骨髄に溶ける鉄
首筋の傷が、不気味な熱を持って脈動していた。
第4奴隷宿舎の最奥、湿った藁の上に横たわる剛田鉄馬の呼吸は浅い。看守長・甚八の棘付き鎖鎌「蛇咬」によって抉られた首の傷口は、石炭の煤塵と湿気に晒され、黄色い膿を帯びて化膿し始めていた。首の皮膚が熱を帯びて腫れ上がり、気管を物理的に圧迫する。一呼吸置くたびに、焼けた火箸を喉奥に突き立てられたような激痛が走り、鉄馬の意識を暗い混濁へと引きずり込もうとしていた。
「鉄馬、時間がないぞ」
暗闇から現れたのは、片目が潰れ、全身が深い皺に覆われた老兵・茂吉だった。その手には、煤けたガラス瓶で作られた粗末な砂時計が握られている。極小の黒鉄の砂が、音もなく下部へと落ちていく。
「甚八の執拗な夜間巡回を避けるため、看守たちの交代時間を分単位で計算した。次の巡回まで、ちょうど四十分。落盤エリアの『試練の奈落』へ行き、お前の脚を再生させる猶予はそれだけだ。これを超えれば、お前は確実に甚八に見つかり、その場で両脚を切り落とされる」
鉄馬は無言で頷き、動かない右腕をボロ布で身体に固定した。首の激痛を「無痛の瞑想法」によって脳の隅へと押しやり、単なる物理的なノイズとして処理する。だが、肉体の金属化に伴う急激なカロリー消費と、化膿による高熱は、彼の体力を底から削り取っていた。お春が横流ししてくれた豚の脂身の熱量は、すでに消費し尽くされている。
「兄貴、俺が先導する。足元に気をつけて」
新太が影のように滑り込んできた。小柄な身体を活かし、看守の死角となる通気ダクトの隙間を音もなくすり抜けていく。鉄馬は、マヒした右半身を庇いながら、引きずる左足の「錆びた首輪」が音を立てないよう、細心の注意を払って歩みを進めた。首輪の冷たい鉄の感触だけが、彼の意識を現実に繋ぎ止める唯一の錨だった。
有毒ガスが立ち込め、衛兵すらも近づかない立ち入り禁止区域――「落盤エリア」。その最深部に位置する「試練の奈落」は、底の見えない漆黒の縦穴だった。吹き荒れる強風が、奈落の底から不気味な咆哮のように這い上がってくる。
縦穴の淵では、古い眼鏡をかけた白髪交じりの男、元闇医者の半兵衛が、小さな携帯用の炉を囲んで待っていた。炉の上では、老鍛冶師・源蔵が極秘裏に調合し、平太が製錬所から命がけで盗み出した金属薬液――「玄鉄骨髄液」が、どろどろとした漆黒の気泡を上げて沸騰していた。重い金属臭が、狭い空洞に充満する。
「馬鹿野郎が」
半兵衛は鉄馬の首筋の化膿した傷を一瞥し、吐き捨てるように言った。
「首の感染症が全身に回りかけている。この状態で両脚と肋骨を砕き、沸騰する玄鉄を流し込むなど正気の沙汰じゃない。ショック死するか、血管が熱収縮で破裂してその場で即死するのがオチだぞ」
「やらなければ、明日の労働で甚八に右腕のマヒを悟られ、どのみち殺される」
鉄馬の声は、掠れてはいたが、岩石のように固かった。彼は奈落の淵に立ち、自身の両脚を見つめた。凡骨の肉体を捨て、生身の「鉄骨」を得るためには、この脆弱な骨格を一度完全に粉砕しなければならない。
「新太、淵に立て。茂吉、砂時計を監視しろ。半兵衛……準備を」
鉄馬は「無痛の瞑想法」を極限まで引き上げた。脳内の痛覚伝達を遮断し、自身の精神を肉体という名の物質から切り離す。そして、彼は迷うことなく、自身の両脚を奈落の突き出た鋭利な玄鉄岩の角へと、自重を乗せて全力で叩きつけた。
――ゴキィ、グシャッ!!!
生々しい骨折音が、奈落の強風にかき消される。右脛骨と腓骨が、自身の体重と岩の硬度によって物理的にひしゃげ、皮膚の内側で無数の破片へと砕け散った。鉄馬はさらに、大鉄槌を左手一本で振り上げ、自身の左脛骨と、むき出しの肋骨に向けて容赦なく叩き下ろした。
――バキィィィン!
肺が潰れ、口から大量の鮮血が噴き出す。両脚の骨格としての支持力を完全に失った鉄馬の巨体は、崩れるように奈落の淵の石床へと倒れ伏した。骨髄が破裂し、内側からの激しい出血が肉を膨らませる。凄絶な激痛が、瞑想による精神の防壁を容赦なく叩き壊そうと荒れ狂う。
「半兵衛、急げ! 骨が冷める前に!」
お蘭から授かった「接骨薬液の調合規則」に従い、半兵衛が迅速に動いた。接骨草の搾り汁と砕骨丹の粉末を、鉄馬の沸騰する体温に合わせてミリ単位で混合した薬液を、まず傷口に注ぎ込む。生薬が肉を焼き、化膿した首の毒素を一時的に中和する。
そして、半兵衛はひしゃくを手に取り、沸騰する漆黒の「玄鉄骨髄液」を、鉄馬の裂けた皮膚と、砕け散った両脚の骨の隙間へと、直接流し込んだ。
「ジュゥゥゥッッ!!!」
肉が焦げる白煙が立ち上り、凄まじい熱傷が鉄馬の四肢を襲った。数千度の液体金属が、砕けた骨髄の隙間へと物理的に浸透していく。鉄馬の体温は一瞬で沸騰寸前まで上昇し、全身の血管が青黒く浮き上がった。激痛のあまり、彼の呼吸が完全に停止しかけ、心臓が物理的な限界を迎えて停止しようとする。
(ここで……止まるか……! 叔父・鉄山への復讐も、小夜の救出も、まだ何一つ成し遂げていない!)
鉄馬の血脈に眠る、伝説の先祖・宗馬の遺伝子――「骨髄変異の自己活性化」が、死の淵で本能的に起動した。鉄馬の骨髄が「ドクン、ドクン」と不気味な重い脈動音を立て始め、骨髄細胞が飢えた獣のように、流し込まれた玄鉄の粒子を貪欲に吸着し始めた。砕けた骨の破片同士が、金属成分を核として、驚異的な速度で再結合していく。
しかし、急激な熱収縮により、鉄馬の血管が破裂しかけた。半兵衛が素早く動いた。彼は自身の医療用内力を込めた「金針」を、鉄馬の太腿の主要な経絡のツボに正確に突き刺した。金針を伝わる微弱な内力循環が、血管の破裂を物理的に抑制し、血液の暴走を繋ぎ止める。理論と体質、そして医師の技術が噛み合った瞬間だった。
「交代まで、残り五分!」
茂吉が叫んだ。砂時計の砂は残りわずか。その時、奈落の淵から、新太の竹笛が「ピィィィー」と高く鋭い警告の音を響かせた。不審な足音が、落盤エリアの入り口から近づいている。甚八の非公式な追加巡回か、あるいは夜間警備のイレギュラーな動きか。
「鉄馬、動けるか!?」
半兵衛が焦り、鉄馬の身体を抱え起こそうとした。だが、両脚の骨は金属と同化しつつあるものの、結合は未だ不完全だった。ここで無理に立ち上がれば、結合しかけた関節が逆方向に曲がり、一生歩けなくなる廃人と化す。鉄馬は「無痛の瞑想」を維持したまま、自身の呼吸を極限まで遅くし、心臓の鼓動を一時的に停止させる「仮死脈動の制御律」を起動した。
半兵衛と茂吉は、全身から熱い金属蒸気を放つ鉄馬の身体を、煤だらけの汚れた毛布で幾重にも包み込み、奈落の岩陰の狭い隙間へと押し込んだ。彼ら自身も、息を殺して闇に溶ける。
直後、松明を持った二人の衛兵が、落盤エリアの空洞へと足を踏み入れてきた。
「おい、今、笛のような音が聞こえなかったか?」
「気のせいだろ。こんな有毒ガスの溜まり場に、奴隷が来るはずがない。甚八の旦那も神経質になりすぎなんだよ。さっさと戻って酒でも飲もうぜ」
衛兵たちの松明の光が、鉄馬たちが隠れる岩陰のすぐ数センチ先をかすめて通り過ぎていく。鉄馬は毛布の中で、完全な死体のように生体反応を消し去っていた。彼の首の傷から流れる血は、接骨草の冷却効果によって一時的に凝固し、匂いすらも遮断されていた。
やがて、衛兵たちの足音が遠ざかり、落盤エリアに再び静寂が戻った。
「……助かったな」
半兵衛が安堵の息を漏らし、鉄馬の胸に刺さった金針を抜いた。鉄馬の心臓が、再び「ドクン」と重く鼓動を再開する。彼の両脚の骨は、玄鉄の金属成分を完全に吸着し、元の骨格の数倍の密度を持つ「砕骨期・第二整復」の境界へと到達していた。
しかし、その代償は重かった。全身の関節の柔軟性が大幅に低下し、常人のような軽快な動きは永久に失われた。彼の肉体は、俊敏さを犠牲にすることで、絶対的な「剛性」を手に入れたのだ。
夜明け前、鉄馬は新太たちに支えられながら、第4奴隷宿舎へと這って戻った。点呼の鐘が、鉱山全体に冷酷に響き渡る。
鉄馬が宿舎の木造の床に、最初の一歩を踏み出した、その瞬間だった。
――ギィィ、ギィィ……。
宿舎の頑丈な床板が、鉄馬の足の裏が触れた瞬間、まるで巨大な鉄の塊を置かれたかのように、不気味に、そして重く軋んだ音を立てて大きく沈み込んだ。彼の身体の質量は、すでに生身の人間を超え、鉄の重さへと変質し始めていた。
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!