鉄爪の影、倉庫への潜入
霧隠れの湿地に立ち込める白い濁流のような霧は、黒影の操る無音の猟犬たちの血によって、仄かに赤く染まっていた。
曲無聴は、朽ち果てた漁師の廃屋の床板の上に静かに座していた。彼の左耳は、完全な無音の深淵に沈んでいる。昨夜の水底での死闘、そして限界を超えて放った「鳴蝉の絶響」の代償はあまりにも重かった。左耳の経絡は完全に焼き切れ、世界を繋ぐ窓は右耳の僅かな聴力だけとなっていた。その右耳さえも、絶え間ない金属的な耳鳴りが「キィィン」と鋭く脳髄を突き刺し、彼の精神を削り続けている。
無聴の背中には、黒い布に包まれた古琴「寒蝉」が静かに佇んでいた。だが、無聴の指先がその筐体に触れた瞬間、彼の表情が微かに強張る。琴の鋼糸が、度重なる剣気の放出による摩擦熱で極限まで摩耗し、微細な歪みを生じさせているのだ。紫音の父が遺した設計図によれば、「寒蝉」はその強靭な弦の摩擦音を極限まで抑えなければ、放たれる音律剣気が奏者自身の内力を逆流させ、経絡を内側から破壊する呪いを持っている。次に無理に弾けば、彼の残された右耳の鼓膜も物理的に完全に破裂し、即座に絶対の静寂――全聾へと至る。それは、復讐を果たす前に自らが完全な闇に落ちることを意味していた。
「……特製松脂(とくせいまつやに)」
無聴は声を出さず、唇だけでその名を呟いた。かつて曲一族の調律にも使われていた、琴の摩擦を完全に無効化し、自傷ダメージを軽減する黄金の松脂。それがあれば、「寒蝉」を再び完璧に調律し、鉄山との最終決戦に備えることができる。そしてその秘薬が、玄音楼江南分壇が支配する臨雨鎮の巨大なシルク倉庫――通称「秘密倉庫」の地下金庫に隠されていることを、無聴は瞎子から聞き出していた。
だが、そこは鉄山の懐刀である「霧雨(キリサメ)」が守る、鉄壁の要塞である。全聾寸前の無聴が単身で潜入するのは、死地へ自ら飛び込むに等しい。その時、無聴の右手のひらに、温かく滑らかな指先が触れた。紫音の指先が、素早く文字を描く。
『彼、が、来、た』
無聴の足裏が、廃屋の床板を通じて微かな「衣擦れの音」と、軽やかな足音の振動を捉えた。その足音は、風のように軽く、それでいて独特の遊び心を含んだリズムを持っていた。廃屋の崩れた壁の隙間から、黒い夜行衣を纏った細身の男が、影のように滑り込んできた。
「おいおい、こんな湿気た泥沼で心中でも企ててんのかい、曲の旦那」
不敵な笑みを浮かべて現れたのは、臨雨鎮を騒がせる義賊、鉄爪の陸(テッソウ・ノ・リク)であった。陸の腰には、特殊な隕鉄で鍛え上げられた「鋼鉄の爪」が鈍い光を放っている。陸は無聴の「寒蝉」が放つ無音の剣気に惚れ込み、玄音楼の横暴を嫌う同盟者として、今回の潜入作戦への協力を買って出たのだ。
「挨拶はいい。倉庫の鍵は開けられるか」
無聴の低い問いに、陸は自身の鉄爪を軽く鳴らして見せた。その金属音が、無聴の右耳に「チリ、チリ」と細く響く。
「俺のこの爪と針金にかかれば、鉄山が特注した真鍮のダイヤル錠だろうが、赤子の手をひねるようなもんだ。だが、旦那。倉庫の内部は、シルクの布が迷路のように吊り下げられていて、足音が妙に反響する。少しの雑音でも、見張りの奴らに気付かれるぜ」
無聴は静かに頷き、立ち上がった。彼の瞳を覆う白い布の奥で、冷徹な殺気が静かに揺らめく。紫音は無言で彼の衣服を整え、その手に「寒蝉」を握らせた。彼女の喉元の微かな震えが、骨伝導を通じて無聴の鎖骨へと伝わる。
『信、じ、て、い、る』
無聴は彼女の指先を一度だけ強く握り返し、陸とともに霧深い雨夜の臨雨鎮へと滑り出した。
深夜の臨雨鎮は、絶え間なく降り続く霧雨に煙っていた。水路沿いに建ち並ぶ黒い瓦屋根の上を、二つの影が音もなく跳んでいく。無聴は「水影の無音歩」を使い、濡れた瓦を踏む足音を内力で完全に相殺していた。彼の足裏が瓦に触れるたび、雨水は波紋すら立てずに弾け飛ぶ。陸はその俊敏な身のこなしで無聴の先導を務め、時折、背後を振り返っては無聴の気配の無さに舌を巻いていた。
(本当に耳が聞こえねえのかよ、この旦那……。風の揺らぎだけで、俺の着地の位置を完璧に追ってきやがる)
やがて、二人の目の前に、そびえ立つ漆黒の壁が現れた。玄音楼江南分壇の巨大なシルク倉庫である。周囲には、鉄骨の傘を携えた玄音楼の暗殺者たちが厳重な哨戒を行っていた。雨の日に傘を差さずに歩く者を抹殺する「無傘の死」の掟を執行する、冷酷な番人たちだ。
「聴風呼吸法」
無聴は自身の呼吸を極限まで細く、長くコントロールし、肺の伸縮音や心臓の鼓動すらも消し去った。彼の周囲から生命の振動が完全に消失し、まるで冷たい石像のようになって壁の影に佇む。陸はその隙に、倉庫の二階にある換気用の高窓へと近づいた。陸の指先に嵌められた「鉄爪」が、窓の鉄格子に触れる。
――キィ……。
常人には聞こえないほどの微細な金属の摩擦音が、無聴の右耳に届く。陸は内力を鉄爪に集中させ、鉄格子を無音で削り取っていた。数瞬の後、格子は完全に切り裂かれ、陸は無聴に向けて手招きをした。二人は影のように、倉庫の闇の中へと滑り込んだ。
倉庫の内部は、天井から吊り下げられた無数の色鮮やかなシルクの反物が、まるで巨大な迷路のように幾重にも垂れ下がっていた。窓から吹き込む雨風に揺れ、シルクが「サササ……」と不気味に擦れ合う音が、空間全体に反響している。この微細な雑音の乱反射は、無聴の破損した聴覚を狂わせる罠でもあった。
「おい、旦那。見張りの歩行リズムが聞こえるか」
陸が囁く。無聴は右耳を澄ませ、シルクの擦れる音の奥にある「足音」を捉えた。床板が微かに軋む音、衣服が擦れる音。見張りは三人。それぞれの呼吸の間隔から、武功の深さを測る。全員が二流の暗殺者だ。
無聴は陸に合図を送り、二人は「水影の無音歩」を駆使して、吊り下げられたシルクの隙間をすり抜けていった。見張りが角を曲がる瞬間、その歩行の「音の空白」に合わせて、無聴たちは影から影へと移動する。無聴の身体がシルクに触れることは一度もなかった。彼の皮膚は、シルクが揺れることで生じる「空気の気圧の僅かな変化」を完璧に感知していたのだ。
やがて、二人は倉庫の最深部、石壁で囲まれた地下金庫の前に到達した。そこは「玄音楼江南分壇の地下牢」へと繋がる重厚な真鍮の扉であった。扉の強固な錠前は、複雑な三個のダイヤルが組み合わされた、鉄山特注の防犯錠である。無理に壊せば、倉庫全体に警報の鐘が鳴り響く仕掛けになっていた。
「よし、ここからは俺の出番だ」
陸が不敵に笑い、懐から細い金属の針金を取り出した。彼は鉄爪を外し、繊細な指先でダイヤルの隙間に針金を差し込む。無聴は扉の前に立ち、右耳を真鍮の錠前にぴったりと近づけた。彼の「絶対音感」が、陸が針金を動かすたびに生じる、錠前内部の極小の「カチ、チリ」というピンの擦れ音を捉える。
(……そこだ。右に二目盛)
無聴は言葉を発せず、陸の肩を指先で軽く叩いて合図を送る。陸はその呼吸を完璧に理解し、ダイヤルを正確に回していく。内部の真鍮のピンが、正しい位置に収まるたびに、無聴の脳内に「青い光の波紋」が広がる。二人の完璧な連携により、最後のダイヤルが「カチリ」と静かに収まった。
扉が音もなく開き、内部の冷たい空気が流れ出てくる。金庫の棚の奥に、一際異彩を放つ黄金色の小さな器が安置されていた。それこそが、一族の調律の秘伝「特製松脂」であった。無聴がその器を手に取った瞬間、彼の指先に、懐かしい松の樹脂と薬草の微かな温もりが伝わってきた。
(手に入れた……これで寒蝉を……)
しかし、無聴がその安堵に浸る間もなく、彼の背中の皮膚が、急激な「気圧の圧縮」を感知した。
それは、吊り下げられたシルクの迷路の奥から、何かが猛烈な速度で風を押し出して接近してくる気配だった。空気の流れが、一瞬にして凍りつくような冷気へと変わる。
「――伏せろ!」
無聴は声を出さず、陸の襟首を掴んで強引に床へと引き倒した。その直後、二人の頭上を、凄まじい風切り音が通り抜けた。吊り下げられていたシルクの反物が、一瞬にして十数枚も真っ二つに引き裂かれ、空中に舞い散る。
暗闇の奥から響いたのは、カチリと「傘が開く不気味な金属音」であった――。
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!