隠し湯の静寂、傷痕の選択
闇は、冷たい湿気と硫黄の匂いを孕んでいた。
影狼は、義賊・雷蔵の肩に身体を預けながら、一歩一歩、濡れた泥を踏みしめていた。右足首の捻挫が、歩を進めるたびに脈打つような激痛を放つ。代官所での激闘から逃れ、黒霧宿の外れにある裏山の険しい獣道を登り始めてから、すでに数刻が経過していた。周囲の音は、生い茂る笹の葉が夜風に擦れる「サラサラ」という乾いた音と、遥か彼方から聞こえる獣の遠吠えだけだった。
「……もうすぐだ。あの滝の音の裏側に、お前の身体を繋ぎ止める場所がある」
雷蔵の低く掠れた声が、影狼の左耳の鼓膜を震わせた。右耳は、未だに厚い粘土を詰め込まれたかのように、不気味な静寂に閉ざされたままだ。右半分から迫る気配が完全に欠落しているこの状態は、暗殺者にとって死と同義だった。肺は代官所で吸い込んだ黒煙で熱く灼け、呼吸のたびに胸の奥が物理的に軋む。
やがて、水滴が岩肌を叩く「ピチャ、ピチャ」という不規則な反響音が、洞窟の入り口が近いことを告げた。立ち込める濃厚な湯気。その奥から、規則正しく、しかしどこか温かみのある心音が聞こえてきた。
トントン、トントン……。
緊張感のない、穏やかな脈動。それは、影狼を待ち受けていた湯治場の娘、お勝のものだった。
「雷蔵さん、お待ちしていました……。まあ、そんなに酷いお怪我を」
お勝の声は、驚きと深い同情に満ちていた。彼女は黒霧宿の片隅で、黒塔の過酷な支配を憎みながら生きる女性だった。町医者である玄庵が惨殺された報せは、すでに彼女の元にも届いていた。お勝は影狼の正体が血に塗れた暗殺者であることを知りつつも、その命を繋ぐために、この隠し湯を隠れ家として提供してくれたのだ。
「お勝、すまない。こいつの身体は限界だ。特に耳と経絡の熱が酷い」
雷蔵が影狼を抱きかかえるようにして、岩肌を削って作られた湯舟の縁へと座らせた。影狼の皮膚は、湧き上がる温泉の熱い対流と、微細な気泡が弾ける「プツプツ」という音を敏感に捉えていた。目が見えない彼にとって、温泉は「温かい大気の塊」として脳内に描かれる。
「お勝殿……すまぬ……」
影狼は掠れた声で呟き、自ら引き裂かれた野良着を脱ぎ捨てた。左肩には、源五郎の放った猛火によって皮膚が赤黒く焼け爛れた「焦熱の傷痕」が刻まれており、右頬には重蔵の弾丸がかすめた鋭い裂傷が、未だに微量の血を滲ませている。
「いいのです、影次さん。……いいえ、影狼さん。玄庵先生には、私の家族も何度も命を救われました。先生の意志を継ぐためなら、私は黒塔を恐れません。さあ、湯に身を浸してください。この温泉は、地中深くの毒を洗い流す力があります」
お勝の温かい手に促され、影狼はゆっくりと熱い湯の中に身体を沈めた。
「――っ!」
瞬間、全身の毛細血管が物理的に拡張し、凍てついていた肉体が激しい熱に包まれた。左肩の火傷が、塩分を含んだ湯に触れて灼熱のような痛みを放つ。だが、それと同時に、過度の緊張で鋼のように硬直していた背中や腰の筋肉が、徐々に弛緩していくのが分かった。湯の対流が、右足首の捻挫の熱を優しく包み込み、激しい拍動を和らげていく。
お勝は湯舟の脇に跪き、すり鉢で丁寧にすり潰した「傷癒草」の青臭い匂いが漂うペーストを取り出した。彼女の硬く荒れた手のひらが、影狼の左肩の爛れた皮膚に、冷たい薬草の泥を優しく塗布していく。
「この傷癒草は、止血と消炎に優れた山草です。火傷の熱を吸い取ってくれますが……一時的に、塗った場所の触覚が麻痺してしまいます。風の動きを感じるのが難しくなるかもしれません。ごめんなさいね」
「いや……これで、十分だ。痛みが引かねば、刀を握ることもできぬ」
影狼は、薬草がもたらす独特の「冷たい痺れ」が、左肩から胸元へと広がっていくのを感じていた。確かに、お勝の言う通り、薬草が塗られた部分の皮膚は風の微細な抵抗を感知できなくなっている。だが、今は肉体の駆動を優先せねば、重蔵の次の狙撃に耐えることはできない。
その時、岩の隙間から、聞き慣れた小さな足音が近づいてきた。
トトトト、と、軽やかで迷いのない足音。お鈴だった。彼女は雷蔵の手引きによって、無縁墓地の管理小屋からこの隠し湯へと無事に合流していたのだ。お鈴の小さな手が、湯舟の縁に置かれた影狼の濡れた右手を、ぎゅっと握り締めた。彼女の心拍は、影狼の無事を確認したことで、安堵のテンポへと急速に落ち着いていく。
お鈴は無言のまま、懐から小さな香炉を取り出し、玄庵の診療所の焼け跡から回収した「醒魂香」の香木に火を灯した。立ち込める、甘く清涼感のある独特の匂い。その煙を影狼が深く吸い込むと、脳内の過剰な神経伝達物質の暴走が抑えられ、耳の奥で鳴り止まなかった「キィィン」という鋭い金属性の耳鳴りが、徐々に背景の静寂へと退いていった。脳の霧が晴れ、世界の反響が再び立体的な輪郭を取り戻し始める。
「お鈴……すまぬ。心配をかけた」
お鈴は何も言わず、ただ影狼の手のひらを自身の小さな頬に押し当てた。彼女の温かい体温が、影狼の荒みきった心に、確かな人間性の錨を下ろしていく。玄庵を失った悲しみは、二人の間で言葉にすることなく、静かに共有されていた。
「影狼、これを」
雷蔵が、影狼の膝の上に、冷たくずっしりと重い「青い薬石」を置いた。鉄爪の源十を討ち取った際、奴の懐から奪い取った「藍玉」だった。この石は、体内の経絡の流れを整え、脳の熱を冷ます微弱な磁気を放っている。
影狼は「藍玉」を両手で包み込み、自身の額と、失聴している右耳の周囲に交互に押し当てた。石から伝わる不気味なほどの冷気が、過熱した耳の神経を直接物理的に冷却していく。耳の奥の経絡が、冷やされることで徐々に開き、右耳の「粘土の壁」が少しずつ薄くなっていく感覚があった。遠くで滴る水滴の音が、右側からも微かに聞こえ始める。
だが、その時、影狼の指先が奇妙な違和感を捉えた。
湯舟の脇に立てかけてあった「竹杖の仕込み刃」。藍玉を近づけた瞬間、竹杖の内部に収められた極薄の鋼の刀身が、石の放つ微弱な磁気に物理的に引っ張られ、「チリ……」と極小の、しかし普段とは異なる不自然な金属の共鳴音を立てたのだ。
(磁気か……。この石を身につけている間は、抜刀時の刃の響きが僅かに変化するな)
影狼は、その僅かな変化を脳内の音響地図に記憶した。ミリ単位の狂いが、死線においては致命傷となる。だが、この藍玉による経絡の回復効果は絶大だった。彼は「傷痕の選択」を迫られていた。肉体を休めて自然に回復するのを待つか、それとも、藍玉の力で経絡を強制的に活性化させ、再び命を削る修羅の道へと戻るか。
(迷う必要はない。重蔵が待っている。……源十の首を刎ねるまで、私の剣は止まらん)
影狼は藍玉を自身の胸元へと強く押し当て、経絡の強制回復を完了させた。脳の熱が引き、両耳の聴覚が一時的に通常の精度を取り戻す。だが、それは未来の寿命を前借りする、自傷行為に等しい選択だった。
その時、洞窟の入り口から、激しい息切れの音と、泥を踏みしめる足音が近づいてきた。半助だった。彼の心音は、恐怖と焦燥で激しく跳ね上がっている。
「影狼様! 雷蔵様! 大変でございます!」
半助は息を切らしながら、影狼の前に膝をついた。彼の衣服からは、宿場町の雨と泥の匂いが漂っている。
「神保から奪った『大福帳』の暗号を解読いたしました……。ですが、源十の奴め、とんでもない罠を仕掛けております!」
影狼は湯から上がり、お勝が差し出した乾いた布で身体を拭いながら、盲目の顔を半助へと向けた。
「言え、半助」
「はい……。源十は現在、旧代官所の地下倉庫にある本陣の最深部、あの『鉄血の間』に潜伏しております。ですが、その手前に、かつて影狼様の目を奪った『音無の十兵衛』と全く同じ体格、同じ『音無の剣』の癖を持つ『偽十兵衛』をデコイとして配置しているのです! 影狼様の復讐心を逆手に取り、偽物を本物と誤認させて、本陣ごと爆破する火薬の罠が仕掛けられています!」
半助の言葉に、影狼の周囲の空気が一瞬にして凍りついた。
「さらに……」半助は唾を呑み込んだ。「その本陣へと続く唯一の難所、あの耳を劈く滝の轟音が響き渡る『雷鳴の崖』に、鉄砲の重蔵がすでに狙撃拠点を構築し、影狼様を待ち伏せております。滝の騒音でお前の耳を潰し、音速の弾丸で今度こそ眉間を撃ち抜くと、奴は豪語しているようです……!」
雷鳴の崖。滝の轟音によって、すべての音が掻き消される、盲目の影狼にとって最悪の死地。
影狼は無言のまま、再鍛造されたばかりの「竹杖の仕込み刃」を手に取った。藍玉の磁気の影響を受け、鞘の中で刀身が「チリ……」と、不穏な、しかし鋭い産声を上げる。彼の盲目の両目の奥に、氷のように冷徹な復讐の炎が再び燃え上がった。
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