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雨骨の盾、真空の雨滴

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闇に響いた、冷たく乾いた金属音。それは、単なる傘が開く音ではなかった。骨組みが噛み合い、強固な防弾油紙が張り詰める、死の合図だった。


「伏せろ!」


 曲無聴は声を出さず、隣にいた鉄爪の陸の襟首を掴んで、力任せに冷たい石床へと引き倒した。その直後、二人の頭上を、凄まじい真空の風切り音が通り抜ける。金庫の前に吊り下げられていた極上のシルクの反物が、一瞬にして十数枚も真っ二つに引き裂かれ、暗闇の中に絹の雪となって舞い散った。


「へへ、やはり鼠が紛れ込んでいたか」


 闇の奥から、低く冷酷な嘲笑が響く。そこに立っていたのは、不気味な黒い和傘を手にした男――鉄山の懐刀であり、臨雨鎮に「無傘の死」の恐怖を植え付けた暗殺者、霧雨(キリサメ)だった。


 無聴の左耳は、完全な無音の深淵に沈んだままだ。右耳だけが、風に揺れるシルクの微かな摩擦音と、霧雨の呼吸音を捉えている。だが、右耳の奥でも「キィィン」と鋭い耳鳴りが響き、知覚を不快に揺さぶっていた。


 陸は床に這いつくばりながら、冷や汗を流して無聴を見上げた。無聴の神速の反応がなければ、今の一撃で自分の首は胴体から泣き別れていただろう。


「旦那……すまねえ、完全に待ち伏せされてやがった」


 陸が囁く。無聴は無言のまま、右手に握りしめた黄金色の器――「特製松脂」を懐へとねじ込んだ。これを使って古琴「寒蝉」を調律しなければ、次の演奏で自身の右耳の鼓膜も完全に破裂する。だが、敵は目の前で冷たい殺気を放ち、一歩も退く気配はない。


「曲一族の生き残りめ。その盲いた目で、この鉄骨傘を貫けると思うな」


 霧雨が不敵に笑い、手にした黒傘を静かに前方に構えた。その傘は、特殊な鋼鉄の骨組みで補強された「霧雨の鉄骨傘」だった。開けば並の刀剣を弾き返し、閉じれば鋭い突撃槍となる、攻防一体の凶器。


 無聴は背中から漆黒の古琴「寒蝉」を静かに引き抜き、膝の上に水平に構えた。彼の指先は、すでに鋼糸との摩擦で深く裂け、乾いた血がこびりついている。


(耳で聴くな、心で聴け――)


 亡き師の言葉を胸に、無聴は右耳を澄ませ、同時に皮膚の毛穴を開いて空気の「疎密波」を感じ取ろうとした。しかし、倉庫内は雨漏りの音と、シルクが擦れ合う雑音で満ちている。気の焦点を結ぶのが極めて困難な状況だった。


 ――ツィン!


 無聴が意を決して一本の弦を弾く。一直線に放たれた真空の刃「寒蝉一閃・宮音」が、暗闇を裂いて霧雨の胸元へと直進した。だが、霧雨の動きはそれよりも早かった。


「霧雨流・雨傘盾術!」


 霧雨が手首を鋭く返し、鉄骨傘を高速で回転させた。傘の表面が円状の強固な鉄壁と化し、無聴の放った鋭い剣気を真っ向から弾き返す。金属同士が激突する「ギィィン!」という不快な高音が倉庫内に反響し、無聴の右耳を物理的に圧迫した。


(くっ……!)


 衝撃波のキックバックが弦を通じて無聴の指先に逆流し、彼の指先から新たな血が噴き出す。通常の剣気では、あの回転する傘の盾を突破することはできない。それどころか、霧雨は防御と同時に、反撃の牙を剥いた。


「霧雨・千本時雨!」


 霧雨が傘を回転させながら、その骨の隙間から無数の細い毒針を扇状に放った。その針は、外の激しい雨が倉庫の屋根を叩く「バラバラ」という大きな音の瞬間に完璧に同期して放たれた。音で敵の攻撃を感知する無聴の絶対音感を逆手に取った、極めて知能的な暗殺術。


 左耳が聞こえず、右耳も耳鳴りに襲われている無聴は、毒針が空気を切り裂く微かな音を聴き取ることができなかった。だが、彼の全身の皮膚が、前方の空気が急激に押し出される「気圧の急上昇」を感知した。


「危ない!」


 無聴は咄嗟に「寒蝉」を傾け、自身の胸元を保護した。カツン、カツンとお守りの金属プレートが激しい衝撃を受け、火花が散る。しかし、彼の背後にいた陸までは庇いきれなかった。


「ぐあぁっ!」


 陸が短い悲鳴を上げて床に倒れ込んだ。彼の肩には、黒い毒針が深く突き刺さっていた。毒が瞬時に体内に回り、陸の呼吸が急速に荒くなっていく。


「陸!」


 無聴の胸の奥で、冷たい怒りの炎が燃え上がる。退路は完全に断たれた。霧雨は傘を構えたまま、一歩ずつ確実に距離を詰めてくる。


「無力だな、盲目の琴師。耳を失い、仲間も倒れ、ここでお前の復讐劇は終わりだ」


 その時だった。激しい豪雨に耐えかねたのか、倉庫の天井の古びた瓦が崩落し、大きな隙間が空いた。そこから、冷たい雨水が「ポツポツ、ザー」と激しく室内に滴り落ち始める。雨水は無聴の顔を濡らし、膝の上の古琴を濡らした。


(雨……)


 無聴の脳裏に、かつて一族の旧邸で見た、雨が庭園の池に波紋を描く情景が浮かび上がった。自然の音と同調する極意。彼は懐から「特製松脂」を取り出し、その黄金色の蓋を歯で噛み開けた。独特の松の樹脂と薬草の匂いが鼻腔を突く。


 無聴は躊躇うことなく、血に染まる指先で松脂を掬い、寒蝉の鋼鉄の弦に素早く塗りたくった。松脂が弦に馴染むと、鋼糸の微細な歪みが瞬時に収まり、筐体全体が青い静かな共振を始めた。調律は完了した。自傷ダメージを最小限に抑え、剣気の威力を最大化する、真の一族の音が今、蘇る。


「無駄な悪あがきを」


 霧雨が再び傘を高速回転させ、最後の一撃を放とうと踏み込んできた。前方からの絶対の盾。だが、無聴はすでに霧雨を見ていなかった。


 無聴は「絶対音感」を極限まで研ぎ澄まし、天井の隙間から滴り落ちる雨粒の「落下のリズム」を完璧に把握した。雨粒が一滴、また一滴と床に当たる極小の音が、彼の脳内で青い光の波紋となって立体的に広がる。


「雨蝉、解放――」


 無聴が「寒蝉」の最も太い第一弦を、魂の叫びとともに一気に解放した。


 ――トオォォン!


 倉庫内に、空気を凍らせるような澄んだ金属音が響き渡る。その瞬間、天井から滴り落ちていた無数の雨粒が、放たれた音波の振動と融合し、空中の一点に静止したかのように見えた。そして、それらは一瞬にして、極細の「真空の針」へと姿を変えた。


「なっ……!?」


 霧雨が驚愕の声を上げる。無聴が放った「雨滴弾き」は、前方から迫る直線的な攻撃ではない。天井から降り注ぐすべての雨粒が、霧雨を取り囲む全方位の刃と化していたのだ。


 霧雨は慌てて傘を頭上に掲げて回転させようとしたが、時すでに遅かった。無数の真空の雨滴は、霧雨の傘の防御が届かない「背後」と「足元」の床から激しく跳ね返り、彼の死角を完璧に貫いた。


 プツ、プツ、プツ、と肉体が切り裂かれる無数の音が暗闇の中に響く。霧雨の頑丈な鉄骨傘は支柱から真っ二つに砕け散り、彼の衣服は一瞬にして血に染まった。


 限界を超えた「雨滴弾き」を放った代償は、無聴の肉体にも冷酷に襲いかかった。彼の左耳の奥の経絡が激しく破裂し、温かい血が耳元から一気に流れ落ちる。右耳の奥でも、高音域の音が完全に遮断され、世界はさらに深い沈黙へと沈んでいった。


 しかし、無聴は琴を構えたまま、微動だにせず闇を見つめていた。彼の「心眼」は、崩れ落ちる敵の最期の気配を、確かに捉えていた。

HẾT CHƯƠNG

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