奈落の泥濘、無音の目覚め
光が消えていた。いや、世界そのものが、底知れぬ黒い漆喰によって塗り潰されたかのようだった。
「……う、あ……」
男――影狼は、冷たい泥の中に顔を埋めたまま、掠れた呻き声を漏らした。顔を動かそうとするだけで、両目の奥に焼き鉄を押し当てられたかのような激痛が走る。まぶたを開けようとしても、固まった血と泥が睫毛を癒着させ、ただ暗黒の痛みが脳髄を直撃するだけだった。かつて朝廷の影として、暗殺ギルド「黒塔」の筆頭として闇を駆けた男の双眸は、元同僚たちの冷酷な刃によって永遠に光を奪われたのだ。
激しい肉体的衝撃と、かつて恩人である町医者・玄庵から施された「耳の経絡」を開く鍼治療の残響。それらが最悪の形で混ざり合い、彼の肉体に異変を引き起こしていた。視覚という最大の感覚を失った瞬間、彼の脳は失われた光を補うかのように、残された五感を狂気的なまでに拡張し始めたのである。
「が、はっ……あ、あああ!」
突如として、耳の奥で無数の針が弾けるような雑音が爆発した。鼓膜を突き破らんとする音の奔流。それは、彼を中心に数町先まで広がる世界の、ありとあらゆる「振動」だった。
冷たい雨が荒れ果てた無縁墓地の濡れた土を叩く、無数の、重く湿った衝突音。風が折れた杉の木々を吹き抜ける、獣の咆哮のような風鳴り。地中を這う這虫の、かすかな足脚の摩擦。朽ちかけた墓石の割れ目から滴り落ちる、雨水の絶え間ない滴下。それらすべてのノイズが、容赦なく彼の脳髄へと流れ込み、沸騰した油のように神経を焼き焦がしていく。音の暴力に押し潰され、影狼は泥濘の中で身悶えした。耳を塞ごうと両手を動かすが、泥まみれの指先は言うことを聞かず、ただ泥水を顔に塗りつけることしかできない。
あまりの感覚過熱に脳が悲鳴を上げ、視界のない暗闇の中で、彼の精神は狂気の一歩手前まで追い詰められていた。このまま脳の経絡が焼き切れ、廃人となるか。あるいは、この音の深海に溺れて死ぬか。
その混沌とした騒音の底から、突如として、一つの異質な「音」が浮き上がってきた。
――トクトクトクトク。
それは、狂ったように速く、しかし羽虫の羽ばたきのように小さく震える、か細い脈動だった。影狼の研ぎ澄まされた「鼓動の聞き分け」の感覚が、その音の正体を瞬時に弾き出す。野獣の心音ではない。恐怖に凍りつき、石碑の影で息を殺して身を潜めている、人間の子供の心臓だ。そのあまりにも必死で、純粋な生への執着を示す鼓動は、ノイズにまみれた影狼の意識を現実へと繋ぎ止める細い糸となった。
「誰、だ……」
声にはならなかった。ただ、泥を掴む指先に僅かな力が戻る。彼は這い上がろうと、ぬかるんだ土に膝を立てた。しかし、平衡感覚を司る三半規管までもが過剰な音情報で狂わされており、立ち上がろうとした瞬間に世界が激しく回転した。身体の重心が失われ、影狼は横倒しに転倒した。その拍子に、額が冷たい苔むした墓標に激突する。
鈍い衝撃音と共に、額から温かい血が流れ落ち、泥と混ざり合う。だが、その鋭い肉体的苦痛が、逆に彼の混濁した意識を冷徹に覚醒させた。これでは死ぬ。ただ、無様に泥の中で果てるだけだ。妹の小夜を奪い、己の目を切り裂いたあの裏切り者どもに、何一つ報いることもできぬまま。
(まだ……死ねぬ……!)
影狼の泥に汚れた指先が、引き裂かれた灰色の野良着の懐へと滑り込んだ。冷たい金属の感触が指先に触れる。彼はそれを引き出し、震える指先で優しく弾いた。
――チリン。
澄んだ、あまりにも純粋な真鍮の高音が、雨が降る墓地の闇を切り裂いた。妹・小夜の形見の鈴。その一点の澄み切った高周波の振動は、影狼の脳内で荒れ狂う雑音の嵐に対する「基準律」として機能した。鈴の音の波形が脳の聴覚野に一本の絶対的な芯を通し、過熱していた神経伝達物質の暴走を急速に抑え込んでいく。
影狼は泥の中に横たわったまま、深く、長く息を吸い込んだ。かつて黒塔の訓練で叩き込まれた「風の呼吸法」の基礎。肺活量をミリ単位で制御し、自身の呼吸音すら完全に殺す呼吸。肺から送り込まれる冷えた大気が、過熱した脳の熱を物理的に下げていく。息を吐き出すたびに、頭の中のノイズが「背景の雑音」へと退いていき、世界の音情報が整理されていった。
雑音は徐々に秩序を得て、大気のわずかな振動、すなわち空気の対流として彼の脳内に再構成され始めた。風が墓石に当たって遮られる形状、風が通り抜ける隙間の広さ。それらが、光を失った彼の頭の中に、青く透き通る三次元の空間図として描き出されていく。これが、目を失った彼が到達した「聴風」の境地の始まりだった。
影狼はゆっくりと、泥の中から手を伸ばした。指先が触れたのは、煤けた一本の竹杖だった。かつて彼が「仕込み刃」を隠し、盲人の按摩を装うために用意した相棒。
彼は竹杖をしっかりと握り締め、地面を軽く叩いた。
――コツン。
その微小な打撃音が、放射状に闇へと広がっていく。跳ね返ってくる反響音のズレ。影狼の脳裏に、周囲の情景が鮮明に浮かび上がった。右前方に立つ傾いた古びた墓石、左側に生い茂る濡れた茨の藪。そして、正面の大きな石碑の影に、膝を抱えて小さく震えている、あの心音の主――お鈴の輪郭が、青い光の影となって明確にマッピングされた。
影狼は竹杖を支えにし、今度は倒れることなく、泥濘の中からゆっくりと立ち上がった。全身は傷つき、熱に浮かされ、戦闘ができる状態には程遠い。だが、彼は確かに、奈落の底から這い上がったのだ。
その時、彼の「聴風」の領域に、新たなる異質な振動が侵入した。
無縁墓地の入り口、濡れた落ち葉を踏みしめる、極めて慎重な足音。それは一人分。足音を消そうとしているが、泥の吸着音までは消しきれていない。黒塔の下級刺客が、影狼の「死体」を確認するために近づいてきているのだ。
――シャリ。
闇の奥から、冷酷な金属の摩擦音が響いた。それは、鞘から引き抜かれる鋼の刃の音。死神の鎌が、何も見えぬ盲人の首を刈り取るべく、音もなく死域へと近づいてくる。
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