音速の死神、火皿の火花
影狼は、頬の血を拭うこともせず、闇の向こうに潜む不可視の死神に向けて、その盲目の耳をさらに鋭く傾けた。
代官所の奥の間には、死んだばかりの神保の肥満体から流れ出た生暖かい血の匂いと、障子を貫いた鉛弾がもたらした濃厚な硝煙の臭いが立ち込めている。右頬に走る浅い切り傷が熱く疼き、そこから一筋の血が顎へと伝い落ちていく。だが、影狼の全神経は、数町先の屋根の上に潜む「鉄砲の重蔵」へと向けられていた。
(右の死角……いや、世界が半分、静寂に沈んでいる)
先日、源五郎の放火によって傷ついた右耳は、未だに冷たい石の壁のように音を反射しない。右半分から迫る気配を、影狼は皮膚の毛穴が感じる「空気の対流の乱れ」だけで補うしかなかった。さらに、煙を吸い込んだ肺は呼吸を制限し、激しい脳疲労がこめかみを万力のように締め付けている。
しかし、退くわけにはいかない。神保の隠し金庫から、黒塔との癒着を示す「大福帳」を回収しなければ、玄庵の死も、三吉を救うために犯した危険も、すべてが無に帰す。
影狼は足裏に縛り付けた「音吸いの砂袋」を軋ませ、無音の歩法「霧走り」を起動した。床板の「たわみ」を殺し、梁の影に沿って違い棚の裏へと滑り込む。神保の帯から奪い取った隠し金庫の鍵を懐から引き出し、冷たい真鍮の鍵穴へと差し込んだ。指先の触覚だけを頼りに、鍵を静かに回す。カチャリ、という極小の金属音が、炎上の余韻が残る部屋に響いた。
その刹那――影狼の左耳が、遙か数町先の闇の中から、物理的な世界の理を無視した「極小の予兆」を捉えた。
――パチ、パチ……。
それは、夜風に揺れる木の葉の擦れ音ではない。火縄銃の引き金が引かれ、燃え盛る火縄が、火皿(ひざら)に盛られた点火薬(てんかやく)に触れた瞬間の、極小の燃焼摩擦音。弾丸が銃身を飛び出す「〇・一秒前」に発生する、唯一の見えざる警報。
(来る!)
影狼は「盲目回避」の極限の身体反射を起動した。金庫の扉を開け放つと同時に、身体を極限まで低くし、床の湿った畳の上を横転するように転がった。左肩の重度の火傷が激しく裂け、脳が悲鳴を上げる。
次の瞬間、――シュウウウッ! という空気が物理的に引き裂かれる高周波の破裂音が、影狼の頭上があった空間を通り抜けた。直後、凄まじい衝撃と共に違い棚の欅の木板が木端微塵に粉砕され、無数の鋭い木片が影狼の背中に降り注ぐ。弾丸は音速を超えている。着弾の破壊が先に起こり、遅れて――ドォォォン! という、地を揺らすような巨大な発射音が耳を劈いた。
「ぐっ……!」
衝撃波の余波に押されながら、影狼は粉砕された違い棚の隙間に手を伸ばし、隠し金庫の奥に収められていた分厚い大福帳を掴み取った。血と煤に汚れた帳面を素早く野良着の懐へとねじ込む。だが、崩落した木材を踏み越えようとした瞬間、右足首に「グキリ」と鈍い痛みが走った。床に散らばった瓦礫に足を取られ、軽い捻挫を負ってしまったのだ。左半身の可動制限に加え、右足の機動力まで削られる最悪の代償。
重蔵は、影狼が盲目であるため、暗闇からの遠距離狙撃に対しては完全に無力であると信じ込んでいるはずだ。だからこそ、一発目を避けたことを偶然と侮り、すぐに次の弾丸を装填している。
――カシャ、シャリ。
遙か彼方の屋根の上で、重蔵が「無音装填」を行う極小の金属擦れ音が、影狼の左耳に届いた。驚異的な速さ。息を吐く間もなく、二発目の点火薬が火皿に盛られる。
影狼は代官所の薄い障子で仕切られた廊下へと飛び出した。だが、廊下の側面は中庭に面しており、遮蔽物が極端に少ない。走れば、重蔵の精密な予測射撃の餌食になることは明白だった。
――パチ、パチ……。
再び、火皿の火薬が燃える死のパチパチ音が響いた。弾道は影狼の胸元へ一直線に伸びている。
(刀で……弾くか!?)
影狼は一瞬、再鍛造されたばかりの仕込み刃を抜き、弾丸を正面から受け流そうと考えた。だが、脳内の「聴風の理」が、即座にそれを拒絶した。音速を超える鉛弾の回転トルクと、鉄砲が放つ剛力は凄まじい。この極薄の刀身で正面から受け止めれば、いかに不純物のない残鉄であっても、一撃で刀身が粉砕される。それは、唯一の牙を自ら失うことを意味していた。
「……ふんっ!」
影狼は抜刀を断念し、仕込み刃の鞘を床に強く突き立てて、身体を強引に右側へとねじ曲げた。右頬をかすめる凄まじい熱風。弾丸は廊下の太い杉柱を容易く貫通し、背後の壁を吹き飛ばした。衝撃波によって影狼の小袖の袖がズタズタに引き裂かれ、右足首の痛みが激痛へと変わる。体勢が崩れ、冷たい床に膝をついた。
(このままでは、次の射撃で確実に仕留められる……!)
遮蔽物のない中庭を突破することは不可能。影狼は息を止め、自身の「風の呼吸法」を極限まで引き下げた。心拍数を下げ、衣服の擦れる音すらも世界から消し去る。重蔵の耳に、自身の位置を誤認させるための「罠」を仕掛ける必要があった。
影狼は懐から、空間を測るための「響き石」を一つ取り出した。そして、手首のスナップだけで、自身の腕が空気を切り裂く風切音を完全にゼロにする「無音投擲(むおんとうてき)」を放った。石は影狼の身体から遠く離れた、廊下の反対側の瓦屋根へと向かって無音で飛んでいく。
――コツン。
瓦に石が当たった、極小の硬質な反響音。重蔵の「風の読み」が、その音に一瞬にして反応した。
――ドォォォン!
凄まじい発射音と共に、石が当たった瓦の周囲が木端微塵に吹き飛んだ。重蔵は、影狼がそちらへ逃れたと完全に誤認したのだ。この「〇・一秒」の隙を、影狼は逃さなかった。右足首の激痛を噛み殺し、壁の影に沿って、代官所の裏口へと滑るように移動した。
だが、裏口の防衛線の向こうには、依然として重蔵の射線が通る開けた砂利道が広がっている。一歩でも踏み出せば、再び音速の死神が牙を剥く。肺の酸素は限界に近く、意識が朦朧とし始めていた。
(ここまでか……)
影狼が仕込み刃の柄に手をかけ、自身の命と引き換えに「無響一閃」の抜刀を放つ覚悟を決めた、まさにその刹那――。
――シュウウウッ!
闇を切り裂く、鋭い矢の風切り音が響いた。だが、それは重蔵の弾丸ではない。代官所の裏庭の中央に着弾した矢の先端から、突如として――プシュゥゥゥ! という激しい噴射音が鳴り響いた。
立ち込めるのは、濃厚な硫黄と炭の匂い。光を完全に遮断する、漆黒の煙幕。黒塔の索敵技術を逆用した「煙幕の矢」が爆発し、中庭全体を一瞬にして暗黒の海へと変えていった。重蔵の視覚と嗅覚の索敵網が、物理的に完全に崩壊していく。
「生き急ぐなよ、相棒」
霧の向こうから、聞き慣れた不敵な声が響いた。闇と同化する漆黒の小太刀を帯びた片目の男――義賊・雷蔵(らいぞう)だった。雷蔵は影狼の左腕を掴み、その身体を力強く支えた。言葉数は少ないが、その手のひらから伝わる温もりは、影狼の冷え切った復讐心に、確かな信頼の熱を与えた。
「雷蔵……なぜここに」
「お前が死ねば、黒塔を壊滅させる極上の『刃』が失われるからな。さあ、行くぞ。この煙も長くは持たん」
雷蔵の肩に支えられながら、影狼は代官所の裏口から、深夜の黒霧宿の暗い路地へと無音で脱出した。背後からは、獲物を見失った重蔵が放った、苛立ちに満ちた弾丸が虚しく闇を切り裂く発射音が響き渡っていた。
宿場町の外れ、鬱蒼とした竹林の陰に身を隠し、二人は息を整えた。影狼は懐の大福帳に触れ、源十の本陣の情報を手に入れたことを確認する。だが、雷蔵は影狼のボロボロの肉体と、仕込み刃の焦げた鞘を見つめ、静かに首を振った。
「神保を消したことで、源十はお前の生存を完全に確信した。そして、重蔵は仕留め損ねた獲物を必ず仕留める男だ。……影狼、お前のその耳では、奴との次の戦いは命取りになるぞ」
雷蔵の言葉に、影狼は盲目の頭部を僅かに傾けた。
「重蔵は、どこで待ち受けている」
雷蔵は、闇の向こうを見つめながら、氷のように冷たい声で告げた。
「奴はお前の最大の武器である『耳』を完全に潰すため、あの激しい濁流が流れ落ちる『雷鳴の崖(らいめいのがけ)』でお前を待ち伏せるつもりだ。滝の轟音がお前の世界を支配した時、お前は音速の弾丸を避けることができるか?」
耳を劈く滝の爆音。一切の音が掻き消される、最悪の決戦場。影狼は、頬の血を静かに拭い、自身の仕込み刃を固く握り締めながら、闇の深淵へとその耳を傾けた。
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