迫り来る鉄爪、診療所の不穏
シュウ、と熱い鉄に水が触れる極小の蒸気音が、絶え間ない金属打撃音の隙間で弾けた。
直後、影狼の右肩の皮膚が、急激な大気圧の低下を察知した。右耳の鼓膜は、前回の激闘による損傷で未だ深い静寂に沈んでいる。その死角を狙い、黒爪の骸吉が放った極細の毒暗器が、炉の火花を赤黒く反射しながら無響のまま迫っていた。
大気の熱い対流が、毒刃の侵入によって僅かに歪む。避ける術はないかと思われたその刹那、背後の暗闇から、煤まみれの老職人のしゃがれ声が響いた。
「受け取れ、影狼! お前の親父の魂だ!」
伍助の硬い手のひらから放たれた一本の煤けた竹杖が、火花を散らす作業台の上を滑り、影狼の左手へと吸い込まれた。掴んだ瞬間、手のひらの皮膚を通じて、かつてない冷徹な金属の「重み」が脳へと直撃した。不純物が極限まで取り除かれた、父・朔太郎の遺産「名刀の残鉄」が、伍助の命を削るような打撃によって完全に蘇り、竹杖の芯へと溶け込んでいた。
影狼は躊躇わなかった。竹杖の節に隠された極小の目釘を親指で押し込み、柄を逆手に握り直す。
引き抜く。その瞬間、鍛冶場を満たしていた凄まじい騒音のすべてが、影狼の耳から一瞬にして消え去ったかのような錯覚を覚えた。
――無音。
通常の刀であれば必ず鳴る、鞘と刃が擦れ合う「キィ」という金属摩擦音が、全く存在しなかった。伍助が鞘の内側に張り巡らせた極細の鹿革と、摩擦を極限まで殺す秘伝の油。そして寸分の狂いもなく鍛え上げられた極薄の鋼。それらが完璧に調和し、物理的な摩擦音を完全にゼロに抑え込んでいた。引き抜かれた刃は、大気そのものを吸い込む真空の如く、無響のまま闇に現れた。
骸吉の毒暗器が、影狼の背中を貫く寸前――影狼は仕込み刃を斜め上へと一閃させた。それは風を斬るのではない。風の流れと同調し、大気の抵抗を完全に消し去る「音波相殺の理」を応用した抜刀。刃が空気を押す微細な風圧の壁が、飛来する毒針の軌道を無音のまま弾き飛ばし、土壁へと静かに突き刺した。
「なっ……抜刀音が、ない……!?」
闇に潜む骸吉の心拍が、驚愕によって一瞬で跳ね上がった。ドクン、というその鼓動を、影狼の耳は逃さなかった。敵の位置は、炉の熱気の向こう側、三歩先。
影狼の身体が、滑るように泥濘の床を移動した。足裏の重心を完全に分散させ、一切の足音を立てない「歩法・霧走り」。骸吉が次の暗器を構えるよりも早く、影狼はすでに彼の死角へと回り込んでいた。
――無響一閃。
月明かりすら届かぬ鍛冶場の闇の中で、漆黒の軌道が描かれた。肉を裂く音も、骨を断つ響きもない。ただ、骸吉の首が胴体から滑り落ちる「ズサッ」という肉体の崩壊音だけが、炉の爆ぜる音に混ざって響いた。骸吉は、自身がいつ斬られたのか、その刃がどこから迫ったのかすら理解できぬまま、絶命の泥へと沈んだ。
「骸吉様……!? どこだ、どこから斬られた!」
残された三人の精鋭刺客たちが、パニックに陥った。彼らの目には、闇の中から突如として現れた見えざる死神が、一瞬にして首領の首を撥ねたように映ったはずだ。抜刀の音も、斬撃の風切り音も聞こえない恐怖。暗殺のプロフェッショナルであるはずの彼らの心音が、狂ったように乱れ始める。
「足音がする……そこか!」
「いや、違う、こっちだ!」
恐怖に駆られた刺客たちは、互いの衣服が擦れる音や、焦燥による激しい足音を影狼のものと誤認し、暗闇の中で同士討ちを始めた。影狼はその狂乱の雑音を冷徹に聞き分けながら、風の隙間を縫うように移動した。仕込み刃が直線の軌道を走り、一人、また一人と、喉元を正確に貫かれて物言わぬ骸へと変わっていく。
わずか数十秒。鍛冶場を包囲していた黒塔の精鋭部隊は、一度の金属音すら立てることなく、完全に沈黙した。
影狼は仕込み刃を「無音の鞘」へと収めた。カチリ、という極小の固定音だけが、静寂を取り戻した室内に響く。彼は息を整え、炉の影で震えていた半助へと歩み寄った。半助は、生き残った一人の刺客の胸ぐらをつかみ、狂ったように尋問を始めていた。
「言え! 源十の野郎はどこにいる! 宿場町で何を企んでいる!」
半助の突きつけた短刀に怯え、瀕死の刺客が血を吐きながら掠れた声を絞り出す。
「げ、源十様は……激怒されている……。剛太が殺されたことで、代官所の神保を動かし、黒霧宿のすべての関所を封鎖した……。盲人の按摩を一人残らず捕らえ、首を刎ねるつもりだ……」
影狼の眉が僅かに動く。だが、刺客が死に際に放った次の言葉が、彼の胸元に隠された小夜の形見の鈴を、物理的に震わせるほどの衝撃を与えた。
「それだけじゃない……。源十様は、お前を治療したあの医者の存在を突き止めた……。今頃、拷問官の源五郎が、玄庵の薬庵に向かっている……。お前の足取りを吐かせるために、あの庵ごと焼き払うと……くはっ!」
刺客の心音が、そこで完全に停止した。
鍛冶場の中に、凍りつくような静寂が戻ってきた。しかし、影狼の胸の奥では、氷の下で猛り狂うマグマのような、激しい怒りと焦燥が沸き起こっていた。玄庵――両目を失い、絶望の泥濘で死にかけていた自身を救い、耳の経絡を開く鍼治療を施してくれた、唯一の命の恩人。その穏やかな医師の命が、自身の復讐の巻き添えになろうとしている。
「おじさん……」
お鈴が、影狼の激しい心拍の跳ね上がりを察知し、怯えながらも彼の煤けた袖を強く引き絞った。彼女の小さな手から伝わる体温が、影狼の狂いそうになる精神を辛うじて現実に繋ぎ止める。
「半助」影狼の低い声が、静かに響いた。「お鈴を連れて、ここに残れ。伍助殿の元が最も安全だ」
「お、おじさん! 私も行く! おじさんの目になるって、約束したのに!」
お鈴が初めて、言葉にならない叫びをあげて影狼の腰に縋り付いた。だが、影狼は彼女の小さな肩を掴み、これまでにない冷徹で、しかし絶対に彼女を死なせないという強い意志を込めた語気で命じた。
「お前はここにいろ。……これは、俺の戦いだ」
お鈴はその気迫に押され、息を呑んで立ち尽くした。影狼は伍助に向き直り、無言で頭を下げた。
「任せろ、影狼」伍助が金槌を肩に担ぎ、不敵に笑った。「朔太郎の刀だ。お前の親父の魂が、その刃に宿っている。玄庵の野郎を、必ず救い出してこい」
影狼は頷き、鍛冶場の裏口から暴風雨が吹き荒れる暗闇へと飛び出した。外は激しい雨が地面を叩き、風が哭いていた。ぬかるんだ泥を蹴り上げ、影狼は宿場町の方角へと疾走する。右耳の死角から吹き付ける雨粒の冷たさが、彼の焦燥をさらに激しく煽り立てる。
一刻の猶予もない。玄庵の薬庵へと向かう影狼の鼻腔に、激しい雨の匂いと共に、かつて診療所で何度も嗅いだ「玄庵の薬草」が焦げる、不吉な煙の臭いが届いた。
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