骨に刻む音色、共鳴の目覚め
粘りつくような霧が、すべてを白く塗り潰していた。
臨雨鎮の騒乱から遠く離れた郊外、泥濘と葦の群生がどこまでも広がる「霧隠れの湿地」。その片隅に佇む、半ば朽ち果てた漁師の廃屋の中に、曲無聴と紫音は逃げ延びていた。
無聴は、湿った藁の敷物の上に横たわっていた。衣服は泥水を含んで重く、体温を容赦なく奪っていく。だが、彼の肉体を真に支配していたのは、凍えるような寒さではなく、頭蓋の奥に広がる、ぞっとするほどの「無」であった。
(……音が、消えた)
無聴は、自身の左側に向かって声を絞り出そうとした。しかし、喉から出たかすれた喘ぎすら、自分の耳には届かない。左耳は、完全な沈黙の深淵に沈んでいた。大洪水の中、水底で泥平の銛を防いだ代償として放った「鳴蝉の絶響」。その超高周波の音波が水圧によって頭蓋へと逆流し、彼の左耳の経絡を、そして内耳の神経を物理的に完全に焼き切ってしまったのだ。
残された右耳も、嵐のような金属鳴りが絶え間なく響き、世界の音を不気味に歪めていた。雨粒が廃屋の割れた瓦を叩く音すら、まるで鉄板を針で引っ掻くような、不快な雑音としてしか脳に届かない。盲目の彼にとって、音を失うことは、世界そのものが消滅することと同義だった。
暗闇の中で、無聴の細い指先が、傍らに置かれた「寒蝉」の筐体に触れた。だが、その指先は細かく震えていた。弦を弾こうとしても、自身の放つ音が聞こえなければ、剣気の鋭さを、その指向性をどうやって制御すればいいのか。復讐を遂げる前に、自分はただの木偶(でく)と化してしまったのではないか。深い絶望の泥が、彼の心を覆い尽くそうとしていた。
その時、凍えるような彼の右手に、微かな、しかし確かな「温もり」が重なった。
紫音の手だった。彼女の指先が無聴の冷え切った手のひらに触れ、素早く、しかし優しく滑るように文字を描き始めた。「指文字意思疎通術」だった。
『生、き、て』
手のひらに伝わる微細な圧力が、無聴の脳内で言葉を結ぶ。
『私、が、あ、な、た、の、耳、に、な、る』
無聴は、見えない瞳を包む白い布の奥で、微かに眉をひそめた。耳が聞こえぬ琴師など、ただの荷物でしかない。そう自嘲しようとした瞬間、紫音は彼の右手を引き、自身の「喉元」へと直接触れさせた。
冷たい無聴の指先が、彼女の細い首筋の皮膚に触れる。次の瞬間、指先を通じて、微かな、しかし温かい「振動」が伝わってきた。紫音は、言葉を発していたのだ。声としては無聴の耳に届かなくとも、彼女の喉の震えが、物理的な波となって彼の骨へと直接伝わってくる。
さらに紫音は、無聴の手を彼女が抱える「青竹の笛」へと導いた。彼女が笛に唇を寄せ、静かに息を吹き込む。
――トオォォ……。
右耳の奥で、歪んだ金属音の隙間を縫うように、一本の細い「震え」が走った。それは耳で聴いた音ではない。紫音の持つ笛から放たれた音波が、無聴の指の骨、手首、肘、そして鎖骨を通じて、彼の内耳へと直接伝達された「骨伝導」の振動だった。大洪水の激しい雑音にも干渉されない、極めて純粋な物理的信号。
『聴、こ、え、る、?』
紫音が再び手のひらに文字を描く。無聴は息を呑み、静かに頷いた。母のお守りが泥平の銛を弾いたあの瞬間、脳裏に一瞬だけ広がった「青い光の心象風景」。あれは偶然ではなかったのだ。耳という器官が破壊されても、全身の皮膚と骨を巨大な鼓膜として使えば、世界を再び「視る」ことができる。
「共鳴感知・初期」の、それが真の覚醒の瞬間だった。
『この、振、動、を、信、じ、て』
紫音は無聴の背後に回り込み、彼女の華奢な肩を、無聴の背中へとぴったりと押し当てた。彼女の体温と、心臓の鼓動が、衣服越しに無聴の脊椎へと直接伝わってくる。彼女自身を、無聴の「新しい耳」として完全に同調させるための、命がけの接触だった。
その時、廃屋を囲む霧の温度が、急激に低下した。
無聴の皮膚が、微かな気圧の揺らぎを感知した。それは風の悪戯ではない。何か、熱を持った肉体が、霧を押しのけて急速に接近してくる気配だった。
玄音楼の猟犬使い・黒影(コクエイ)が操る、無音の猟犬たちだった。彼らは特殊な訓練を受け、肉球に柔らかい革を巻き、呼吸すらも制御して走る。湿地帯の泥濘を駆けるその足音は、常人の耳には一切届かない。ましてや、左耳を失い、右耳も耳鳴りに引き裂かれている無聴が気づくはずがない――黒影は、そう確信して奇襲を仕掛けたのだ。
「――ッ!」
無聴は単独で「寒蝉」の弦を弾こうとした。しかし、左側の方向感覚が完全に狂っており、放たれた微かな剣気は、虚しく廃屋の朽ちた柱を削り、泥の中に吸い込まれていった。敵の位置が、全く掴めない。
その時、無聴の背中に押し当てられた紫音の身体が、深く息を吸い込んだ。彼女が青竹の笛を吹き鳴らす。
――ピィィィ……!
澄んだ笛の音波が、廃屋の内部から、霧深い湿地帯全体へと同心円状に広がっていった。それは「共鳴の調べ」。
次の瞬間、無聴の脳内に、言葉を超えた「光の映像」が爆発的に広がった。
紫音の放った笛の音波が、霧の中を無音で疾走する猟犬たちの肉体に衝突し、屈折して跳ね返ってくる。その「反響波」が、無聴の背中に触れている紫音の身体を通じて、彼の脊椎へとリアルタイムの微振動として伝達されたのだ。
無聴の脳内(心象風景)において、白く濁っていた霧の闇が、青い光の波紋によって一瞬にして薙ぎ払われた。霧の温度変化、そして猟犬たちが走ることで生じる「空気の疎密波(気圧の揺らぎ)」が、正確な位置と速度を持って、脳裏に赤く鮮やかに浮かび上がる。右から三頭、左の死角から二頭。その経絡の流れまでが、完璧に「視える」。
黒影は、無聴が全聾の木偶として牙に引き裂かれるのを確信し、霧の奥で不敵な笑みを浮かべていた。だが、その笑みが凍りつく。
無聴は静かに目を閉じたまま、古琴「寒蝉」の鋼鉄の弦に、血に染まった指先をかけた。もはや、耳で聴く必要はなかった。紫音の奏でる振動が、彼の骨に、彼の魂に、敵のすべての動きを刻み込んでいた。
二人の魂が完全に共鳴したその瞬間、無聴の指先が、無音の静寂を引き裂くように弦を弾いた――。
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