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獄門の巨漢、鎖の咆哮

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闇が湿気と冷気を孕んで、影狼の全身を包み込んでいた。地下へと続く石段を下りる一歩一歩が、まるで奈落の底へと吸い込まれていくかのようだった。漂ってくるのは、濃厚な鉄錆の匂いと、こびりついた人間の脂が腐敗した不気味な悪臭。そして、左耳の奥を震わせる「チャリ……チャリ……」という、重い鉄の鎖が擦れ合う冷徹な金属音だった。


 影狼は、白布で覆われた両目の奥の暗黒の中で、静かに神経を研ぎ澄ませていた。先日の猛火で焼かれた左肩の火傷が、地下の冷気に晒されてズキズキと脈打つように疼く。肺の奥は煙のダメージで熱く腫れ上がっており、浅い呼吸を繰り返すだけでも、気管支が物理的に収縮して激しい痛みを引き起こした。さらに、右耳の失聴による静寂は、世界の右半分を完全な空白の死角に変えたままである。彼は頭を僅かに左へと傾け、唯一機能している左耳と、全身の皮膚感覚だけで、この暗黒の地下牢獄の立体図を頭の中に描き出そうとしていた。


 石段を降りきった先は、広大な石造りの地下牢だった。湿った大気が澱み、四方の石壁が音を異様に反響させる。影狼の鋭敏な聴覚が、暗闇の奥から聞こえる、か細く不規則な鼓動を捉えた。


(――ドクン、ドクン、ドクン、ドクン……)


 それは、極度の緊張と恐怖によって、限界まで跳ね上がった幼い心臓の鳴動だった。半助の連絡係である少年、三吉だ。三吉の身体は、天井の頑丈な梁から太い麻縄で宙吊りにされており、その下には冷たい石床が広がっている。三吉の小さな呼吸が、恐怖で浅く震えているのが、伝わってくる空気の振動で分かった。


「くくく……。這い寄る鼠が一匹、ようやく網にかかったか」


 闇の奥から、地響きのような低い声が響いた。同時に、巨大な質量が動く気配。石床が「ズシン」と微かに揺れる。影狼は足裏の草鞋を通じて、その不気味な地響きを「地震動感知」の感覚で正確に捉えた。一歩進むごとに、石床の砂利が押し潰される鈍い振動が、影狼の脳裏にその怪物の立ち位置を浮き彫りにする。


 獄門の甚兵衛。身の丈二メートル半を超える異形の巨漢であり、代官所に雇われた冷酷な牢番。その首元には太い鉄の首輪がはめられており、両手には、大男の腕ほどもある太い鉄鎖が握られていた。


「神保の旦那から聞いてるぜ。盲目の按摩が、ネズミのように代官所を嗅ぎ回っているとな。だが、この地下牢に入ったからには、生きて戻れると思うなよ」


 甚兵衛が太い腕を振るった。瞬間、凄まじい風切り音が地下牢に鳴り響いた。「ゴオオオ」という、大気を物理的に圧縮するような重低音。甚兵衛が手にする太い鉄鎖が、頭上で激しく回転し始めたのだ。その圧倒的な風圧が、影狼の額の皮膚を強く圧迫する。狭い石牢の空間の中で、鎖の回転半径は影狼の退路を完全に塞ぐほどの広さを持っていた。


(――反響定位)


 影狼は、鎖が風を切る「ヒュヒュヒュッ」という高周波の摩擦音から、その正確な軌道と間合いを測り、咄嗟に近くの厚い石柱の影へと身を滑らせた。歩法「霧走り」の重心移動。だが、左肩の激痛が走り、踏み込みが一瞬だけ遅れる。


 ――ギィィィン!


 凄まじい金属衝突音と共に、甚兵衛の鉄鎖が石柱の側面を直撃した。衝撃で石柱の角が激しく砕け散り、無数の石礫が四方八方へと弾け飛ぶ。耳を劈くような硬質な大音響が狭い地下牢に反響し、影狼の左耳を音響的に激しく目潰しした。反響音が石壁を何度も往復し、周囲の正確な距離感を狂わせる。


(くっ……音が響きすぎる。これでは風の音を捉えきれん)


 影狼は、剛太との死闘での教訓を思い出していた。ここで無闇に仕込み刃を抜き、甚兵衛の剛力と正面から刃を交えれば、再鍛造されたばかりの至高の刀身であっても、金属疲労で再び亀裂が入りかねない。刃を交えず、相手の力を受け流し、一撃で急所を貫く美学を貫かねばならない。


 影狼は、半分焦げた竹杖の先端を、冷たい石床に常に押し当てた。耳が反響音で塞がれた今、頼るべきは床を伝わる「地震動」のみである。


 甚兵衛が再び足を踏み鳴らし、突進してきた。ドス、ドス、ドス、という地響きが、竹杖を通じて影狼の手のひらへと明確に伝わってくる。甚兵衛の「剛力・鉄骨の肉体」から繰り出される、鎖を伴った体当たり。その突進の軌道を、影狼は足裏の皮膚感覚で事前に察知し、直撃の寸前で横へと滑り込んで避けた。


 だが、甚兵衛は単なる力任せの怪物ではなかった。影狼が避けた瞬間、甚兵衛は手首の連動だけで、回転する鉄鎖の軌道を強引に変え、影狼の持つ竹杖に向けて放ったのだ。


 ――チャラリッ!


 冷徹な金属音が響き、太い鉄鎖が、影狼の右手に握られた竹杖の鞘に幾重にも絡みついた。甚兵衛の「剛力」が、鎖を引き絞る。凄まじい力で竹杖が前方に引っ張られ、影狼の身体がバランスを崩して引きずり込まれそうになった。


(しまっ――)


 引き抜こうとすれば、甚兵衛の圧倒的な腕力に押し負け、仕込み刃の鞘が物理的に破損する。だが、武器を手放せば、この暗黒の中で甚兵衛の餌食になることは確実だった。絶体絶命の危機。甚兵衛は勝利を確信し、醜い顔を歪めて下卑た哄笑を上げた。


 しかし、その引きずり込まれる極限の刹那、影狼の左耳が、甚兵衛の肉体から発せられる「ある極小の音の乱れ」を、冷酷に聴き取った。


 甚兵衛が鎖を全力で引き絞るため、大きく息を吸い込んだ瞬間――肺が最大まで膨らみ、彼の「剛力・鉄骨の肉体」を支える硬質な胸の筋肉が、次の呼気へと移行する刹那、ほんの「〇・一秒」だけ、物理的な弛緩(緩み)が生じたのだ。


 心音同調の耳が、甚兵衛の心臓が激しく脈動するテンポの隙間に生じた、その致命的な呼吸の乱れを、完璧に捉えていた。

HẾT CHƯƠNG

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