黒霧宿の耳、仕込みの按摩
国境の山間にへばりつくように佇む宿場町「黒霧宿」は、その名の通り、絶えず湿った灰色の霧に包まれていた。ぬかるんだ街道には馬糞と濡れた藁の臭いが立ち込め、行き交う浪人や無頼漢たちの足音が、重く湿った泥を吸い上げる不快な音を響かせている。かつて朝廷の影として暗躍した「黒塔」が裏で実質的に支配するこの町は、法も秩序も霧の彼方に消え去った、欲望と暴力の吹き溜まりだった。
影狼は、その濁った人の流れの中に静かに身を置いていた。ボロボロの灰色の野良着を纏い、泥に汚れた白布で両目を深く覆った上に、煤けた編み笠を深く被っている。手には、泥を突くための煤けた竹杖。その佇まいは、どこにでもいる、その日暮らしの「盲目の按摩・影次」そのものだった。
だが、彼の煤けた竹杖の内部には、かつて名工であった亡き父が鍛え上げ、偏屈な老鍛冶職人・伍助が調整を施す前の、極薄かつ強靭な仕込み刃が隠されている。抜刀すれば、未調整の鞘が必ず「キィ」という金属の摩擦音を立てる不完全な刃。それが、今の影狼の唯一の相棒だった。
影狼は、宿場町の中心に位置する薄暗い居酒屋「霧隠れ」の暖簾をくぐった。女将のお艶が営むその店は、安酒の饐えた匂いと、安物の油が爆ぜる煙で満ちていた。
「いらっしゃい。按摩さんかい? 壁際の隅の席なら空いてるよ」
お艶の、煙管の煙を吐き出しながら放った、低くハスキーな声。その声の振動の跳ね返りから、影狼は瞬時に店内の立体的な形状を頭の中に描き出す。狭い土間に並ぶ五つの粗末な木卓、それぞれの席に腰を下ろす無頼漢たちの気配。影狼は「へえ、ありがてえことでさぁ……」と、盲人特有の弱々しい声を出し、竹杖で床を「コツ、コツ」と微かに叩きながら、最も薄暗い隅の席へと腰を下ろした。
彼は懐から、玄庵から譲り受けた「醒魂香」の微かな匂いを嗅ぎ、鍼治療によって一時的に調律された内耳の感覚を全開にした。居酒屋の中は、雑音の嵐だった。
「じょぼじょぼ」と安酒が猪口に注がれる湿った音。「がしゃん」と安物の皿が擦れ合う硬質な不協和音。泥酔した浪人たちの下卑た笑い声、肉を噛みちぎる咀嚼音、そして小銭が卓の上で擦れ合う金属音。
普通の人間の耳であれば、ただの不快な騒音として片付けられるその雑多な音の奔流を、影狼は脳内で「深海」の底に沈めるように、一つずつ選別していった。彼の耳は、雑音を背景へと退け、特定の「価値ある会話」だけを抽出する特殊な濾過器と化していた。
(――聞いたか、代官所の神保の旦那、また黒塔に多額の血金を渡したらしいぜ)
(――ああ、無縁墓地の周りの見張りを強化する代わりにな。何でも、目を潰されたはずの『筆頭』が生きているって噂だ)
(――馬鹿言え、あの黒翁様に両目を切り裂かれて生きてる奴がいるわけねえだろ)
二人の浪人が、卓を挟んで囁き合う極小の声を、影狼の耳が正確に拾い上げる。心拍数は一定。彼らは単なる噂話としてこれを楽しんでいる。だが、影狼が求めているのは、最初の標的である「鉄爪の源十」の具体的な居場所だった。
さらに耳を澄ます。すると、居酒屋の入口近くの卓から、周囲の喧騒とは決定的に異なる「不自然な鼓動」が聞こえてきた。
ドクン、ドクン、ドクン……。
それは、極度の緊張と恐怖によって、限界まで跳ね上がった心臓の鳴動だった。呼吸は浅く、冷や汗が皮膚を伝って床に落ちる「ぴちょん」という極小の音が、影狼の脳裏にその人物の輪郭を青く浮き彫りにする。若い男だ。男は猪口を握り締めながら、周囲の役人や浪人の動きを、怯えた獣のように過敏に探っている。
影狼は、その男の独特な「呼吸の深さ」と、衣服が擦れる微かな絹の音を捉えた。黒塔の下忍が身に付ける、光を反射しない特殊な下着の衣擦れ音。間違いない。男は黒塔の下忍でありながら、組織の非道な支配に怯え、精神的に追い詰められている「半助」だった。
影狼は静かに立ち上がった。竹杖を頼りに、半助が座る卓へと、気配を完全に殺したまま歩み寄る。その足音は、泥濘を踏みしめる音に完全に紛れ、あたかも風が通り抜けたかのようだった。
「旦那、肩が凝っていらっしゃる。揉みましょうかね……ほんの数文でさぁ」
影狼は、半助の背後に音もなく立ち、弱々しい笑みを浮かべて声をかけた。半助はビクリと身体を震わせ、心音を一瞬だけ停止させた。だが、目の前にいるのがただの盲目の按摩だと気づくと、安堵の息を漏らした。
「……いや、俺はいい。他を当たってくれ」
「そうおっしゃらずに。旦那の背中からは、ひどく重い『死人の気配』が漂っております。これを解さねば、今夜にも命に関わるやもしれませぬよ」
影狼の、低く、しかし骨の奥まで染み渡るような冷徹な囁き。半助の背筋に、物理的な悪寒が走るのが、影狼の手のひらを通じて伝わってきた。半助が拒絶の言葉を口にする前に、影狼の両手が、半助の両肩へと滑らかに置かれた。
「なっ……!?」
半助が立ち上がろうとした瞬間、影狼の親指が、半助の首の付け根にある特定の経絡を、正確かつ強烈に圧迫した。一瞬にして全身の力が抜け、半助の身体は卓の上に崩れそうになる。影狼はそれを片手で支え、あたかも親密な按摩を施しているかのように、半助の耳元へと自身の顔を近づけた。
半助の視線が、影狼が持つ煤けた竹杖の「手元」へと向けられた。外見はただの竹の杖。だが、その握り手の部分には、血の滲むような修行によって削り取られた、特異な「指の痕」が存在していた。そして、杖の先から微かに漂う、無縁墓地の湿った泥と、乾いた血の匂い。
「お、お前は……あの無縁墓地で、刺客たちを……」
半助の心臓が、驚愕と恐怖で爆発的なテンポで跳ね上がった。全身の血流が激しく加速し、呼吸が完全に停止する。彼は、組織の中で囁かれていた「盲目の剣鬼」が、目の前にいるこの男であることを、本能的に理解した。
「声を立てれば、お前の喉の骨が鳴るのが先だ」
影狼の囁きは、氷の刃のように半助の鼓膜を貫いた。影狼の親指は、半助の喉の最も脆い骨の節へと移動している。半助が少しでも喉を震わせようとすれば、その瞬間に喉頭が粉砕され、窒息死することは明白だった。半助の全身から、生気という生気が失われ、ただ怯えるだけの泥人形のようになった。
「命が惜しければ、俺の問いに、鼓動を乱さずに答えろ。嘘を吐けば、お前の心臓の音がすべてを俺に教える」
影狼の「鼓動の聞き分け」の感覚が、半助の胸の奥で鳴り響く音を完璧に捉えていた。半助は、涙を浮かべながら、必死に小さく頷いた。
「て、鉄爪の源十は……どこにいる」
「げ、源十様は……代官所と結託し、この宿場町の地下倉庫に本陣を構えています……。だが、お前を誘い出すため、すでに無縁墓地には、強力な罠師を配置した……」
半助の心音は、激しく乱れつつも、そこに「嘘」の波形は存在しなかった。彼は、黒塔の冷酷な支配(かつて自身の親友であった影丸をも使い捨てにした組織の非道)に心底から絶望しており、影狼の圧倒的な「無音の威圧感」の前に、完全に屈服していた。
「罠師の名は……毒蜘蛛の網三(あみぞう)。奴は、哭き穴の周囲に、肉眼では見えない極細の鋼線を張り巡らせている……。近づけば、一瞬で身体を切り刻まれるぞ……。助けてくれ、俺はもう、あの組織の犬でいるのは嫌だ……!」
半助は、掠れた声で命乞いをしながら、影狼への絶対的な服従を誓った。彼の心音には、組織への深い憎悪と、影狼という「最強の存在」に縋りたいという、歪んだ忠誠心が混ざり合っていた。
影狼は、半助の喉からゆっくりと指を離した。半助は卓に突っ伏し、激しく喘ぎながら首を押さえた。
「お前の命、しばらく預ける。源十の動きを、陰から探れ。裏切れば、お前がどこに隠れようとも、その足音を頼りに喉を裂く」
「わ、わかった……俺は、お前の影になる……」
半助が縋るように頷いた、その刹那。
居酒屋の片隅で、不快な「ドサリ」という音が響いた。酒に酔いしれた大柄な浪人が、影狼の竹杖を邪魔そうに足で蹴り飛ばそうとしたのだ。浪人は下卑た笑いを浮かべながら、影狼の足元に向けて足を突き出してきた。
影狼は、自身の皮膚に触れる空気の揺らぎから、浪人の足の軌道を瞬時に察知した。彼は「歩法・霧走り」の重心移動を無意識に発動。足裏の重心を滑らかに移動させ、一切の音を立てずに滑るようにその足を避けた。
あまりにも完璧すぎる、盲人とは思えない俊敏な身のこなし。
その瞬間、居酒屋の奥に座っていた、代官所の息がかかった数人の浪人たちの心拍が、一斉に「不審」のテンポへと変化した。彼らの視線が、影狼の煤けた編み笠へと集中する気配を、影狼は皮膚に突き刺さるような緊張感として感じ取った。
(しまっ、た――)
影狼は即座に上体を崩し、わざとらしく卓の角に身体をぶつけ、 clumsy な盲人の真似をして床へとしゃがみ込んだ。
「おっとっと、失礼しました、旦那……お目汚しを……」
弱々しい声を出し、床に落ちた竹杖をまさぐる演技。だが、その芝居が周囲の不審を完全に拭い去る前に、居酒屋の正面の重い木扉が、凄まじい衝撃音と共に乱暴に蹴り開けられた。
――バリィィン!
割れた木枠の破片が土間に飛び散り、冷たい霧が店内に一気に流れ込んでくる。雨上がりの湿った空気を切り裂いて踏み込んできたのは、硬い革履きを履いた数人の男たちだった。腰には、代官所の証である真鍮の十手。彼らが手にした松明の火花が、バチバチと不吉な音を立てて爆ぜている。
「代官所の捕手だ! 動くな!」
先頭に立つ捕手頭の、耳を劈くような怒号が居酒屋の中に響き渡った。店内の喧騒が一瞬にして凍りつき、浪人たちの心音が恐怖と緊張で一斉に跳ね上がる。
「無縁墓地で刺客を惨殺し、代官所が追っている凶悪な『盲目の暗殺者』が、この近辺に潜伏しているとの情報がある! おい、そこに座っている按摩……お前だ、手を頭の上に上げろ!」
捕手たちの足音が、影狼が座る隅の卓へと向けて、殺気を含んだ均一なリズムで近づいてくる。影狼の右手は、煤けた竹杖の握り手――その内部に隠された、歪みを持つ折れかけの仕込み刃へと、静かに、そして無音のまま伸ばされていった。編み笠の奥の、斬られた両目の傷跡が、冷たい霧に触れて不気味に疼き始めていた。
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