潜入の按摩、鶯張りの死角
黒霧宿を包んでいた激しい氷雨は夜半過ぎに上がったが、代わりに濡れた夜気と濃い川霧が、代官所の白壁を不気味に侵食していた。軒先から「ポツリ、ポツリ」と滴る水滴の音が、冷たい石畳に不規則な波紋を刻んでいる。目を持たぬ影狼にとって、その一定の間隔で響く水滴の反響音こそが、周囲の障害物の距離を測る無言の道標であった。
影狼は今、宿場町をうろつく盲目の按摩「影次」の姿に身をやつしていた。薄汚れた藍染めの小袖に、深く被った編み笠。手には煤けた竹杖を握っている。だが、その竹杖の内部には、老鍛冶職人・伍助が亡き父の「残鉄」を溶かし込んで鍛え直した、極薄かつ強靭な仕込み刃が、摩擦音を完全に消去する「無音の鞘」に収められて静かに眠っていた。
左肩の重度の火傷が、濡れた冷気に晒されてズキズキと脈打つように疼く。肺の奥は先日の煙の吸引によって熱く腫れ上がっており、呼吸を深く吸い込もうとするたびに、鋭い痛みが走って息が詰まった。さらに、右耳の鼓膜を失ったことによる静寂は、世界の右半分を完全な空白の死角へと変えていた。影狼は頭を僅かに左へと傾け、唯一機能している左耳と、全身の皮膚感覚だけで、代官所の堅牢な気配を頭の中に描き出そうとしていた。
背後の霧の中から、極めて微小な衣擦れの音が近づいた。半助だ。彼の心拍数は、恐怖と焦燥によって一分間に百度を超える速さで脈打っている。
「影狼様……お鈴ちゃんは弥平さんの管理小屋に預けてまいりました。ですが、代官所の裏口の見張り交代は、半刻後には終わってしまいます。捕らえられた三吉や貧民たちは、地下牢の最深部……『鉄血の間』の手前にある牢に押し込められているはずです」
「……案内しろ」
影狼の声は、夜霧よりも冷たかった。半助は震えながら頷き、影狼の手を引く代わりに、自身の衣服の裾を僅かに引いて歩き出した。半助が着用しているのは、光を反射しない特殊な下忍の衣服。その繊維が擦れ合う「サッ、サッ」という極小の音を、影狼は左耳だけで正確に追跡する。
代官所の裏手に回ると、乾いた木材と古い漆喰の匂いが漂ってきた。半助が事前に細工しておいた勝手口の閂が、摩擦を殺した手つきで「スッ」と無音で外される。影狼は半助に背中を軽く叩かれる合図を受け、音もなく敷居をまたいで内部へと滑り込んだ。
一歩踏み入れた瞬間、空気の質が変わった。外の濡れた霧から、代官所内部の、乾燥した古い木材と畳、そして役人たちが灯す蝋燭の獣脂が燃える重い匂い。右耳の死角を補うため、影狼は皮膚の毛穴を全開にした。大気の僅かな対流の変化が、廊下の壁や柱の位置を彼の肌に伝えてくる。
だが、半助が影狼の小袖の袖を、冷たい指先で強く引き絞った。半助の心音が、恐怖で一瞬にして跳ね上がる。半助は影狼の耳元に、自身の吐息すら殺した囁きを寄せた。
「影狼様……ここから先、地下牢へと続く『奥の間』の廊下は、すべて『鶯張り』でございます。どれほど足音を殺そうとも、板を踏めば床下の鳴り金が鳴り響き、足軽どもが飛んできます……」
影狼は竹杖の先端を、床板の木目にそっと触れさせた。物理的な打撃音を立てぬよう、極限まで力を抜いた接触。その微細な感触から、木板の乾燥度と、その下に広がる中空の空間の深さを測る。床板は欅の厚板。その下には、板の弾性を利用して音を鳴らすための鉄製の「鳴り金」と、それを固定するかすがいが仕込まれている。
鶯張り。侵入者の体重によって木板が僅かに「たわむ」ことで、床下の金具が釘と擦れ合い、鳥の鳴き声に似た高い摩擦音を響かせる防犯の罠だ。どれほど体重を軽くしようとも、板の中央を踏み抜けば、その物理的なたわみを防ぐことはできない。
(ならば、たわまない場所を踏むしかない)
影狼は懐から、かつて玄庵の診療所の遺品から作り出した「音吸いの砂袋」を取り出した。極小の川砂と真綿を二重の絹袋に詰めた自作の防音具。これを、自身の草鞋の底へと手際よく縛り付ける。砂袋は床板との物理的な硬質摩擦音を吸収し、衝撃を分散させる役割を果たす。だが、それだけでは鶯張りのたわみは防げない。
影狼は「風の呼吸法」を起動した。肺の空気を限界まで吐き出し、胸の上下動を完全に停止させる「息止め暗殺」の呼吸。肺の中に残された僅かな酸素だけで、数十秒間の駆動を可能にする。心拍数が急激に低下し、自身の血流音すらも背景の静寂へと沈んでいく。
影狼は竹杖を水平に浮かせ、足裏の触覚を極限まで研ぎ澄ませた。廊下の壁際、木板と壁の「接合部」に、大引きと呼ばれる太い支持梁が床下を通っている。その梁の真上だけは、どれほど体重を乗せようとも、木板が物理的にたわむことがない。すなわち、鳴り金が擦れ合う隙間が存在しない「死角」である。
影狼の身体が、滑るように前進を始めた。歩法「霧走り」。重心を踵から爪先へと無音で滑らせ、体重の垂直方向の衝撃を水平方向の摩擦へと変換する。足裏の「音吸いの砂袋」が、床板の微細な塵を押し潰す極小の音すらも吸い取っていく。壁際から僅か三寸の、床下の太い梁が走る直線の上。影狼の足袋の先は、寸分の狂いもなくその絶対の安全地帯を踏み抜いていった。
――チッ。
その時、影狼の左耳が、背後で半助が息を呑んだ極小の音を捉えた。半助の足元で、床板が僅かにミリ単位できしんだのだ。影狼は即座に動作を完全に停止し、床に這いつくばるようにして姿勢を低くした。
前方から、二人の足軽の足音が近づいてくる。一人は右足を引きずり、もう一人は呼吸が浅い。彼らが手にする松明の、獣脂がパチパチと爆ぜる極小の破裂音。そして、炎が発する熱風の上昇気流が、廊下の冷たい空気を押し出す「気圧の僅かな高まり」を、影狼は額の皮膚で敏感に感知した。
足軽たちが、影狼が潜む角のすぐ手前で立ち止まった。
「おい、今、奥の廊下で僅かに鳴り金が響かなかったか?」
「気のせいだろう。風で建物がきしんだだけだ。それより、地下牢のあの老いぼれたち、明日には全員処刑だそうだぞ。黒塔の旦那方が、辻斬りをおびき寄せるための餌にするらしい」
足軽たちの心音は、退屈と僅かな残虐性を帯びて一定のテンポを刻んでいる。彼らが持つ松明の熱が、影狼の被る編み笠の表面をじわじわと暖めていく。肺の酸素が限界に達しつつあり、煙で焼かれた気管支が、激しい咳を誘発しようと内側から影狼の喉を締め付ける。胸が苦痛で激しく収縮するが、影狼は「息止め暗殺」の精神統一を崩さず、自身の心臓の鼓動すらも完全に消し去っていた。
足軽の一人が、不審そうに影狼が潜む影に向けて一歩を踏み出そうとした。床板が「きぃ……」と小さく鳴る。これ以上近づかれれば、盲目の影狼の衣服の臭いや、僅かな体温の変化で正体が露見する。
影狼は左手の指先を僅かに動かした。懐から取り出した小さな「響き石」を、手首のスナップだけで、音もなく反対側の庭の池へと放つ。腕が空気を切り裂く音すら発生させない、無音投擲の極意。
――ポチャン。
庭の暗闇から響いた小さな水音が、静まり返った代官所に不自然に響いた。
「誰だ! 庭に誰かいるぞ!」
足軽たちの心拍が一瞬で跳ね上がり、彼らの足音は激しい泥の弾き音を立てて、一斉に庭の方角へと走り去っていった。松明の熱気と獣脂の匂いが急速に遠ざかる。
影狼は肺に溜まっていた熱い息を、音を立てずに静かに吐き出した。酸欠による激しい目眩が視界(暗闇)を明滅させ、左肩の火傷が再び激痛を放ったが、彼は立ち止まらなかった。「霧走り」の歩法を再開し、鶯張りの死角を完璧に渡りきって、地下牢へと続く重い杉戸の前へと到達する。
半助が青ざめた顔で追いつき、杉戸の隙間から鍵を開ける。戸が開いた瞬間、地下から這い上がってきたのは、外の雨上がりとは比較にならない、凍てつくような冷気。そして、濃厚な鉄錆の匂いと、人間の脂が腐敗した不気味な悪臭であった。
影狼が地下へと続く暗い石段に一歩を踏み出した瞬間、その耳が、奈落の底から響く異様な音響を捉えた。
――チャリ……。チャリ……。
それは、重い鉄の鎖が擦れ合う、冷徹な金属音。そして、その直後に響いたのは、硬い人間の骨が物理的に押し潰され、容赦なく噛み砕かれるような、鈍く湿った「グシャリ」という不気味な鈍音であった。その音波の振動が、地下の狭い石壁に反響し、影狼の左耳を不気味に震わせた。
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