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激流の雑音、狂乱の波紋

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天地を裂くような轟音が、臨雨鎮の夜を支配していた。


 連日の豪雨は、ついに街を貫く大河の堤防を崩壊させた。「臨雨鎮の大洪水」である。濁流は牙を剥いた獣のように市街へと流れ込み、水路に挟まれた狭い路地裏「運河の裏通り」を一瞬にして泥水の奈落へと変え去った。


「ゴオオオオオ」という、すべてを圧殺する激流の重低音。それは、盲目の琴師・曲無聴にとって、世界を構築する「音」そのものを奪い去る最悪の災害だった。


(雑音が……多すぎる……!)


 無聴は泥水に膝まで浸かりながら、背中の古琴「寒蝉」を庇うように身を屈めていた。彼の左耳は、すでに前夜の死闘によって「左耳減退期」の極限にあり、高音域の音を完全に失っている。頼みの右耳も、激流が立てる猛烈なノイズと、耳の奥から生じる「熱を伴う耳鳴り」の二重の嵐によって、完全に麻痺しかけていた。呼吸音も、衣擦れの音も、敵の足音も、すべてが濁流の轟音にかき消されていく。


「曲様! 手を……私の手を握ってください!」


 右側から、紫音の悲痛な叫びが微かに届いた。無聴は手を伸ばし、彼女の濡れた袖を掴んだ。だが、その刹那、無聴の足裏が捉えていた泥の感触が、不自然に「歪んだ」。


 運河の濁流の下、光の届かぬ暗黒の水底から、一本の影が滑るように近づいていた。水中暗殺の達人、泥平である。彼は「水中調息法」によって自身の呼吸と心拍を完全に消し去り、大洪水の激流という絶対的なノイズの盾を得て、無聴の死角である左足元へと肉薄していた。


「――ッ!」


 突如、冷たく滑らかな感触が、無聴の左足首を掴んだ。泥平の「運河の裏通りでの泥平の奇襲」だった。


 凄まじい力で引きずり込まれ、無聴の身体は激流の渦巻く泥水の中へと没した。視覚を持たず、聴覚をも大洪水の雑音に封じられた無聴は、上下の感覚すら失い、底の見えない暗黒の水底へと引きずり込まれていく。鼻と口に、泥臭い冷水が容赦なく侵入し、肺が激しく悲鳴を上げた。


(水の中……音が、歪んで伝わる……)


 水中で響く音は、空気中とは全く異なっていた。水の高い密度は音速を四倍に跳ね上げ、四方八方の石壁に当たった激流の音が「ゴトゴト」「ズズズ」と不気味な重低音となって、無聴の唯一残された右耳の鼓膜を内側から破裂させんばかりに圧迫する。方向感覚は完全に崩壊していた。


 無聴はもがく泥平の気配を察し、背中から「寒蝉」を引き抜こうとした。水圧に抗いながら、鋼鉄の弦に血の滲む指先をかける。一本の弦を強引に弾いた。


――ボォン。


 しかし、水の高い粘性と抵抗は、寒蝉の放つ鋭い振動を瞬時に吸収し、拡散させてしまった。放たれたはずの「音律剣気」は、無数の泡となって水中に霧散し、泥平に届く前に消滅した。逆に、強烈なキックバックが弦を通じて無聴の指先を裂き、冷たい水の中に赤い血の帯が広がった。


「無駄だ、盲目の琴打ちめ。ここは俺の領域だ」


 泥平は水中で微かに喉を鳴らした。彼の使う「水中調息法」は、水の抵抗を完全に受け流す。泥平は蛇のようにしなやかな動きで無聴の背後に回り込み、右手に握った鉄の竹筒――猛毒の針が仕込まれた暗器を、無聴の首元へと突き立てようとした。


 肺の酸素が枯渇し、意識が遠のいていく。無聴は最後の内力を丹田から絞り出し、水中で自身の鼓膜を守るために「鳴蝉の絶響」を放とうとした。超高周波の音波で敵の脳を直接揺らし、距離を取るための捨て身の策だった。


 だが、それは最悪の失敗に終わった。


 水圧によって圧縮された超高周波は、前方に広がる代わりに、無聴自身の頭蓋へと冷酷に逆流したのだ。激しい衝撃が脳髄を直撃し、無聴は水中で激しく吐血した。血の泡が視界を覆い、右耳の奥の経絡がブツリと音を立てて千切れる感覚がした。耳鳴りすらも消え失せ、完全な「無音の闇」が無聴を包み込もうとしていた。


(ここまで、なのか……。一族の無念を晴らすこともできず、この泥水の底で……)


 泥平の冷酷な瞳が、暗闇の中で歪んだ。彼は勝利を確信し、無聴の胸元――心臓の死穴に向けて、鋭い鉄の銛を全力で突き出した。遮蔽物もなく、知覚を失った無聴に、それを避ける術は残されていないはずだった。


 カツン――!


 水底に、硬質で、しかし驚くほど澄んだ金属音が響いた。


 泥平の放った必殺の銛は、無聴の胸元に触れた瞬間、何かに物理的に遮られ、火花を散らして弾き返された。無聴の衣の奥、胸元に常に身につけられていた母の形見――「亡母のお守り」だった。


 お守りの内部に仕込まれた、かつて一族の家系図が刻まれた古い金属プレートが、泥平の銛の直撃を物理的な障壁として完璧に防ぎ止めたのだ。お守りは無聴の肌の上で、亡き母の温もりのように、微かに熱を放ち始めた。


 そして、その衝突の瞬間、奇跡が起きた。


 銛とお守りの金属板がぶつかった際の「キィン」という極微細な金属振動が、無聴の胸骨を通じて、彼の内耳へと直接伝達されたのである。空気や水を介さない、「骨伝導」による音。それは、大洪水の激しい雑音に一切干渉されることのない、極めて純粋で、鋭い「真実の信号」だった。


(……視えた!)


 骨から脳へとダイレクトに響いた振動の余韻波形は、無聴の脳内に、泥平の肉体の正確な位置、突き出された腕の角度、そして彼の体内の「気の流れ(経絡)」を、鮮やかな青い光の心象風景として描き出した。耳に頼ることを諦め、全身の骨と皮膚で振動を捉える――これこそが、彼が至るべき「共鳴感知」の最初の産声だった。


 無聴は、泥平が銛を引いて体勢を立て直す僅かな「気圧(水圧)の変化」を皮膚の毛穴で感知した。彼は「寒蝉」の筐体を両手で強く抱え込み、残された内力をすべてその筐体自体に叩き込んだ。弦を弾くのではない。琴の木箱そのものを共鳴させ、周囲の水を物理的に押し出す「波紋」を放ったのだ。


 ドン、と水中で重い衝撃波が広がり、泥平の身体を強く押し返した。泥平は驚愕し、水中で大きくバランスを崩した。無聴を仕留める絶好の機会を失い、激流の渦の中に巻き込まれていく。


 だが、無聴もまた限界だった。肺は完全に空になり、意識は暗黒の淵へと沈みかけていた。彼の身体は、決壊した運河の激しい濁流に流され、水面へと浮き上がった。


「曲様……! 曲様!」


 濁流を漂う無聴の衣服を、必死に泳いできた紫音の手が掴んだ。彼女は自身の竹笛を口に咥えたまま、無聴の身体を濁流から引き上げようと、命がけで彼の袖を握りしめていた。


 二人の身体は、臨雨鎮の支配から外れた、霧深い危険な湿地帯の激流へと流されていく。背後からは、泥平が再び水中に潜り、執拗に追跡してくる不気味な気配が、水の微かな揺らぎとして無聴の足裏に伝わっていた――。

HẾT CHƯƠNG

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