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代官の金庫、朝廷の陰

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甚兵衛が力強く息を吸い込んだ瞬間、その鋼鉄の筋肉に一瞬の弛緩が生じる。その「〇・一秒」の隙を、影狼の左耳が、冷酷に聞き取った。


 大気が甚兵衛の強靭な肺腑に満ち、剛肉が限界まで引き絞られる。その極限の緊張の直前、大男の分厚い胸筋がわずかに弛んだ。影狼は絡みつく鉄鎖に抗うのをやめ、むしろその牽引力を自らの前進の推進力へと変換した。足裏の「音吸いの砂袋」が石床との摩擦を物理的に消去し、影狼の身体は滑るように闇を滑走する。歩法「霧走り」――。


「なっ……!?」


 甚兵衛の心音が驚愕に跳ね上がる。引きずり込まれるはずの獲物が、自ら懐へと飛び込んできたのだ。影狼の右手はすでに、腰の「無音の鞘」の柄にかかっていた。伍助が調整を施したその鞘は、引き抜かれる瞬間、金属の擦れ合う摩擦音を一切発生させない。完全なる、絶対の静寂。


 ――無響一閃。


 暗黒の空間に、音のない死線が走った。甚兵衛が鎖を操作し直すよりも早く、極薄の仕込み刃が、弛緩した胸筋の隙間、胸骨の関節へと正確に吸い込まれた。


「が……はっ……」


 甚兵衛の喉から、押し潰されたような湿った息が漏れる。彼の心臓が、最期の不規則な脈動を数回打ち、そして「一瞬で停止」した。大男の巨体が、石床へと崩れ落ちる重い地響き。影狼は仕込み刃を無音で鞘に収めると、すぐに竹杖の先で天井から吊るされた三吉の位置を測った。


「おじさん……!」


「騒ぐな。今、助ける」


 影狼は一歩踏み込み、仕込み刃を上方へと一閃させ、三吉を縛っていた麻縄を正確に切り裂いた。落ちてくる三吉の身体を左腕で受け止める。先日の猛火で焼かれた左肩の火傷が激しく疼いたが、声を殺して耐えた。


「三吉、他の者たちを連れて、半助の指示通り裏口から逃げろ。宿場町の外へ出るのだ」


「うん、わかった! おじさんも気をつけて!」


 三吉の足音が牢の奥へと遠ざかるのを聞き届けた瞬間、影狼の左耳が、頭上の木造天井を伝わってくる「別の足音」を捉えた。ドタドタと、焦燥に駆られた不規則な足音。肥満体の男が、衣服の擦れる音を派手に響かせながら走っている。代官・神保だ。甚兵衛が倒された気配を察知し、奥の間の隠し通路から逃亡を図ろうとしているのだ。


「逃がさん」


 影狼の口から、冷酷な呟きが漏れた。左肩の火傷の激痛と、肺の黒煙ダメージによる息苦しさが肉体を蝕んでいたが、復讐の炎がそれを麻痺させていた。影狼は足裏の砂袋を軋ませ、地下牢の石段を駆け上がった。


 代官所の最深部、神保の寝室である「奥の間」へと侵入する。影狼は「風の軌跡視」を全開にした。冷たい隙間風が吹き出す屏風の裏。そこには、壁に擬装された隠し扉が開いたままになっていた。影狼は自身の呼吸音を完全にゼロにする「息止め暗殺」の呼吸を維持しながら、暗い通路へと滑り込んだ。


 通路の奥から、激しい息切れの音と、神保の肥満体が壁にぶつかる鈍い音が響いてくる。影狼は音もなく距離を詰め、逃げようとする神保の背後に、文字通り影のように忍び寄った。


「ひっ……!」


 神保が振り返ろうとした瞬間、彼の太い喉元に、冷たい仕込み刃の刃先が突きつけられた。


「動くな」


「だ、誰だ……! 按摩の……影次か!? なぜ貴様がここに……!」


 神保の呼吸は浅く、全身から冷や汗が噴き出しているのが、漂う体臭で分かった。影狼は「鼓動の聞き分け」を発動し、神保の胸の奥で鳴り響く心音に耳を澄ませた。ドクン、ドクン、ドクン……。それは、極度の緊張と恐怖によって、限界まで跳ね上がった心臓の鳴動だった。


「神保。源十はどこにいる。そして、黒塔との癒着を示す『大福帳』はどこだ」


「し、知らん! 私は何も知らん! 黒塔などという組織は……」


 神保の心音が「ドクン!」と不自然に跳ね上がった。血液が脈管を激しく擦る音が、影狼の耳にはっきりと届く。


「嘘だな」


 影狼は刃先を神保の喉の皮膚に僅かに食い込ませた。一筋の血が滴る音が、静寂の中に響く。


「お前の心臓が、嘘を吐くたびに狂ったように跳ね上がっている。神保、私の耳を欺けると思うな。次、嘘を吐けば、その喉笛を掻き切る」


「ひ、言、言う! 言うから刃を引いてくれ!」


 神保の心拍数はさらに上昇し、恐怖による血流の加速音が影狼の耳に生々しく伝わってくる。彼は完全に影狼の圧倒的な心理的支配下に置かれていた。


「大福帳は……この奥の間の、違い棚の裏にある隠し金庫の中だ! 鍵は、私の帯の巾着の中にある!」


 影狼は左手で神保の帯から鍵を奪い取り、半助へ渡すために懐に収めた。これで癒着の証拠は手に入る。


「源十の居場所はどこだ」


「源十は……宿場町の地下倉庫、旧代官所の地下に本陣を構えている! あそこには、黒塔の精鋭たちが集まっている……私を殺しても、お前はあそこから生きては出られんぞ!」


「そうか」


 影狼の心音は、氷のように冷徹なままだった。だが、神保の恐怖の鼓動の裏に、さらに深い「闇」の気配を感じ取っていた。影狼は刃を引かず、さらに神保の喉元へと押し当てた。


「神保、もう一つ答えろ。黒塔が私を嵌め、両目を奪い、妹の小夜を殺した本当の理由は何だ。単なる組織の掟ではないはずだ」


 神保は激しく首を振った。その拍子に、刃先がさらに皮膚を割く。


「そ、それは……私には関係のないことだ! 朝廷の……」


「朝廷?」


「近衛近正(このえ ちかまさ)様だ!」


 神保の声が、恐怖で裏返った。


「黒塔は、近衛様の私兵なのだ! お前が偶然手にしてしまった『秘密の盟約書』……それには、近衛様と各地の大名が結んだ、帝位簒奪の陰謀が記されていた。だから、黒翁はお前を抹殺せねばならなかったのだ! 妹の死も、すべては近衛様の命令だ!」


 その真相が影狼の耳に届いた瞬間、世界の静寂が、一瞬にして凍りついた。近衛近正――朝廷の最高権力者。黒翁すらも、その男の猟犬に過ぎなかったのか。妹の死の背後にそびえ立つ、国家規模の陰謀の影。その凄絶な真実に影狼が息を呑んだ、まさにその刹那――。


 耳元で、空気が物理的に切り裂かれる「極小の、しかし鋭利な高周波の破裂音」が響いた。


(――っ!?)


 音速を超える、見えざる死神の牙。発射音が聞こえるよりも早く、弾丸が奥の間の障子を突き破り、神保の眉間を正確に貫いた。


「あ……」


 神保の鼓動が、一瞬にして完全に停止した。彼の肥満体が、血飛沫を散らしながら床へと崩れ落ちる。漂うのは、濃厚な硝煙の臭いと、神保の死体から流れ出る生暖かい血の匂い。


(狙撃……! 弾丸が音速を超えている!)


 影狼の脳裏に、かつて耳にした「鉄砲の重蔵」の噂がフラッシュバックした。音速を超える弾丸は、発射音が届いた瞬間にはすでに着弾している。盲目の影狼にとって、これ以上ない最悪の天敵。神保を盾にしようとするが、弾丸の速度が速すぎて神保の即死を防げず、貴重な情報源を失ってしまった。


 休む間もなく、二発目の気配。遥か数町先、代官所の屋根の向こうから、冷たい大気の対流が、影狼の額に向けて一直線に引き絞られるのを「風の軌跡視」が捉えた。狙いは影狼の額。


 発射音を聞いてから避けるのは、物理的に不可能。


 だが、影狼の研ぎ澄まされた超感覚が、狙撃手が引き金を引く「〇・一秒前」の極小の予兆を捉えた。


――パチ、パチ……。


 遥か彼方の闇の中から響く、火縄銃の「火皿(ひざら)の火薬が燃える極小の摩擦音」。引き金が引かれ、火縄が火皿の点火薬に触れた瞬間の、高周波の燃焼音。


(そこだ!)


 影狼は、その微かなパチパチ音を聴き取った刹那、頭部を僅かに左へと傾けた。次の瞬間、頭の右横を、凄まじい風圧を伴った弾丸が通り抜けていった。衝撃波が頬の皮膚を裂き、浅い切り傷から血が滴る。


 遅れて、――ドォォォン! という、地を揺らすような巨大な火縄銃の発射音が、闇夜の宿場町に響き渡った。


(この距離、この暗闇から、私の呼吸を正確に狙い撃つか……!)


 影狼は、頬の血を拭うこともせず、闇の向こうに潜む不可視の死神に向けて、その盲目の耳をさらに鋭く傾けた。

HẾT CHƯƠNG

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