最初の反響、墓標の闇討ち
世界を叩き潰さんとする暴雨の音の底から、その鉄の擦れる音は響いた。
――シャリ。
それは、濡れた落ち葉と泥濘が混ざり合った無縁墓地の土を、極めて慎重に、しかし確実に踏みしめる足音だった。歩幅は狭い。重心が前傾している。暗殺ギルド「黒塔」の下級刺客――「下忍・影」の歩法だ。気配を消しているつもりなのだろうが、盲目となり、聴覚が異常なまでに過熱している影狼の耳には、その足音が泥を吸い上げ、弾く微細な物理的摩擦音のすべてが、まるで耳元で囁かれているかのように鮮明に届いていた。
(……一人。俺の死体を確認しに来たか)
影狼は動かなかった。引き裂かれた灰色の野良着を冷たい雨に濡らし、苔むした墓標に背を預けたまま、呼吸を「風の呼吸法」の極小の循環へと切り替える。肺の上下動を極限まで抑え、大気の流れと同調する。彼の世界には光も色彩もない。あるのは、音の反響と風の揺らぎによって脳内に構築された、青く透き通る三次元の空間図だけだ。
「パチ、パチ……」
刺客が掲げている松明の、松脂が爆ぜる極小の音が聞こえる。立ち込める煙の臭いと、雨水に叩かれて霧散する熱気が、気流の乱れとなって影狼の皮膚を優しく撫でた。その熱の揺らぎから、刺客が現在、前方五歩の距離まで近づいていることを正確に知覚する。
「トクトクトクトク……」
さらに右前方、大きな石碑の影からは、もう一つの心音が聞こえていた。孤児の少女・お鈴の、恐怖に凍りついた心臓の脈動だ。その心音はあまりにも速く、激しい。影狼は自身の耳をその心音に「同調」させ、周囲の雨音のノイズを脳内で「背景」へと押し下げた。お鈴の心音は、過敏になりすぎた影狼の脳が再び過熱して狂い出すのを防ぐ、唯一の精神的な錨だった。
「……おい、本当に死んでいるのか」
刺客の低く掠れた声が、雨音に混ざって響いた。声帯の震え、息を吐き出す際の喉の僅かな軋み。すべてが影狼の脳内で敵の「肉体の輪郭」を補強していく。刺客は、影狼が両目を斬られて泥の中で息絶えた盲目の廃人だと信じ切っている。その絶対的な油断が、男の呼吸を僅かに荒くさせていた。
刺客が右手に持った太刀を静かに構え直す。金属の柄が濡れた濡れ革の鞘と擦れ合う、不快な摩擦音が響いた。影狼の持つ「竹杖の仕込み刃」は、まだ老鍛冶職人による調整を受けていない。抜刀すれば必ず音が鳴る。一撃で仕留めねば、音を聴き取った他の追っ手を呼び寄せることになるだろう。
(引きつけて、一撃で喉を貫く)
影狼は右手に握った煤けた竹杖に、静かに指先を絡めた。地面に触れさせた杖の先(石突き)を通じて、刺客が泥を踏みしめるたびに地中を伝わってくる微震が、手のひらの皮膚へと登ってくる。距離、三歩。
刺客が、影狼の頭部を確実に叩き潰すべく、大振りの横薙ぎの軌道で太刀を振りかざした。空気が引き裂かれる「ヒュッ」という鋭い風切り音が響く。その瞬間、影狼の脳内に、刃が描く円弧の軌道が青い光の線となって描き出された。
(今だ――)
影狼は踏み込んだ。しかし、最悪の誤算が生じた。泥の底に沈んでいた、腐敗して粘着質になった濡れ落ち葉を、足袋の先が僅かに踏みしめてしまったのだ。
――クシャリ。
極小の、しかし静寂を破るには十分な破裂音が泥の底から響いた。
「なっ……!?」
刺客の心拍が一瞬で跳ね上がり、呼吸が停止する。驚愕による反射。刺客は、死体だと思っていた盲人が動いたことに直感的に反応し、振り下ろしかけた太刀の軌道を強引に変え、防御の構えへと移行した。
影狼が竹杖の節に親指をかけ、内部の極薄の刃を引き抜く。まだ調整前の鞘は、抜刀の瞬間に「キィ」という金属の摩擦音を立ててしまった。その音を道標にするかのように、刺客の太刀が影狼の突きを側面から激しく弾いた。
――ギャリィィン!
闇夜の無縁墓地に、激しい火花が散るような金属衝突音が鳴り響く。衝撃が影狼の腕を伝わり、折れかけた肉体の骨を物理的に震わせた。仕込み刃の極薄の鋼が、太刀の剛力に押されて微かに歪む感覚が指先に伝わる。
「貴様、生きているのか! 目を潰されてなお……!」
刺客は恐怖を怒号に変え、今度は力任せに太刀を横に薙ぎ払った。狙いは影狼の首だ。豪雨を切り裂く暴風のような横一文字の斬撃。
影狼は退かなかった。ここで距離を取れば、平衡感覚の不安定な盲目の身では、二の太刀で確実に切り刻まれる。彼は「音波相殺の理」を応用した。竹杖の空になった鞘――その先端にある頑丈な鉄突きを、迫り来る太刀の刃の「側面」に向けて、正確に突き出したのだ。
――キン!
金属の硬質な高音が雨音を切り裂く。刃の最も力が伝わりにくい横腹を鉄突きで叩かれた太刀は、その軌道をミリ単位で強制的に逸らされた。しかし、完全に避けることはできなかった。鋭い刃先が、影狼の右肩の皮膚を浅く切り裂く。冷たい雨の中に、一瞬だけ熱い血の匂いと、肉が裂ける物理的な感触が走った。
「がっ……!」
影狼の喉から掠れた呼気が漏れる。だが、その痛みが彼の脳の過熱を限界まで冷徹に研ぎ澄ませた。右肩の負傷など、妹を失った絶望に比べれば塵に等しい。
(息止め暗殺――)
影狼は肺の空気をすべて吐き出し、胸の上下動を完全に停止させた。心臓の鼓動すらも、大気の流れのテンポと同調させ、世界から自身の「生体反応」を完全に消し去る。気配の完全な絶滅。
刺客の目には、松明の揺らぐ光の中で、目の前にいたはずの「盲目の獲物」が、突如として闇の中に溶けて消えたかのように映ったはずだ。刺客の心拍が「ドクン、ドクン」と恐怖で異常に跳ね上がる音が、影狼の耳に筒抜けになる。敵はパニックに陥り、松明を狂暴に振り回して周囲の闇を照らそうとした。
「どこだ……どこへ消えた、影狼!」
その叫び声の振動が、影狼にとっての完璧な「光」となった。声が本堂の壁や周囲の墓石に跳ね返り、敵の背後の空間の形状を完璧にマッピングする。影狼はすでに、刺客の左側の死角――視覚に依存する者が最も警戒を怠る、松明の影の領域へと無音の歩法で回り込んでいた。
影狼は仕込み刃を逆手に持ち替え、一歩踏み込んだ。今度は足元に落ち葉はない。完全な静寂の踏み込み。
「しまっ――」
刺客が自身の左側に「風の滞り(気流の乱れ)」を察知した瞬間には、すべてが遅かった。
影狼の極薄の仕込み刃が、最短距離の直線の軌道を走り、刺客の喉元を正確に貫いた。
――ズブッ。
湿った肉が裂け、気管が破壊される不気味な鈍音。刺客の喉から「ヒュー……」と空気が漏れる音が響き、手にした松明が泥の中に落ちて、ジュッと音を立てて消えた。周囲は再び、完全な暗黒と激しい雨音の静寂に包まれる。
刺客の巨体が泥濘へと崩れ落ち、重い水音が弾けた。鼓動が完全に停止するのを確認した影狼は、仕込み刃についた血を雨水で洗い流し、静かに鞘へと収めた。抜刀時の摩擦音による僅かな歪みが、刃の感触に残っている。武器の調整が急務であることを、彼の指先が理解していた。
影狼は冷たくなりゆく刺客の死体の傍らに膝をつき、泥に汚れた手でその懐を探った。指先が触れたのは、通常の布や紙ではない、ずっしりとした金属の硬質な質感だった。
引き出したのは、一枚の不気味な黒い金貨だった。
(これは……)
指先でその表面をなぞる。そこには、不吉な「塔」の形状が細かく刻まれていた。黒塔の内部でのみ流通し、裏社会の闇取引で通常の金貨の倍以上の価値を持つ「血金(ちがね)」だ。
影狼の指先から、濡れた血金が滑り落ちた。
――チィン。
金貨は近くの傾いた古びた墓石に当たり、硬質な反響音を立てて跳ね返り、泥の中に沈んだ。
その不気味な音の余韻は、雨の無縁墓地に冷たく響き渡り、影狼の生存がもはや隠し通せないこと、そして彼を狙う黒塔の「黒霧支部」の暗殺網が、すでにこの宿場町を完全に支配しているという冷酷な現実を、闇の中に告げていた。
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