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焦熱の薬庵、断末魔の残響

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冷たい豪雨が世界を叩きつけているというのに、その一角だけは、天に向かって狂ったような熱気を吐き出していた。


 国境の宿場町「黒霧宿」の裏路地。かつて影狼が失明し、奈落の底を這いずり回っていた時に、その命を救い、耳の経絡を開く鍼治療を施してくれた町医者・玄庵の診療所――「玄庵の薬庵」が、今や激しい炎に包まれていた。


 鼻腔を刺すのは、ただの木が燃える匂いではない。長年にわたって蓄積され、乾燥させられていた無数の生薬――艾(もぐさ)や高麗人参、甘草の類が、炎の熱によって一気に蒸発し、焦げ付く独特の甘苦い、そして不吉な煙の臭いだ。それは影狼にとって、この世で唯一「温もり」を感じられた場所が、冷酷に焼き尽くされていることの、動かしがたい証拠だった。


(玄庵……!)


 影狼の胸の奥で、氷の下に眠っていたマグマのような焦燥と怒りが、一気に沸点へと達した。彼は嵐の中を疾走し、燃え盛る薬庵の正面へとたどり着いた。引き裂かれた灰色の野良着が雨と汗に濡れ、肌に張り付く。右耳の鼓膜が失聴しているせいで、右側の音響空間が不自然に歪み、世界の半分が泥に沈んだような感覚を抱きながらも、彼はすべての神経を研ぎ澄ませた。


 パチパチと爆ぜる火の粉の音。梁が自重に耐えかねて軋む鈍い音。それらの巨大なノイズの隙間から、風に乗って、影狼の耳が「それ」を捉えた。


「――言え、老いぼれ。あの盲目の野郎はどこへ隠れた。伍助の鍛冶場か、それとも無縁墓地の奥か?」


 低く、ねっとりとした残忍な声。それは他人の悲鳴を「最高の音楽」と呼んで憚らない、黒塔の拷問官・骨喰いの源五郎の声だった。そして、その問いかけに応える声はない。ただ、弱々しく、今にも途切れそうな「トクン……トクン……」という不規則な心臓の鼓動だけが、炎の壁の向こうから伝わってくる。玄庵の心音だ。その拍動は極めて遅く、血流が滞っていることを示していた。激しい拷問を受け、瀕死の状態にあるのは明白だった。


「無駄だ、源五郎。あの男は……ここには戻らん……」


 かすれた、しかし毅然とした玄庵の声が、炎の残響に混ざって聞こえた。直後、衣服が擦れる音と共に、肉体を鋭く打つ「ビシィッ!」という湿った音が響く。源五郎が鞭を振るったのだ。


「しぶとい老いぼれめ。ならば、この庵と共に行き止まりへ送ってやる」


 影狼は、煤けた竹杖を固く握り締めた。伍助が命を賭して完成させた、父・朔太郎の魂が宿る至高の仕込み刀と、抜刀摩擦音を完全にゼロにする「無音の鞘」。その牙が、主の怒りに応えるように、鞘の中で静かに脈打つ感覚があった。


(息を整えろ。焦れば、この煙に肺を焼かれる)


 影狼は「風の呼吸法」を起動した。深く息を吸い込むのを止め、肺活量を極限まで制限する。有毒な煙を鼻腔の奥で濾過し、胸の上下動を完全に停止させた状態で、燃え盛る薬庵の入り口へと滑り込んだ。


 一歩踏み入れた瞬間、凄まじい熱風が影狼の皮膚を襲った。目が見えない彼にとって、炎は「光」ではなく、皮膚を焦がす「巨大な上昇気流の乱れ」として知覚される。影狼は「風の軌跡視」を全開にした。熱気が天井へと向かって激しく渦巻く様子が、空気の肌触りを通じて頭の中に立体的な三次元の地図として再構築されていく。燃え盛る柱の位置、崩落しかけている天井の隙間が、気流の滞りとなって脳裏に青く描き出された。


 だが、侵入者を待ち受けていたのは、炎だけではなかった。


 ――サッ、サッ。


 火の粉が舞い散る猛火の奥から、衣服の擦れる音が二つ、左右同時に影狼の死角へと這い寄ってきた。源五郎の部下たちだ。彼らは影狼が盲目であること、そして右耳が聞こえないことを完全に計算に入れ、無音の奇襲を仕掛けてきたのだ。


(右と、左……。炎の爆ぜる音が大きすぎて、足音が完全に掻き消されている)


 右耳の死角から迫る刃の気配。影狼の脳裏に、一瞬の焦りが走る。だがその時、彼の耳が、本堂の隅に置かれていた、火を消すための水桶の音を捉えた。天井から落ちた火の粉が水面に触れ、「ジュッ」と音を立てる。そして、左右から接近する刺客たちの足元が、床に溢れた水を僅かに踏んだ瞬間、水面が不規則に「揺らぐ」微小な波紋の音が響いた。


(そこだ――)


 影狼は「無音の鞘」から仕込み刃を引き抜いた。金属が擦れ合う音は一切発生しない。敵が抜刀に気づくよりも早く、影狼の身体は「歩法・霧走り」によって、水音のした左側の刺客の懐へと無音で滑り込んでいた。


「直線の一閃」が、最短距離の軌道を走り抜ける。風を切り裂く音すら最小限に抑えられた突きが、一人目の刺客の喉元を寸分の狂いもなく貫いた。肉を裂く「ズサッ」という鈍い音が響く。


 しかし、その刹那、影狼の足元が不自然に沈み込んだ。床板が火によって炭化し、崩落しかけていたのだ。足袋の先が燃える床板を突き破り、一瞬だけ身動きが取れなくなる。


「死ねぇ!」


 右側から、二人目の刺客が勝ち誇った声を上げ、油の入った火炎瓶を影狼に向けて投げつけた。投げ出された瓶が空気を切り裂く「ヒュッ」という音が迫る。このまま直撃すれば、全身が火の海に包まれる。


 影狼は、身体を強引に捻りながら、仕込み刃を特定の角度で鋭く振り抜いた。――「音波相殺の理」。


 刃が放つ爆発的な風圧の壁が、飛来する火炎瓶の軌道を空中で捉えた。瓶は直撃する直前、逆方向からの風の圧力によって物理的に押し戻され、刺客の足元の床へと落下して大爆発を起こした。激しい爆炎が二人目の刺客を包み込み、悲鳴が上がる。


 だが、その爆発の衝撃波と熱風が、薬庵の老朽化した天井を物理的に破壊した。


 ――メリメリ、バキッ!


 燃え盛る巨大な梁が、影狼の頭上から無数に降り注ぐ。足元を捕らえられていた影狼は、完全な回避行動を取ることができなかった。彼は「風の軌跡視」で崩落する瓦礫の軌道を捉え、上体を極限まで逸らしたが、燃え盛る太い木材が、彼の左肩を激しく直撃した。


「ぐっ……!」


 ジュウ、と皮膚が焼ける不快な音が響き、強烈な激痛が影狼の全身を貫いた。左肩の野良着が燃え、肉が焦げる痛みに、影狼の呼吸が一瞬だけ乱れる。さらに、激しい煙が彼の肺へと侵入し、激しい咳き込みが襲いかかった(代償:左肩の火傷、煙の吸引による肺へのダメージ)。


 それでも、影狼は仕込み刃を支えにして、強引に泥濘の床から足を力ずくで引き抜いた。痛覚を脳の奥で凍りつかせ、ただ一人の仇へと向けて、燃え盛る奥の間への扉を竹杖で突き破る。


 扉の破片が炎の中に散る中、影狼の耳に、冷徹で、金属的な軋み音が届いた。


 ――チャリ……チャリ……。


 重く、太い鉄の鎖が擦れ合う、不気味な金属音。源五郎がその手に持つ、罪人の骨を砕くための拷問鞭「骨喰い」が、猛火の中で静かに蠢いていた。その背後には、椅子に縛り付けられ、頭を垂れて呼吸を荒くしている玄庵の気配があった。


「ほう……。骸吉たちを殺し、この火の海を潜り抜けてくるとはな、影狼」


 源五郎の心音は、この焦熱の地獄にあっても驚くほど穏やかだった。それは、獲物をいたぶることに慣れきった、本物の怪物のテンポだった。


「だが、遅かったな。この老いぼれの命の灯火は、もうじき消える。お前がここから生きて出ることもない」


 源五郎が腕を振るった瞬間、重い鉄鎖が空気を引き裂き、影狼の竹杖に向けて、死神の牙の如く襲いかかった。猛火の渦中、引き絞られる鉄鎖の冷徹な軋み音が、影狼の唯一の牙である竹杖を締め上げていく。

HẾT CHƯƠNG

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