鎖鎌の蛇刃
第4奴隷宿舎の夜は、凍えるような沈黙に支配されていた。隙間風が木造のボロ壁をすり抜けるたび、湿った藁と煤煙の混ざった不快な臭いが狭い室内に漂う。天井の梁は重労働に喘ぐ奴隷たちの湿った吐息を吸って黒く淀み、壁際では数十人の男たちが泥のように眠りこけていた。
部屋の最奥、冷たい土間に直に座り込んだ剛田鉄馬は、自身の左腕をそっとさすった。昼間の第七坑道での落盤。数百キロの巨岩を片腕だけで受け止めた代償は、生々しい熱傷と筋肉の破裂となって彼の肉体を苛んでいた。皮膚のケロイドからは、玄鉄の粉末が混ざった黒赤色の血がじわじわと滲み出て、お光が洗い上げたばかりの「玄鉄の包帯」をじわじわと汚していく。
「鉄馬兄貴、まだ熱が引かないね……」
隣にうずくまる新太が、消え入るような声で囁いた。少年の目は、昼間の地獄のような崩落現場で鉄馬が見せた「人間を超越した骨の硬度」に対する畏怖と、それ以上の深い感謝に濡れていた。鉄馬が内力を一切持たぬ「無能」でありながら、その物理的な肉体の質量だけで自分を救ってくれた事実を、新太は魂に刻み込んでいた。
「心配するな。骨は砕けていない。ただ筋肉が、骨の強度についていけずに悲鳴を上げているだけだ」
鉄馬は感情の起伏を完全に排した声で答えた。右腕は未だ鬼頭剛造に砕かれた際の後遺症で硬直したまま動かない。左腕の傷を隠すようにボロ布をきつく巻き直そうとした、その瞬間だった。
――バキィィン!
宿舎の頑丈な木製の扉が、外側からの暴力的な衝撃によって一瞬で粉砕された。吹き飛んだ木片が寝静まっていた奴隷たちの顔に降り注ぎ、悲鳴が上がる。立ち込める土煙の向こうから、ジャラジャラと不気味な金属音を響かせながら、一人の男が踏み込んできた。
薄暗い松明の光に照らされたのは、細身でしなやかな体躯を持つ男。その両手には、無数の鋭利な棘が鋳込まれた長い鎖鎌「蛇咬」が握られていた。首席看守・鬼頭剛造の右腕であり、奴隷たちの間で最も陰湿な拷問魔として恐れられる看守、甚八だった。
「夜分遅くにすまないね、泥人形ども」
甚八は不敵な冷笑を浮かべ、鎖鎌の刃をジャラジャラと弄んだ。彼の周囲からは、緑がかった湿った内力の波動が立ち上り、宿舎内の空気を物理的に重く引き締めていく。
「第七坑道で『怪力の奴隷が岩を素手で受け止めた』という面白い噂を聞いてね。鬼頭の旦那はあのゴミ(鉄馬)が死んだと信じ込んでいるが、俺の目は誤魔化せない。おい、捜せ。この宿舎に不穏な『力』を隠し持っているネズミがいるはずだ」
甚八の命令により、武装した衛兵たちが土足で宿舎へ踏み込み、奴隷たちの寝床を荒々しくひっくり返し始めた。新太は恐怖で肩を震わせ、お光は壁際で息を殺して木桶を身体の陰に隠した。木桶の中には、血痕を消すために黒鉄の削り粉を混ぜた特製の洗浄液が残っている。あれが見つかれば、一味全員がその場で処刑される。
衛兵のブーツが、鉄馬の座る土間のすぐ近くまで迫る。一人の衛兵が、鉄馬の寝床代わりのボロ布をツルハシの先で手荒く剥ぎ取った。その瞬間、床板の隙間に隠されていた「玄鉄の包帯」の予備と、お蘭から極秘裏に調融された接骨用の生薬が、薄暗い松明の光の下に晒された。
「看守長! これを!」
衛兵が叫び、包帯を掴み上げた。甚八の目が、蛇のように細められる。彼は音もなく鉄馬の前に歩み寄り、その包帯を指先でなぞった。
「ほう……黒鉄の削り粉が織り込まれた玄鉄の包帯、それに宮廷の薬草師しか扱わぬはずの接骨草の匂いだ。ただの奴隷が、なぜこのような特級の医療品を持っている? 鉱山管理府の倉庫から盗み出したか、あるいは……裏で誰かと繋がっているな?」
甚八の問いに、鉄馬は無言を貫いた。ただ、冷徹な狼のような目で甚八を見つめ返す。その沈黙が、甚八の残虐なサディズムに火をつけた。
「答えられないか。なら、その汚い口を開けてやろう」
甚八が右手を一閃させた。ジャラリと音を立てて、棘付き鎖鎌「蛇咬」の鎖が鉄馬の首元に巻き付けられた。鋭い金属の棘が、鉄馬の首筋の皮膚に深く食い込み、じわりと赤い血が滴り落ちる。
「この蛇咬はね、内力を流し込むと棘が物理的に立ち上がり、絡みついた肉を骨ごと削ぎ落とすようにできている。お前のその自慢の『頑丈な肉体』が、どこまで耐えられるか試してみよう」
甚八が鎖の端を強く引き絞り、自身の「鎖鎌気功」による内力を鎖へ流し込んだ。鎖全体が不気味な緑色の光を放ち、食い込んだ棘が鉄馬の皮膚の内側で振動を始める。首の血管と気管が物理的に締め上げられ、焼けるような激痛が鉄馬の全身を襲った。普通の人間であれば、最初の数秒で呼吸困難に陥り、激痛のあまり床を転げ回って許しを乞う拷問だった。
(痛みを拒絶するな。ただの『情報』として処理しろ)
鉄馬は脳内で「無痛の瞑想法」を起動した。道安から授かった呼吸の極意が、彼の精神を現実の激痛から完全に切り離す。脳の痛覚神経を一時的に遮断し、首から伝わる肉の裂ける感覚、血管が焼き焦がされる熱さを、ただの「物理的な損傷信号」として客観的に観察する。彼の心拍数は、一拍たりとも乱れることはなかった。
「……何だと?」
甚八の顔から、冷笑が消えた。目の前の奴隷は、首を鎖で締め上げられ、肉を抉られているというのに、悲鳴一つ上げない。それどころか、その瞳には恐怖の色すらなく、ただ氷のように冷たい光を宿して、じっと自分を見つめ返しているのだ。
「叫べ! 無能が! なぜ泣き叫ばない!」
プライドを傷つけられた甚八が激怒し、さらに内力を込めて鎖を限界まで引き絞った。棘がさらに深く食い込み、鉄馬の首の骨格へと達する。その瞬間、鉄馬の皮膚の下で、すでに「第一整復」を終えて金属化しつつあった首の骨が、不気味な「キィン」という微細な金属音を立てた。
――チッ。
静まり返った宿舎内に、小さな破断音が響いた。甚八の鎖鎌「蛇咬」の鋭い棘の一つが、鉄馬の驚異的な密度を誇る首の骨に物理的に衝突し、硬度負けしてわずかに刃こぼれしたのだ。甚八の手元に、微小な金属の反動が跳ね返る。
「馬鹿な……人間の骨が、俺の蛇咬を弾いた……?」
甚八の背筋に、生まれて初めての奇妙な戦慄が走った。目の前にいるのは、本当に人間なのか。内力を一切感じられないこの肉体が、なぜこれほどの「物理的な剛性」を持っているのか。鉄馬の底知れぬ眼光に、甚八は一瞬、確かな『恐怖』を覚えた。
「おいおい、甚八。夜中にずいぶんと騒がしいじゃないか」
宿舎の壊れた入り口から、だらしない足取りで一人の男が入ってきた。酒瓶を片手に持ち、全身から強烈な酒臭さを漂わせている片腕の武人――元衛兵隊長の十兵衛だった。彼は錆びついた刀を腰に下げ、眠そうな目で甚八の鎖を見つめた。
「十兵衛……降格された老兵が、俺の尋問に口を挟む気か?」
甚八が忌々しげに睨みつける。十兵衛は酒を一口煽り、にやりと笑った。
「いやね、大膳の旦那が言ってたぜ。次の出荷までに黒鉄石のノルマが足りなきゃ、看守の給与を削るってな。今ここで、第一採掘場で一番働く怪力奴隷を殺しちまったら、旦那の怒りは誰に向かうかねえ?」
十兵衛の言葉は、酒に酔った戯言のようでありながら、大膳の強欲な本質を突いていた。甚八は歯噛みし、鉄馬の首から鎖を乱暴に引き抜いた。引きちぎられた肉から、赤い血が土間に飛び散る。
「……命拾いしたな、ゴミ虫。だが、お前が何かを隠していることは確実だ。次に見せる隙が、お前の命日だと思え」
甚八は吐き捨てるように言い残し、衛兵部隊を率いて宿舎を去っていった。静まり返った室内で、鉄馬は静かに息を吐き、外れた首の関節を自らの手で「ゴキリ」と鈍い音を立てて元の位置に戻した。首の深い裂傷からは、未だ血が止まらない。その傷口は、すでに薄暗い宿舎の不衛生な空気によって、不気味に熱を持ち始めていた。
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