達はすでに始めている」
「感謝する、お蘭」
鉄馬は掠れた声で応じた。彼の左足首には、亡き従弟・源次の「錆びた首輪」が、今も皮膚を締め付けながら重く響いている。
「俺たちはここで、鉱山全体の奴隷を組織化する。反乱奴隷同盟『鉄血衆』……。大膳の喉元を喰い破るための、最初の牙だ」
雷太が不敵に笑い、左手で自身の首の鉄の首輪をジャラリと鳴らした。
「へっ、俺のこの右腕が治り次第、第一採掘場の衛兵どもの首を一本ずつへし折ってやる。兄貴の『鉄骨』と俺の『怪力』があれば、あの地獄を覆すのは容易いことだ」
だが、その熱い連帯の空気を切り裂くように、診療所の古い鉄扉が激しく叩かれた。入ってきたのは、お蘭の商隊に潜入している密偵・甚平からの極秘の伝令を持った、息を切らした新太であった。
「兄貴! 大変だ!」
新太は煤けた顔を青ざめさせ、鉄馬の前にひざまずいた。
「大膳の屋敷にいる甚平からの警告だ! 剛田鉄山が、兄貴の『砕骨再生法』の弱点を大膳に売り渡した! 関節の可動域の制限と、呼吸の乱れによって骨格の強度が崩壊するという一族の秘密を……!」
「なに……!?」
大吾が巨体を震わせ、怒りの声を上げた。鉄馬の瞳に、氷のように冷徹な殺意が宿る。裏切り者の叔父・鉄山。一族を滅ぼし、自身を奴隷に落とした男が、今また自身の命を、そして同胞たちの命を奪おうとしている。
「それだけじゃない!」
新太は涙を浮かべながら叫んだ。
「大膳は、兄貴を炙り出すために、副看守長の厳馬に命じて、第一採掘場全体の奴隷を人質に取るつもりだ! 厳馬の重装甲部隊が、すでに夜間の採掘場へと進軍を開始した……! このままじゃ、お春さんや、夜間労働をしている仲間たちが皆殺しにされる!」
室内の温度が、一瞬にして氷点下まで急降下したかのような静寂が訪れた。大膳の狡猾な包囲網。鉄馬の弱点を正確に把握し、さらに最も無防備な同胞たちを人質に取るという、非情極まりない作戦。
「……行くぞ」
鉄馬は静かに、だが地鳴りのような重い声で言った。彼は背中に固定された、源蔵の重さ五十キロを超える巨大な「大鉄槌」の柄を左手一本で握り締めた。
「兄貴、右腕が動かないその身体で行くのは自殺行為だ!」
お蘭が遮ろうとするが、鉄馬は一歩も退かなかった。
「奴らは俺の弱点を知っている。だが、俺たちの団結までは予測していない。雷太、大吾、新太……『鉄血衆』の最初の戦いだ。奴らが牙を剥くなら、俺はその牙ごと、第一採掘場を物理的に叩き潰す」
鉄馬の瞳には、死を恐れぬ狼の光が燃え盛っていた。彼らは闇診療所を飛び出し、黒い煤煙が渦巻く夜の第一採掘場へと向かって、影のように疾走を開始した。背後では、厳馬が操る巨大な赤銅鉄棒「赤鬼」の不気味な金属音が、暗闇の奥から不気味に響き渡り、第一採掘場の静寂を切り裂こうとしていた。
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