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風の空白を斬る、哭き穴の決着

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ピシ、ピシ、と頭上の闇から降下してくる極細の鋼線が、哭き穴を吹き抜ける暴風を細切れに切り裂く。


 湿った泥と岩の匂いの中に、ツンと鼻を突く青臭い毒液の臭いが混ざり合っていた。蛇骨の毒液だ。かすり傷一つが死に直結する死神の牙が、容赦なく影狼の頭上から降り注ぐ。耳を劈く岩穴の轟音は、平衡感覚を狂わせるための最悪の雑音(ホワイトノイズ)として、影狼の脳に激しい偏頭痛を呼び起こしていた。左腕の裂傷からは、温かい血が絶え間なく流れ落ち、冷たい床に吸い込まれていく。


(耳は使えぬ。音に惑わされれば、肉体を細切れにされるだけだ)


 影狼は、物理的な「音」を頼りに索敵することを完全に放棄した。彼は深く息を吸い込み、自身の肺の空気をすべて吐き出し、胸の上下動を完全に止めた。そして、意識の焦点を内耳の奥深く、神経のさらに深部へと沈めていく。


 ――呼吸法「深海の息」。


 その瞬間、脳を狂わせんばかりに鳴り響いていた暴風の咆哮が、急速に遠ざかっていった。まるで、冷たく重い深海の底へと自らの魂が沈んでいくかのように。耳朶を叩く大音響は、遠い水面の上の出来事のように退き、影狼の世界には、凍りつくような「絶対の静寂」が訪れた。


 静寂の海の中で、影狼は全身の皮膚の毛穴を開き、大気の微細な対流を肌で直接感じ取った。――「風の軌跡視」。


 暴風が岩穴を吹き抜ける際、肉眼では見えない極細の鋼線に遮られる。その鋼線の背後に生じる、ミリ単位の僅かな「気流の乱れ」と「風の空白」。それらが、影狼の脳裏に、暗闇を切り裂く青く輝く光の糸となって立体的に描き出されていく。


「くははは! 逃げ場はないぞ、影狼! 鋼の檻に押し潰されて死ね!」


 天井近くの闇から、網三の確信に満ちた心音が響いてくる。網三は、影狼が耳を潰されて完全に無力化したと誤認し、指先を複雑に動かして鋼線の檻を物理的に縮めてきた。


 だが、影狼の「心眼」には、迫り来る死の結界のすべての隙間が「視えて」いた。


 影狼は一歩、前に踏み出した。衣服の裾を鋼線が掠める。しかし、彼は「霧走り」の重心移動を極限まで軽くし、大気の流れと完全に一体化しながら、降下する鋼線の僅か数ミリの隙間を滑るようにすり抜けていった。その身のこなしは、風そのものが檻を通り抜けるかのようだった。


「な、何だと……!? なぜ当たらぬ!」


 網三の心拍数が、驚愕によって一瞬で跳ね上がった。ドクン、というその強烈な心臓の鼓動が、深海の静寂の中で、一点の赤い光のように浮かび上がる。


 網三は焦燥に駆られ、最後の足掻きとして、指先に仕込んだ飛針を放った。空気を切り裂く「ヒュッ」という極小の風切音。影狼は「音波相殺の理」を起動し、仕込み刃の煤けた鞘を正確な角度で一閃させた。飛来する針の軌道が、鞘が放つ風圧によって無音のまま弾き落とされ、岩壁に当たって虚しく火花を散らした。


(そこだ)


 影狼は、網三が驚愕のあまり「指先で鋼線を引く、極小の摩擦音」を耳の奥で完全に補足した。敵の正確な位置は、頭上の突き出た岩棚の上。


 影狼は地面を強く蹴り上げた。風の抵抗を一切生まない「直線の一閃」の構え。暗闇の中、網三が次の暗器を放つよりも早く、影狼の仕込み刃が最短距離の直線の軌道を走り抜けた。


 ――ザシュッ。


 肉を裂く鈍い音が、哭き穴の静寂を切り裂いた。影狼の刃は、網三の喉元を寸分の狂いもなく無音で貫いていた。


「が、は……お前、は……目が見えぬ、はず……」


 網三は喉から血を吐き出しながら、信じられないというように虚空を掻きむしった。その身体が、岩棚から床の泥濘へと重く落下する。


「源十、様……は……すで、に……」


 網三の心音は、その言葉を最後に完全に停止した。黒塔の罠師は、自らが仕掛けた音響の地獄の中で、自身の鼓動を道標にされて敗死したのだ。


 影狼は「深海の息」を解除した。途端に、激しい偏頭痛と、耳の奥を焼き焦がすような激しい耳鳴りが襲いかかり、彼は竹杖を支えにして激しくよろめいた。だが、立ち止まるわけにはいかない。


 影狼は、網三の死体から僅かに離れた岩壁の奥、父・朔太郎の古い知人の墓石が佇む場所へと歩み寄った。竹杖の先で地面を叩き、反響音が不自然に硬い場所を特定する。仕込み刃の先端で冷たい土を掘り起こすと、指先に、ずっしりとした金属の冷たさが触れた。


 かつて父が残した、不純物のない極限の硬度を持つ「名刀の残鉄」。影狼はその破片を静かに懐に収めた。これで、仕込み刃を鍛え直すための素材は揃った。


 その時だった。哭き穴の入り口から吹き込む風に乗って、遥か彼方から、ある音が影狼の耳に届いた。


 ――チリリン! チリリン!


 それは、廃寺「静水寺」の方角から響いてくる、澄んだ真鍮の音。しかし、その響きはいつもと決定的に異なっていた。お鈴が身につけている、亡き妹・小夜の形見の鈴。その鈴が、悲鳴を上げるように不自然に、そして激しく鳴り響いていた。


(お鈴……!)


 影狼の心拍が跳ね上がった。あの鈴の鳴り方は、お鈴が「怪力の巨漢」に追い詰められ、命の危機に瀕していることを示している。影狼は残鉄を握り締め、嵐の墓地へと走り出した。

HẾT CHƯƠNG

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