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闇闘技場の亡霊

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泥水スラムのぬかるんだ路地は、常に煤煙と腐肉の匂いに満ちていた。上空を覆う黒鉄市の巨大な煙突群から吐き出される黒煙が、鉛色の雨となって絶え間なく降り注ぐ。その薄暗い雨の中を、剛田鉄馬はボロ布に包まれた身体を丸め、わざと左足を引きずりながら歩いていた。


「ギィ……、ギィ……」


 鉄馬が一歩踏み出すたびに、足元のぬかるんだ泥が異常な深さまで沈み込み、その下の硬い岩盤が微かに軋むような音を立てる。生身の骨をあえて砕き、沸騰する金属液を染み込ませて再構築する地獄の修行――「砕骨再生法」を経て、彼の肉体は「鉄骨期・初成」の境界に達していた。

 皮膚の下に潜む骨格は、常人の二倍の密度と、黒い玄鉄と同等の硬度を宿している。それは圧倒的な「剛性」と引き換えに、常人の一・五倍を超える不気味な質量を鉄馬の身体に与えていた。普通に歩くだけで床板を叩き割ってしまうその重さを隠すため、鉄馬は毎夜、足裏の接地面積をミリ単位で調整し、骨格の連動によって衝撃を大地の深部へと直接逃がす『省力力学』を自らの肉体に叩き込んでいた。足を引きずる廃人の振りをしているのは、看守長・甚八の鋭い監視の目を欺くための擬装に過ぎない。


「おい、鉄馬。お前のその右腕、まだ動かないのかい?」


 路地裏の薄暗い影から、妖艶な香気を漂わせながら現れたのは、女商人のお蘭だった。彼女は泥に汚れた鉄馬の佇まいを、値踏みするような鋭い瞳で見つめる。


「……少しはマシになった」


 鉄馬は、玄鉄の包帯で固く締め上げられた右腕をわずかに動かしてみせた。関節の軟骨がすり減り、未だに指先まで力を通すのは困難だったが、左腕一本があれば、大鉄槌を振るうことくらいは容易だった。


「そうかい。だが、お前が求めている次の段階の精錬素材――『黒鉄の削り粉』や『接骨草』の特製薬油は、ただの奴隷労働で得られる小銭ではとても買えないよ。それに、お前たちの計画している脱獄とやらにも、莫大な『鉄銭』が必要になるはずだ」


 お蘭は懐から、奴隷たちの間で密かに流通している手製の闇通貨「鉄銭」を一枚取り出し、指先で弾いてみせた。鋭い金属音が雨の音に混ざる。


「……どこで稼げばいい」


「このスラムのさらに地下に広がる闇市場『骨董街』。その最深部に、命を賭けて戦う非合法の奴隷格闘場『黒死坑』がある。内力を持たないお前のような『廃物』が、どこまで通用するか……五郎右衛門への格好の示威にもなる。どうだい、不壊の鬼として、その骨の硬さを証明してみせる気はあるかい?」


 鉄馬の瞳の奥で、冷徹な狼のような光が揺らめいた。内力至上主義のこの鉱山都市において、経絡を失った奴隷は人間以下の家畜として扱われる。だが、その理不尽な法則を、自らの「鉄骨」で叩き潰す機会を、彼は求めていた。


「案内しろ」


 お蘭の先導で、鉄馬は骨董街の入り口へと向かった。スラムの崩れかけた廃屋の床下に隠された、巨大な排水口。そこを下っていくと、帝国の法律が一切及ばない漆黒の地下空間が広がっていた。無数の松明が不気味に揺らめき、錆びた鉄、安酒、そして乾いた血の匂いが大気を満たしている。そこが、無法者たちの吹き溜まりである闇市場だった。


 そのさらに奥、底の見えない巨大な縦穴――「黒死坑」の周囲には、何百人もの奴隷や炭鉱夫、そして汚職衛兵たちが群がり、狂気的な歓声を上げていた。中央に設置された錆びついた鉄板のリングの上では、肉体と肉体が衝突し、生々しい骨折音と悲鳴が絶え間なく響き渡っている。


「次の試合! 挑戦者は、素性不明の奴隷――『不壊の鬼』!」


 興行主である看守の声が響く。鉄馬はボロ布のフードを深く被り、右腕を包帯で胴体に固定したまま、重い足取りでリングへと上がった。一歩踏み出すたびに、鉄板のリングが「ゴン、ゴン」と重い地鳴りのような物理的な金属音を立てて微かに撓む。観客たちは、内力の気配を一切感じさせない、痩せこけて傷だらけの鉄馬の姿を見て、一斉に嘲笑の声を浴びせた。


「おいおい、内力も練られないゴミが何の用だ!」

「片腕がマヒした廃人が、何の余興だ!」


 リングの対角線上に立ったのは、碧葉剣派の外門弟子を名乗る、身軽な喧嘩師だった。その腰には、薄刃の長剣が光っている。男の全身からは、緑がかった鋭利な内力の波動――「風刃剣気」が立ち上り、周囲の空気を物理的に細かく切り刻むような風切り音を立てていた。


「内力を持たぬ家畜が、武者のリングに立つなど百年早い。その薄汚い首を、一瞬で切り落としてやろう」


 男が不敵に笑い、長剣を構えた。その瞬間、試合開始の鐘が鳴り響く。


 男の身体が、風のようにブレた。碧葉剣派特有の軽快な歩法。内力によって肉体を極限まで軽量化し、神速の移動を可能にする技術だ。観客たちの目には、男の姿が数条の残像にしか見えなかった。


 だが、鉄馬の瞳は、微塵も動かなかった。彼は「無痛の瞑想法」を脳内で起動し、周囲の歓声や雑音を完全に遮断していた。そして、自身の骨をリングの鉄板に密着させ、そこから伝わる物理的な「振動」に全ての意識を集中させる。――「骨音探知」。


 視覚が追いつかなくとも、大気と地面を伝わる「骨の振動」が、敵の関節の動き、筋肉の収縮、そして長剣の軌道を、鉄馬の脳内へとスローモーションのように正確に描き出していた。


「死ね、廃物!」


 男の長剣が、鋭い風の刃を纏いながら、鉄馬の無防備な胸部を狙って神速の突きを放った。風刃剣気の一撃は、常人の肉体など紙のように容易く両断する威力を持つ。


 だが、鉄馬は回避運動を一切行わなかった。彼の重い肉体では、その神速の突きを避けることは物理的に不可能だったからだ。鉄馬はただ、自らの左前腕――「鉄骨期・初成」に達した生身の黒い骨を、突き出された白刃の軌道上に、力任せに交差させた。


 ――キィィィン!!!


 耳を劈くような、凄まじい金属の衝突音が闘技場全体に響き渡った。それは肉と鉄がぶつかり合う音ではなかった。まるで、巨大な鉄塊同士が真っ向から衝突したかのような、硬質で容赦のない物理音だった。


「な……何だと!?」


 男の目が、驚愕に見開かれた。鋭利な風刃剣気は、鉄馬の皮膚を数ミリほど切り裂き、わずかな黒い血を噴き出させた。しかし、その皮膚のすぐ下にある、玄鉄と同化した超高密度の「前腕骨」に衝突した瞬間、内力の波動自体が物理的な圧倒的硬度によって反発され、一瞬にして霧散・崩壊したのだ。それだけではない。鉄馬の骨の硬さに負けた長剣の刃先に、不気味な亀裂が走り、鋭い刃こぼれが発生していた。


「内力を持たぬ肉体が、俺の剣気を直接弾いた……!? あり得ん!」


 敵の体勢が、武器の反動によって大きく崩れた。その一瞬の隙を、鉄馬の「骨音探知」は見逃さなかった。関節の連動が乱れ、敵の重心が宙に浮いたその瞬間、鉄馬は一歩を踏み出した。


 ――ドォン!


 鉄板のリングが大きく沈み込み、凄まじい質量を乗せた鉄馬の巨体が、男の懐へと滑り込む。鉄馬は右半身を引いた変則的な構えから、唯一動く左拳を握り締め、全身の骨格のバネを一挙に解放した。


「砕けろ」


 無骨極まりない、ただの正拳突き。内力のエフェクトも、華麗な軌道もない。だが、そこには「砕骨再生」によって得られた、圧倒的な物理質量と硬度そのものが乗っていた。


 男は慌てて刃こぼれした長剣を盾にして防ごうとした。しかし、鉄馬の左拳が剣身に直撃した、その瞬間だった。


 ――バキィィィン!!!


 再び凄まじい破砕音が響き、男の長剣は、まるで薄いガラス細工のように粉々に砕け散った。鉄馬の「鉄骨」の破壊力は剣を貫通し、そのまま男の胸板へと直撃した。男の肋骨が不気味な音を立ててひしゃげ、その身体はリングの外へと一直線に吹き飛び、大理石の壁に激突して意識を失った。


 一瞬、闘技場全体が、水を打ったような静寂に包まれた。誰もが、素手の奴隷が名門の剣気を弾き、その剣を粉砕したという物理的事実を信じられずにいた。だが、次の瞬間、観客の奴隷たちから、地鳴りのような熱狂的な叫び声が沸き上がった。


 鉄馬はボロ布のフードの下で、荒い息を吐きながら、自身の左拳を見つめた。皮膚から流れる黒い血が、熱を持った骨格によって静かに蒸発していく。彼の「鉄骨」は、確かに通用した。


 しかし、勝利の余韻に浸る時間はなかった。闘技場の奥、漆黒の鉄格子がゆっくりと音を立てて開き始めた。その暗闇から、大気を物理的に震わせるほどの、圧倒的な「野生の殺気」が這い上がってくる。


 ――ジャラリ、ジャラリ……。


 重い鉄の鎖を引きずる音が、観客たちの歓声を一瞬にして凍りつかせた。姿を現したのは、身長二メートルに迫る巨躯を持つ、野獣のような男だった。全身が無数の生々しい傷跡で覆われ、首には王者を示す重い鉄の首輪が嵌められている。彼こそが、この黒死坑で無敗を誇る絶対的な王者――雷太だった。


 雷太は、砕け散った長剣の破片を踏み締めながら、獰猛な猛獣のような目で鉄馬を凝視した。その口元が、狂暴な喜びによって不敵に歪む。


「おい、お前……いい骨をしてるな。俺の拳を、真っ向から受け止める準備はできてるか?」


 雷太の巨大な拳が握り締められ、骨董街の湿った大気が、その質量によって物理的に引き締まった。鉄馬は、左足首の「錆びた首輪」を微かに鳴らし、冷徹な眼光でその挑戦を受け止めた。

HẾT CHƯƠNG

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