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恩讐の焦土、逝きし医師の遺言

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「チャリ……チャリ……」


 炎の爆ぜる轟音のただ中で、その冷徹な金属音だけが影狼の耳腔に直接突き刺さっていた。それは、黒塔の拷問官・骨喰いの源五郎が操る鎖鞭「骨喰い」が、影狼の煤けた竹杖に絡みつき、ギリギリと締め上げる不吉な軋みだった。


 熱い。皮膚を焦がす熱風が、四方八方から巨大な上昇気流となって渦巻いている。目を持たぬ影狼にとって、この薬庵を包む猛火は「光」ではなく、肉を焼き、呼吸を奪う「大気の狂乱」そのものだった。さらに、先ほど崩落した梁によって負った左肩の重度の火傷が、動くたびに鋭い激痛となって全身の経絡を駆け巡る。肺の奥は煙に焼かれ、息を吸い込むたびに血の味が喉元までせり上がってきた。


「くくく……どうした、筆頭」


 源五郎のねっとりとした残忍な声が、炎の壁の向こうから響く。彼の心臓が刻む鼓動は、この焦熱の地獄にあっても驚くほど一定だった。他人の肉体を破壊することに慣れきった、本物の怪物のテンポだ。


「その至高の仕込み刀、無理に引き抜けば折れるぞ。あるいは、お前の自慢の鞘が木端微塵になるか。どちらにせよ、お前の命はここで終わりだ」


 影狼は無言のまま、竹杖を握る右手にわずかに力を込めた。確かに源五郎の言う通りだった。力任せに刀を引き抜こうとすれば、金属摩擦によって「無音の鞘」の内部が破損するか、再鍛造されたばかりの薄刃に致命的な歪みが生じる。何より、影狼の背後には、椅子に縛り付けられたままぐったりと頭を垂れている玄庵の気配があった。玄庵の鼓動は――「トクン……トクン……」と、今にも消え入りそうなほどに弱まり、不規則に乱れている。一刻の猶予もない。


(左肩は動かぬ。煙で肺も限界だ。長期戦は死を意味する……)


 影狼の脳内で、感覚情報が急速に処理されていく。彼は「風の軌跡視」を限界まで広げた。立ち上る煙の密度、炎が天井の梁を侵食していく速度、そして、源五郎が鎖を引き絞る腕の筋肉の強張り。すべてが、影狼の頭の中に青く透き通る立体的な地図として再構築されていく。


 源五郎は確信している。影狼が武器を奪われることを恐れ、強引に引き剥がそうと抵抗することを。だからこそ、鎖をさらに強く引き込み、影狼の体勢を崩そうとしているのだ。


(ならば――その力を利用する)


 影狼は、竹杖を引く力を完全に抜いた。脱力。抵抗を失った鎖の強烈な牽引力によって、影狼の満身創痍の身体は、自ら源五郎の懐へと向かって最速で滑り出した。


「何っ……!?」


 源五郎の心拍が一瞬だけ跳ね上がった。予期せぬ突進に対する、肉体的な驚愕。その刹那、影狼は「心音同調」の耳を極限まで澄ませた。源五郎が焦って鎖を操作しようとし、その右腕の血流が急激に加速した音を、影狼の耳は逃さなかった。攻撃が放たれる、まさに「〇・一秒前」の予備動作。


 影狼は滑り込みながら、腰の「無音の鞘」に右手をかけた。伍助が命を賭して調整したその鞘は、引き抜かれる瞬間、大気を切り裂く摩擦音を一切発生させない。完全なる、絶対の静寂。


 ――「無響一閃」。


 炎の爆ぜる音さえもが一瞬だけ遠ざかったかのような錯覚の中、真空の軌道が描かれた。金属の交錯する音も、風を切り裂く悲鳴もない。ただ、引き絞られていた鉄鎖が物理的な張力を失い、「バラバラ」と床に落ちる硬質な音だけが響いた。


「な……が、は……」


 源五郎の声が、途中で掠れた。彼の身体から、激しい殺気の鼓動が急速に消失していく。影狼が放った神速の居合いは、玄庵を傷つけることなく、源五郎の喉元だけを正確に、そして無音で切り裂いていた。どさりと、拷問官の巨体が床の灰の中に崩れ落ちる音が、影狼の耳に届いた。


「玄……庵……殿!」


 影狼は仕込み刃を鞘に収める間もなく、崩れかけた天井から降り注ぐ火の粉を避けながら、玄庵の椅子へと駆け寄った。仕込み刃の先端を滑らせ、玄庵の身体を縛り付けていた太い縄を無音で切り裂く。縄が解け、玄庵の身体が前に傾いた。影狼は咄嗟に、火傷を負った左肩の激痛を堪えながら、その痩せ細った身体を抱きとめた。


「玄庵殿! しっかりしてくれ!」


 抱き上げた玄庵の身体は驚くほど軽く、そして冷たかった。拷問による無数の裂傷から流れ出た血が、影狼の野良着を濡らしていく。耳を玄庵の胸元に押し当てる。聞こえてくるのは、今にも停止しそうな、極めてか細い拍動だった。死の影が、すぐそこまで迫っている。


「か、影……狼……か……」


 玄庵の掠れた、しかし穏やかな声が、影狼の耳元で響いた。その声には、自身の死を目前にしながらも、眼前の若者を案じる絶対的な慈悲が宿っていた。


「無事……だったか……お鈴ちゃんも……」


「ああ、お鈴は伍助の鍛冶場で無事だ。だから、あなたも生きてくれ! 私が、ここから連れ出す!」


 影狼は玄庵を背負おうとした。だが、玄庵の細く乾いた手が、影狼の血に染まった手をそっと制した。その手の力強さは、医師としての、最期の意志そのものだった。


「もう……よいのだ。私の命の灯火は、ここで消える……。だが、影狼、お前に……遺さねばならぬものがある……」


 玄庵は震える指先で、自身の懐から、小さく折り畳まれた一枚の古い紙を取り出した。それは、炎の熱によって微かに焦げ、玄庵の血が滲んだ処方箋だった。


「お前の耳は……限界だ。風の呼吸法を使い続ければ、いずれ脳の経絡が焼き切れ……完全な闇に堕ちる……。これは、耳の神経を一時的に活性化させる『天耳草』の毒性を……中和するための調合方法だ……。お鈴ちゃんや、およねに……渡すがいい……」


 影狼の右手に、その焦げた紙が握らせられた。紙が発する、玄庵が長年扱ってきた薬草の匂いと、彼の血の生温かい感触が、影狼の皮膚を通じて脳裏に焼き付く。


「玄庵殿……!」


「憎しみに……溺れるな、影狼……。お前がその刃を振るうのは、復讐のためではなく……あの子の『目』となり、守るためであれ……」


 玄庵の鼓動が、急激にそのテンポを遅くしていく。


 ドクン……。


 ドクン……。


 そして――。


 ……。


 完全な、静寂。影狼の耳に届くのは、もはや爆ぜる炎の轟音だけだった。玄庵の胸から、命の拍動が完全に消失した。彼を闇の底から救い出し、人間としての温もりを教えてくれた唯一の恩人が、その腕の中で、静かに息を引き取ったのだ。


「玄庵殿ォォォッ!」


 影狼は、声にならない慟哭を胸の中で叫んだ。彼の目から涙が流れることはない。切り裂かれた両目の傷跡からは、ただ熱い血の混ざった汗が滲むだけだった。だが、彼の内に渦巻く憎悪と悲しみは、周囲の猛火をも凌駕するほどの冷徹な嵐となって、彼の経絡を狂わせようとしていた。手の中の処方箋を固く握り締める。この恩人の遺志を、無駄にするわけにはいかない。


 その時、薬庵の外から、不吉な「ヒュッ」という風切り音が複数、同時に響いた。


 ――ドスッ! ドスッ!


 燃え盛る薬庵の木壁を突き破り、無数の火矢が奥の間へと射ち込まれた。火矢が刺さるたびに、新たな炎が爆発的に広がり、影狼の退路を完全に塞いでいく。


「ひゃーはははは! 燃えろ、燃えろ! 盲目のネズミめ、骨も残さず灰にしてやる!」


 薬庵を取り囲む鬱蒼とした森の奥から、狂気的な哄笑が風に乗って聞こえてきた。油瓶を携帯し、火炎を操る黒塔の刺客――鬼火の平八の気配だった。彼の心音は、炎の美しさに興奮し、異常なテンポで跳ね上がっている。平八は薬庵の周囲の立ち木にも火を放ち、影狼が脱出するための道を、物理的にすべて焼き尽くそうとしていた。


 抱きしめた玄庵の冷えゆく亡骸。背後から迫る、平八の放ったさらなる炎の矢の風圧。影狼は仕込み刃を固く握り締め、焦熱の焦土の中で、新たなる仇の気配に向けて、静かに、しかし凄絶な殺意を込めて耳を澄ませた。

HẾT CHƯƠNG

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