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暗闇の水路、静かなる蛇

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土砂降りの雨は、すべてを洗い流すかのように臨雨鎮を叩き続けていた。水路に囲まれたこの水郷の街は、夜の闇と同化し、どす黒い光を放つ無数の鏡のようになっていた。


 曲無聴は、背中に黒い布で包まれた古琴「寒蝉」を背負い、冷たい雨の中を音もなく疾走していた。彼のすぐ後ろを、笛吹きの少女・紫音が必死に追ってくる。彼女のまとう青い衣は雨を吸って重く濡れ、走るたびに微かな水飛沫の音を立てていた。


 無聴の左耳は、真綿を詰め込まれたかのように重く、冷たい沈黙に閉ざされていた。昨夜の剛大との死闘で放った「音律剣気」の反動は、彼の左耳の聴力を永久に奪い去り、高音域の音を完全に消し去っていた。右耳だけが、雨粒が瓦に当たる「トントン」という低く濁った響きと、紫音の乱れた呼吸音を辛うじて捉えている。左側からの気配は、まるで深い霧の彼方に消え去ったかのように曖昧だった。


「曲様……こちらです。水路の影に、盲人街へ通じる地下の泥道があります……!」


 紫音の声が右側からかすかに届く。無聴は無言で頷き、彼女の差し出す細い指先に自身の右手を重ねた。彼女の手のひらは冷たく震えていたが、その指先が伝える温もりだけが、暗闇の中で無聴を導く唯一の光だった。


 二人は、崩れかけた石壁の隙間から、泥水が逆流する狭い地下水路へと滑り込んだ。頭上を流れる運河の「ゴトゴト」という不気味な重低音が、閉ざされた空間に反響し、無聴の右耳を不快に圧迫する。こめかみの奥で、キィンと細い針で刺されたような耳鳴りが再び始まった。経絡の摩耗が、確実に彼の肉体を蝕み続けている。


 やがて、湿った泥の臭いと、腐った魚や焦げた薪の匂いが混ざり合った、特有の悪臭が漂ってきた。臨雨鎮の最下層――日の当たらない泥濘の中に築かれた貧民窟、「盲人街」であった。


 ここには、玄音楼の支配からこぼれ落ち、世間から忘れ去られた盲人や物乞いたちが、互いの体温を分け合うようにしてひっそりと暮らしている。周囲からは、言葉の代わりに、竹杖が泥を叩く「ペタ、ペタ」という静かな音や、喉を鳴らす合図の音がかすかに聞こえてくる。彼らにとって、この暗闇と沈黙こそが絶対の障壁であり、唯一の安息の地であった。


「誰だ……。その、雨水を吸いすぎた重い足音は」


 泥濘の奥から、低く、しかし驚くほど芯の通った声が響いた。無聴は立ち止まり、右耳をその声の方向へと向けた。声は無聴の左側から発せられたため、彼は身体を半身ひねり、右耳でその音波の残響を捉え直さねばならなかった。


「瞎子(カツシ)の親父殿……私だ。曲無聴だ」


 闇の中から現れたのは、汚れた灰色のボロ布をまとい、両目の潰れた痩せた老人――臨雨鎮盲人会の会頭、瞎子であった。彼は手に持った古びた竹の杖を軽く地面に突き、その微かなエコーで無聴の立ち姿を測るように首を傾げた。


「やはりお前か、無聴。それに、氷楽谷の小娘も一緒だな。だが……お前の左側の足音が妙に軽いな。いや、軽すぎる。左の踏み込みが、右の音を追うように遅れているぞ」


 瞎子の「千耳聴」の鋭さは、無聴の僅かな肉体の異変を見逃さなかった。無聴は自嘲気味に口元を歪め、自身の左耳を軽く指先で叩いた。


「……聞こえないのだ。左の耳が、昨夜から完全に死んだ」


 瞎子は沈黙した。深い、重い沈黙が、湿気た地下通路を支配する。老人は長く、ため息のような息を吐き出し、竹杖を引いて無聴の肩を軽く叩いた。


「『音は命を削る刃なり』……曲一族の創始者が遺した呪いは、本物だったというわけか。だが、お前が剛大を廃人にしたことで、鉄山の奴らは血眼になってお前を捜している。ここも長くは安全ではない。中に入りなさい」


 瞎子の案内で、二人は泥壁で作られた狭い廃屋の中へと入った。中には小さな炭取りがあり、湿った空気を微かに温めていた。紫音は無聴の傍らに座り、彼の冷え切った指先を自身の両手で包み込んだ。その必死な眼差しは、見えない無聴の瞳にも、彼女の肌の微かな震えを通じて痛いほど伝わってきた。


「瞎子の親父殿、教えてくれ。我ら曲一族が、五年前のあの夜、なぜ一瞬にして滅ぼされねばならなかったのか。玄音楼が、ただの江湖の怨恨で我が家を急襲したとは思えないのだ」


 無聴の問いに、瞎子は炭取りの炭を竹箸で静かにいじりながら、声を潜めた。その声音は、周囲の泥壁に吸い込まれるように極限まで低められていた。


「お前の一族が滅ぼされた本当の理由は、江湖の争いなどという単純なものではない。朝廷の頂点に君臨する支配者――宰相『皇啓臣(こうけいしん)』。あの男が、一族の守る禁忌の秘伝書『万音帰宗譜』を手に入れるため、玄音楼を裏で動かしたのだ」


「朝廷の、宰相……?」


 無聴の胸元で、心臓の鼓動が激しく跳ね上がった。ドクン、ドクンと、自身の血流の音が右耳の奥でうるさく響く。一族を滅ぼした真の命令者が、江湖の暗殺組織ではなく、この国の最高権力者であったという残酷な真実。復讐の標的が、想像を絶する巨大な深淵へと繋がっていることに、無聴の全身の経絡が怒りと戦慄で震えた。


「万音帰宗譜は、単なる美しい音楽の書ではない」と瞎子は続けた。「音波の振動を用いて人間の精神を完全に支配し、兵士の脳を直接破壊する、恐るべき精神支配の兵器なのだ。宰相はそれを使って、皇帝をも傀儡にし、この世を永遠の沈黙で支配しようとしている」


「では、我が一族の楽譜は、今どこにある……?」


「その『上巻』は、この臨雨鎮を支配する江南分壇主・鉄山(テツザン)が、自身のシルク倉庫の地下にある秘密金庫に厳重に保管している。鉄山自身も、その楽譜の力を使って自身の『剛鉄波功』を強化しようとしているが、曲一族の血を引かぬ奴には、楽譜の真の力を引き出すことはできん」


 瞎子の言葉は、無聴にとって決定的な道標となった。鉄山を討ち、一族の「楽譜・上巻」を取り戻す。それが、彼が最初に果たさねばならない絶対の使命。たとえ、その代償として残された右耳の聴力をすべて失うことになろうとも。


 その時であった。


 無聴の右足の裏に、床の湿った泥を通じて、極微細な「揺らぎ」が伝わってきた。それは、地下水路を流れる運河の水面が、不自然に波立つ振動だった。


(……何かが、近づいている)


 無聴は即座に「聴風呼吸法」を発動した。自身の心拍数を通常の半分以下に下げ、肺の伸縮音すら完全に消し去る。右耳を極限まで研ぎ澄まし、周囲のすべての音を脳内で解析し始める。


 雨音は「ザー」と一定のリズムで泥壁の外を叩いている。雨樋から落ちる水滴が、地面の泥に当たって「ポツ、ポツ」と静かなエコーを作っている。


 しかし、その音の秩序の中に、一箇所だけ、奇妙な「空白」があった。


 雨樋から落ちたはずの水滴の一滴が、地面に届く前に、何かに遮られて消えていたのだ。その位置は、廃屋の外を流れる泥深い運河のすぐ傍ら。そこに、音を完全に消し去った「影」が潜んでいた。


 水路の暗殺者、泥平(デイヘイ)。


 泥平は、運河の濁った泥水の中に完全に身体を沈め、呼吸用の細い竹筒だけを水面に出して、獲物の気配を窺っていた。彼の使う「水中調息法」は、肺の伸縮音や心拍の振動すらも水流の音と同化させる、不気味極まりない隠密術であった。水の中に潜む彼からは、一切の「生」の音が発せられない。


 だが、無聴の「絶対音感」は、敵が発する音ではなく、周囲の自然の音が敵の肉体によって遮られる「音の影」を正確に捉えていた。さらに、泥水から這い上がってきたであろうその「影」から、乾いた泥の匂いに混じって、水底の腐った藻の臭いが微かに風に乗って無聴の鼻腔を突いた。


(水の中だ。奴は、水流に完全に気配を溶け込ませている……)


 無聴の指先が、背中の「寒蝉」の鋼鉄の弦へとそっと伸びかけた。その殺気の微かな揺らぎを察知したのか、瞎子が素早く無聴の手首を掴み、自身の頭を横に振った。


「動くな、無聴。奴は水の中だ。不用意に剣気を放てば、水の抵抗で威力が拡散し、こちらの位置を完全に晒すことになる」


 瞎子の囁き声は、無聴の右耳に直接届いた。無聴は強張る身体を制し、弦から指を離した。しかし、額からは冷たい汗が滲み、極限まで研ぎ澄ませた神経の過負荷により、右耳の奥でキィンと激しい耳鳴りが再び鳴り響く。脳が、割れるように痛む。


 廃屋の外、泥深い路地裏の暗闇の中で、水面が微かに揺れた。


 泥平は、水面から音もなく這い上がり、その濡れた衣服から滴る水滴すらも、泥濘の地面に吸い込ませて消し去っていた。彼の右手には、猛毒の塗られた細い鉄の針が握られている。その冷酷な「殺気」が、静まり返った盲人街の路地裏に、不気味な蛇のように静かに漂い始めていた。


 無聴の裸足の足裏に、運河の水面が微かに揺れる「不自然な波紋の音」が、冷たい泥を通じて確かに届いていた――。

HẾT CHƯƠNG

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