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蜘蛛糸の罠、哭き穴の風圧

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「動くな! 盲目の按摩だ、そいつの編み笠を剥ぎ取れ!」


 蹴り破られた扉から流れ込む霧と、捕手たちの荒々しい足音が、居酒屋「霧隠れ」の生温かい空気を一瞬で凍らせた。松明の火花がバチバチと爆ぜる音が、影狼の過敏な耳に容赦なく突き刺さる。捕手たちの心音は一様に跳ね上がり、獲物を追い詰めた興奮で血流が激しく加速していた。


 影狼は煤けた編み笠の下で、静かに呼吸の速度を落とした。ここで抜刀すれば、未調整の鞘が「キィ」という高い摩擦音を立てる。それは狭い室内で自身の正確な位置を告げる致命的な合図となる。さらに、捕らえられた貧民や、恐怖で硬直している半助を巻き込むわけにはいかない。


「お、お役人様、滅相もございません……。あっしはただの通りすがりの按摩で……」


 影狼はわざとらしく腰を屈め、竹杖を頼りに床を手探りする、哀れな盲人の芝居を打った。捕手頭がせせら笑い、容赦なく十手を振り下ろそうとしたその刹那、影狼の足裏が床板の僅かな「きしみ」を感知した。踏み込んでくる捕手の重心が、右足から左足へと移動する瞬間の、コンマ数秒の空白。


(今だ――)


 影狼は「歩法・霧走り」を発動した。足裏の体重を滑らかに逃がし、大気の流れを一切乱すことなく、捕手頭の脇の死角へと滑り込む。驚愕する捕手頭の心音が「ドクン」と一瞬停止した。影狼はその背後をすり抜けざま、近くの卓に置かれていた安酒の徳利を、竹杖の先で音もなく小突いた。


 ――がしゃん!


 徳利が床に落ちて割れる鋭い音が、店内の静寂を破った。驚いた泥酔浪人たちが「何だ!?」と怒号を上げ、立ち上がる。その混乱の騒音を盾にするように、影狼は気配を完全に消し、捕手たちの槍の隙間を縫って裏口の戸へと滑り出た。霧の立ち込める宿場町の裏路地へと、影のように消え去るその身のこなしは、誰の目にも留まらなかった。


 裏路地の深い闇の中で、影狼は追ってきた半助の気配を捉えた。半助の心臓は、恐怖と興奮で破裂せんばかりに波打っている。


「戻れ」


 影狼は冷徹な声を、霧の向こうの半助の耳元へと届けた。


「源十の傍へ戻り、奴の日常の警備を探れ。裏切れば、お前がどこに隠れようとも、その足音を頼りに喉を裂く」


「わ、わかった……お前の影になる……!」


 半助は震えながら頷き、居酒屋の方角へと引き返していった。影狼はそれを見送ることもせず、煤けた竹杖を握り締め、宿場町の外れに広がる無縁墓地へと向かった。目指すは、墓地の最深部に口を開ける「哭き穴」。かつて父・朔太郎が墓地の一角に隠したとされる、父の最高傑作の残骸――「名刀の残鉄」を回収するためである。それさえあれば、この歪んだ仕込み刃を、真の「無音の剣」へと鍛え直すことができる。


 だが、無縁墓地を進むにつれ、大気の肌触りが不自然に変質していくのを、影狼の皮膚が敏感に察知した。湿った泥の匂いに混ざり、微かに漂うのは、防錆用の特殊な油の臭い。そして、風の流れが、何か見えない「細い障害物」によって、細切れに遮られているような違和感。


(気流が……滞っている)


 やがて、影狼の耳に、地獄の這い寄るような音が届き始めた。「哭き穴」の入り口に近づくにつれ、狭い岩肌を吹き抜ける風が、「ヒュー、ヒュー」という不気味な高音の風切り音を立てていた。それはまるで、数千の死者が一斉に咽び泣いているかのような、耳を劈く音響の嵐だった。


 哭き穴に一歩足を踏み入れた瞬間、影狼は激しい偏頭痛に襲われた。激しい風の咆哮が、彼の調律された内耳を物理的に圧迫し、周囲の音情報を完全に塗りつぶしていく。通常の「反響定位」が、この凄まじいホワイトノイズによって完全に狂わされていた。距離感が失われ、世界の壁がどこにあるのかすら曖昧になる。


「くくく……。這い上がってきたな、盲目の死に損ないめ」


 風の咆哮の隙間から、湿り気を帯びた不気味な声が響いた。声の主は、岩穴の天井近くの闇に潜んでいる。黒塔の罠師、毒蜘蛛の網三。その心拍数は不気味なほど一定であり、獲物が罠にかかるのを待つ、冷酷な蜘蛛そのもののテンポだった。


「お前の耳が良いことは、源十様から聞いている。だからこそ、この哭き穴を選んだ。この騒音の中で、お前の『耳』がどこまで役に立つかな?」


 次の瞬間、影狼の「針金感知」が、極めて微細な高周波の金属音を捉えた。


 ――チリ、チリ、チリ……。


 網三が遠隔から、張り巡らされた「極細の鋼線」を弾いたのだ。肉眼ではほぼ不可視の、触れた者の肉を容易に削ぎ落とす強靭な鋼の糸。その糸が風に揺れ、不気味な「金属の振動波」となって、影狼を包み込むように広がっていく。音が四方八方の岩壁に反響し、影狼の脳内で空間の形状がぐにゃりと歪んだ。


(罠の結界が……張り巡らされている。だが、どこだ?)


 影狼は懐から「響き石」を取り出し、前方の暗闇に向けて無音で投げつけた。石が岩壁に当たる反響音を利用し、鋼線の位置を測ろうとしたのだ。しかし、哭き穴の複雑な風食洞の形状と、激しい風の咆哮が、石の跳ね返り音を無残に歪ませた。


 ――チィン、という高い音が、幾重にも重なって耳に届く。距離の測定を誤った。


「そこだ!」


 網三が鋼線の束を引き絞る音が聞こえた。咄嗟に身を引こうとした影狼だったが、左腕の皮膚に、凍るような冷たい感触が走った。


 ――ピシッ。


 極細の鋼線が、影狼の灰色の野良着を切り裂き、その下の皮膚を浅く切り裂いた。温かい血が流れ落ちる音が、風の音にかき消される。さらに網三が鋼線を引いて網を狭め、影狼の右袖が鋼線に触れて「ハラリ」と引き裂かれた。退路が、徐々に失われていく。


「どうした? 避けてみろ! お前の自慢の耳は、もう聞こえないようだな!」


 網三の哄笑と共に、頭上の闇から無数の鋭い暗器が放たれた。空気を切り裂く「ヒュヒュヒュッ」という複数の風切音。影狼は、その風切音の周波数を耳で瞬時に聞き分け、竹杖から仕込み刃を一気に引き抜いた。調整前の鞘が「キィ」と高い摩擦音を立てるが、哭き穴の轟音の前にその音はかき消される。


 影狼は仕込み刃を特定の角度で一閃させ、鋭い風圧の壁を作り出した――「音波相殺の理」。飛来する暗器の軌道が、影狼の刃が放つ風圧によって無音のまま逸らされ、岩壁に当たって虚しく火花を散らした。


「何だと……!? 音も聞こえぬはずの暗闇で、我が暗器を弾くだと!?」


 網三の心拍が、驚愕で一瞬だけ跳ね上がった。だが、網三はすぐに冷酷な落ち着きを取り戻し、指先を複雑に動かし始めた。張り巡らされた極細の鋼線が、今度は影狼の頭上から、彼の肉体を細切れにする速度で、徐々に降下し始める。


 激しい雨のような風圧が、影狼の頭頂部を物理的に押し潰そうとしていた。耳は轟音で使い物にならず、左腕の裂傷からは血が流れ続け、偏頭痛が脳を激しく叩いている。退路はない。網の結界は完全に狭まり、網三の正確な位置は未だ霧の彼方だった。


 影狼は、物理的な「音」を頼りにするのを一度止めた。彼は深く息を吸い込み、全身の皮膚の毛穴を開いた。耳ではなく、皮膚の触覚で、周囲の「大気の流れの滞り――風の軌跡」を直接感じ取るために。


 網三が、鋼線に猛毒「蛇骨の毒液」を塗り始める摩擦音が、微かに風に乗って聞こえてきた。かすり傷一つが死に直結する状況へと、戦況はエスカレートしていく。


 影狼が一歩、踏み出した。その瞬間、哭き穴の風の音が、僅かに歪んだ。頭上の闇から、毒を塗られた無数の鋼の糸が、彼の肉を削ぎ落とす速度で音もなく降り注いできた。

HẾT CHƯƠNG

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