狂乱の鉄槌、墓石を砕く豪力
雨上がりの冷気が、無縁墓地のぬかるんだ土を包み込んでいた。哭き穴から駆け戻る影狼の足袋が、湿った泥を激しく跳ね上げる。肺腑を焦がすような息苦しさの中、彼の耳が捉えていたのは、風の音でも、己の荒い呼吸音でもなかった。
――チリリン! チリリン!
お鈴が持つ、亡き妹・小夜の形見の鈴が、悲鳴のように激しく鳴り響いている。その澄んだ真鍮の音は、墓地の不気味な静寂を切り裂き、助けを求める切実なシグナルとなって影狼の脳髄を叩いた。お鈴の心音は恐怖に凍りつき、まるで捕らえられた小鳥のように不規則で、激しいテンポで跳ね上がっている。
「……お鈴!」
影狼の胸に、これまでにない焦燥の炎が燃え上がる。復讐の修羅と化してから、一度として乱れることのなかった彼の心が、その小さな命の危機を前にして激しく揺らいでいた。墓地の入り口である静水寺の境内に踏み込んだ瞬間、空気を物理的に押し潰すような不吉な重低音が、影狼の皮膚に直接ぶつかってきた。
――ゴオオ、ゴオオ。
それは、巨大な質量が風を切り裂く、唸るような風切り音。そして、直後に響き渡る、鼓膜を物理的に引き裂くほどの破壊音だった。
――ドガァァァン!
激しい衝撃波と共に、何十貫もある墓石が木っ端微塵に粉砕され、硬い石の破片が四方八方へと弾け飛ぶ。影狼は「盲目回避」の感覚を全開にし、首を僅かに傾けて飛来する石礫を避けた。頬を鋭い破片が掠め、細い血の線が刻まれる。泥の匂いに混ざり、砕けた石粉の乾いた臭いと、獣のような荒々しい男の体温が風に乗って漂ってきた。
「がははは! 逃げ惑うなよ、ネズミが! 影狼の隠し子か何か知らねえが、まずはこの小娘から叩き潰してやる!」
耳を劈く大声の主は、黒塔の同期であり、隠密を何よりも嫌う怪力の巨漢――鉄腕の剛太だった。その心音は、血流が沸騰したかのように重く、まるで戦太鼓のように力強く鳴り響いている。剛太が手にする巨大な鋼鉄の大槌「破山」が、再び泥塗れの地面を引きずられる「ズズズ……」という不快な金属音を立てていた。
お鈴の鼓動は、剛太のすぐ近く、傾いた墓石の僅かな隙間に位置していた。彼女はすばしっこく剛太の巨体を翻弄し、墓石の影に身を隠しているが、剛太の圧倒的な力の前では、その遮蔽物も紙細工に等しかった。
「剛太……!」
影狼が煤けた竹杖を固く握り締め、ぬかるみの中に立ち塞がった。その気配を察知した剛太が、下卑た哄笑を上げる。
「おお、帰ってきたか、盲目の死に損ないめ! 網三の野郎を殺したそうだが、あんなコソコソした罠師と一緒にすんじゃねえぞ。俺の『剛力・鉄骨の肉体』が、お前のその貧弱な耳ごと、跡形もなく叩き潰してやる!」
剛太が両腕の筋肉を爆発的に膨張させ、大槌を頭上へと振りかざした。空気が一瞬にして引き絞られ、風の流れが遮られる。影狼は「風の軌跡視」で、剛太の背後に生じる「巨大な空気の空白」を捉えた。振り下ろされる大槌の軌道は、まさに影狼が身を隠そうとした墓石の真上だった。
「お鈴、耳を塞げ!」
影狼が叫ぶと同時に、大槌が炸裂した。
――ズドォォォン!
墓石が爆発したかのように砕け散る。剛太の「破砕撃」だ。粉砕された無数の石礫が、空中で「ヒュヒュヒュヒュッ」と鋭い風切り音を立てながら、四方八方へと弾け飛ぶ。その石礫の嵐は、影狼の耳を音響的に目眩ましするための最悪のホワイトノイズとなった。周囲の大気の対流が完全に破壊され、通常の「聴風の境地」による空間把握が、白い雑音の中に埋没していく。
(耳が……使えぬ!)
影狼の脳裏に焦燥が走る。空気を伝わる音がノイズで遮断された今、剛太の次の一撃を避けることは極めて困難だった。剛太はさらに叫び声を上げ、大槌を横薙ぎに振り回しながら突進してくる。大気の圧力変化すら、飛び散る石礫の風圧にかき消されていた。
しかし、影狼は冷静だった。彼は竹杖の先(石突き)を、ぬかるんだ土の底にある、硬い岩盤へと強く押し当てた。全身の意識を足裏と手のひらの皮膚へと集中させる。
――「地震動感知」。
泥濘の底を伝わってくる、剛太の二メートルを超える巨体が踏みしめる強烈な足音。ドス、ドス、という地響きのような微震が、竹杖を通じて影狼の手のひらへと明確に伝わってきた。さらに、剛太の「剛力・鉄骨の肉体」が放つ、大地を揺らす重心移動の波形が、影狼の足裏を通じて脳内に立体的な泥の地図を描き出す。
(右から、斜め下に踏み込んだ。大槌の薙ぎ払いが来る!)
影狼は「地震動感知」を頼りに、剛太が踏み込んだ瞬間の微震を捉え、身体を極限まで低く沈めて滑り込んだ。彼の頭上を、大槌の風圧が「ゴオオ」と獰猛に通り抜けていく。避けた瞬間、影狼は竹杖の節を親指で押し込み、内部の極薄の刃を引き抜いた。未調整の鞘が「キィ」と不快な摩擦音を立てる。
影狼は、避けた勢いを利用して、剛太の無防備な脇腹へと仕込み刃を走らせた。風の抵抗を排した、鋭い一閃。
――ガギィィン!
肉を裂く音ではない。まるで硬い鋼鉄を切り裂こうとしたかのような、甲高い金属衝突音が無縁墓地に響き渡った。影狼の指先に、強烈な反発の衝撃が伝わる。剛太の筋肉は、極限まで鍛え上げられ、刀剣を通さない「剛力・鉄骨の肉体」と化していたのだ。仕込み刃の極薄の刀身が、その硬さに押されて微かに歪み、刃先が僅かに欠ける鈍い感触が影狼の手のひらに残った。
「がははは! 無駄だ! 俺の体は、お前のそんななまくら刃じゃ傷一つ付かねえんだよ!」
剛太は傷一つない脇腹を誇示するように、そのまま巨体を生かした強烈な体当たり(ショルダータックル)を繰り出してきた。影狼は咄嗟に仕込み刃の腹を盾にし、剛太の突進を受け流そうとした。
――メキメキ……!
剛太の圧倒的な質量と剛力が、仕込み刃の側面に直接叩きつけられる。刀身が極限まで湾曲し、金属疲労の限界に達していた鋼の内部で、不吉な「ピキリ」という極小の亀裂の音が響いた。影狼の身体は泥の上を数歩押し流され、両足が泥濘に深く沈み込む。全身の骨がきしみ、口内に鉄の味が広がった。
(仕込み刃が……持たぬ。次、正面から交えれば、確実に折れる)
影狼は、自身の唯一の武器が崩壊の危機に瀕していることを悟った。周囲の霧の中からは、さらに多くの「黒塔」の刺客たちが、静かに包囲を狭めてくる衣擦れの音が微かに聞こえ始めている。一刻の猶予もない。この怪物の一撃を、次の合戦で終わらせる必要があった。
剛太が再び大槌を大きく振りかざす。その動作は大振りであり、破壊力は絶大だが、同時に最大の隙を生み出す。「心音同調」の耳を澄ますと、剛太の心臓が、次の強打を放つために血液を一気に送り出し、「ドクン!」と不自然に跳ね上がる瞬間が聞こえた。剛太の右脇の下の経絡が、筋肉の収縮によって一瞬だけ無防備に開かれる。
(そこだ――)
影狼は、これまでに受けた打撲の激痛を脳内でねじ伏せ、踏み込んだ。足裏を通じて伝わる泥の感触、風読みの羽が伝える僅かな空気の揺らぎ。すべての感覚が、剛太の右脇の下という「一点の隙」へと収束していく。
影狼は、刀の軌道から一切の無駄な曲線を排し、最短距離の直線の軌道を選択した。宗達から伝授された剣理――「直線の一閃」。
風を切り裂く音すら発生させない、極限の突き。仕込み刃の先端が、剛太の筋肉が最も弛緩した瞬間を正確に捉え、彼の右脇の下の柔らかい経絡の隙間へと、滑り込むように突き刺さった。
「が、ふっ……!?」
剛太の心音が、驚愕と苦痛によって一瞬で停止した。仕込み刃は、彼の硬い筋肉の隙間をすり抜け、体内の最も脆い動脈を正確に貫いていた。大槌を振り下ろそうとした剛太の両腕から、一瞬にして力が失われる。
しかし、剛太の巨体の慣性は止まらない。彼の手から離れた巨大な大槌「破山」が、重力に従って地面へと落下し、影狼が持つ竹杖の鞘を物理的に叩き割った。
――バキィィン!
激しい破砕音と共に、影狼の竹杖は先端から半分に裂け、仕込み刃を収める「鞘」としての機能を完全に失った。影狼は衝撃の微震に耐えながら、辛うじて身を引いて大槌の直撃を避けた。剛太の巨体が、ぬかるんだ泥の中に重く倒れ込み、二度と動かなくなった。
墓地を支配していた破壊の嵐が去り、再び静寂が戻ってきた。しかし、影狼の手に残されたのは、刀身に深い亀裂が入り、鞘も半分に裂けた、今にも折れそうなボロボロの仕込み刃だけだった。懐の「名刀の残鉄」が、その重みで影狼に語りかけるように冷たく沈んでいる。
その時、静水寺の山門の向こうの霧の中から、複数の不審な「足音」と、衣服が擦れる微かな絹の音が、影狼の過敏な耳に届き始めた。黒塔の追っ手たちの、新たなる包囲網がすでにこの墓地へと迫っているのだ。
「おじさん……!」
お鈴が墓石の隙間から這い出し、影狼の手を強く握り締めた。影狼は折れかけた刀を固く握り直し、霧の奥から這い寄る死の気配に向けて、無言のまま耳を澄ませた。刀を直さねば、次の戦いには生き残れない。彼は半助から聞いた、偏屈な老鍛冶職人・伍助の鍛冶場へ向かう決意を固めた。
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