耳に響く蝉鳴、悲劇の処方箋
剛大の鉄拳が、紫音の奏でる澄んだ笛の音によって中和された瞬間、曲無聴の指先が「寒蝉」の第一弦から解き放たれた。暗闇を切り裂いた真空の刃は、剛大の鉄のナックルを正面から粉々に打ち砕き、その背後に控えていた鉄拳門の精鋭たちの手首の経絡を一瞬にして麻痺させた。
「ぐあああっ!」
暗闇の酔雨楼に、剛大たちの悲鳴と武器が床に落ちる高い金属音が反響する。前夜を遥かに凌駕する圧倒的な敗北。剛大は、手首から先が完全に動かなくなった自身の両腕を見つめ、底知れぬ恐怖に顔を歪ませながら、配下たちに抱えられるようにして闇の中へと逃げ去っていった。
しかし、その劇的な勝利の代償は、あまりにも早く、そして過酷な形で無聴の肉体に支払われることとなった。
「――くっ、あ……!」
無聴は、胸を掻きむしるような激痛に襲われ、その場に膝を突いた。古琴「寒蝉」の筐体に縋り付くようにして身体を丸めるが、全身の経絡が、まるで灼熱の泥を流し込まれたかのように激しく脈打っている。とりわけ、彼の左耳の奥で「ぷつり」と、何かが物理的に弾けるような不気味な感触がした。
続いて襲ってきたのは、脳髄を直接針で突き刺されたかのような、凄まじい激痛と、暴虐なまでの蝉の羽音が混ざり合った耳鳴りだった。何万匹もの蝉が、彼の頭蓋の内で一斉に死に物狂いの絶叫を上げているかのような狂乱のノイズ。
無聴は本能的に左耳を手で覆った。しかし、指先を伝って手のひらに広がったのは、粘り気のある温かい液体だった。目隠しの白い布の端から、赤黒い血が、顎のラインに沿って静かに滴り落ちていく。
世界が、急速に歪み始めていた。
(音が……左側から消えていく……?)
無聴は息を呑んだ。酔雨楼の壊れた窓から吹き込む風の音、床を叩く雨のしずくの響き。それらすべての「音の世界」が、彼の左側だけ、厚い真綿を何重にも詰め込まれたかのように、低く、鈍く、こもった残響へと変わっていく。風の囁きも、雨粒の美しき輪郭も、左耳からはその微細な表情が完全に失われてしまった。それは、彼がこれまで頼りにしてきた「絶対音感」の、明らかな、そして致命的な一部の崩壊を意味していた。
「曲様……! 曲様、しっかりしてください!」
紫音の声が聞こえた。しかし、その澄んだはずの声も、無聴の左耳には、水底から響く歪んだ雑音のようにしか届かない。右耳だけで辛うじて彼女の焦燥を捉える。紫音は、崩れ落ちる無聴の細い身体をその華奢な肩で必死に支え、彼の背中に背負われた「寒蝉」を落とさぬよう抱え直した。
「今、医者のところへ連れて行きます。私の父が、かつて頼りにしていたお方です。どうか、意識を保ってください……!」
紫音は無聴の片腕を自身の首に回し、激しい雨が降りしきる臨雨鎮の夜の街へと走り出した。足元をすくう泥水、背中に感じる無聴の急速に冷たくなっていく体温。彼女は涙を堪えながら、ただ一筋の希望を求めて、暗闇の水路沿いを駆け抜けた。
たどり着いたのは、街の商店街の最も奥深く、ひっそりと佇む薬舗「慈雨堂(ジウドウ)」であった。軒先には薬草の苦い匂いが立ち込め、雨を吸った古い木造の看板が微かに揺れている。
「李薬庵(リ・ヤクアン)先生! お願いです、開けてください!」
紫音が引き戸を激しく叩くと、やがて奥から、白髪交じりの細身の老人――李薬庵が、灯火を手に怪訝な表情で現れた。しかし、紫音の背中にぐったりと凭れかかり、耳から血を流している無聴を見るなり、老医師の瞳に鋭い光が宿った。
「これは……経絡の暴走か。早く、奥の寝台へ運びなさい!」
慈雨堂の奥にある簡素な治療室。無聴が寝台に横たわると、李薬庵は即座に銀の鍼セットを取り出した。老人の手つきは驚くほど素早く、かつ正確だった。無聴のこめかみ、耳の周囲、そして丹田へと、数本の「経絡沈静鍼」が深く刺し込まれていく。
鍼が深く侵入するたびに、無聴の頭蓋を狂わせていた暴虐な蝉鳴が、少しずつ、潮が引くように静まっていく。しかし、それは一時的な鎮静にすぎなかった。
李薬庵は無聴の脈を測り、彼の左耳の奥を注意深く診察していたが、やがて深い、重い溜息を吐きながら、鍼をそっと抜いた。その表情には、医師としての無力感と、深い悲哀が滲んでいた。
「……紫音よ。この若者は、一体何者なのだ。そして、なぜこの『寒蝉』を持っている?」
「先生、彼は……」
紫音が言葉を詰まらせる。無聴は、右耳に残された僅かな知覚で、二人の会話を聴き取ろうと全神経を集中させた。李薬庵の声は、右側からははっきりと聞こえるが、左側からはまるで遠い嵐の唸りのようにしか聞こえない。
李薬庵は無聴の白い目隠しを見つめ、静かに語りかけた。
「若き琴師よ。お前に残酷な真実を告げねばならぬ。お前の左耳の聴覚神経は、内側から物理的に『焼き切れて』いる。これは病でもなければ、外傷でもない。お前自身の内力が、耳の経絡を限界を超えて破壊したのだ」
無聴の指先が、寝台のシーツを強く握りしめた。
「古琴『寒蝉』……その美しき鉄の弦から放たれる『音律剣気』は、奏者の生命力と五感を燃料として真空の刃を放つ、呪われた武学。弾くたびに、奏者の耳の経絡は摩耗し、やがて完全な沈黙へと至る。……お前の左耳の聴力は、すでに約三割が完全に失われた。そして、この失聴の進行は『不可逆』だ」
「不可逆……」
無聴の掠れた声が、沈黙の治療室に響いた。
「そうだ。如何なる名医や神薬を以てしても、一度死んだ耳の経絡を蘇らせることはできん。これ以上、その琴を弾き続ければ、お前の右耳の鼓膜も遠からず破裂し、即座に絶対の静寂――すなわち、全聾に至るだろう。それが、お前が選んだ『経絡摩耗限界点』の真実だ」
李薬庵の非情な宣告が、無聴の胸に冷たく突き刺さる。
(世界が……消えていく。音が聞こえなくなれば、私は仇敵の足音すら、復讐の旋律すら奏でられぬ、ただの抜け殻になるというのか)
無聴の心に、底知れぬ闇と恐怖が広がっていく。盲目の彼にとって、音を失うことは、物理的な死よりも残酷な拷問に等しかった。玄音楼の幹部たち、そして一族を裏切った叔父・曲向臣への復讐を果たす前に、世界から光に続いて音までもが奪われる。その絶望に、彼の細い身体が微かに震えた。
紫音は無聴の傍らに跪き、彼の血に染まった手を両手で包み込んだ。彼女の瞳から、大粒の涙が零れ落ち、無聴の手の甲を濡らす。
「私の笛で……私の『清澄の笛音』で、あなたの耳を癒すことはできないのですか、先生! 私は、彼の耳の代わりになると決めたのです!」
「紫音、お前の笛の音は彼の内力を一時的に調律することはできても、物理的に破壊された神経を繋ぎ直すことはできんのだ……」
李薬庵は首を振り、無聴を諭すように静かに言った。
「若者よ、もう刀を置きなさい。これ以上、復讐のために命と感覚を削ってはならぬ。今ならまだ、右耳の聴力は残されている。静かに暮らす道を探すのだ」
「……断る」
無聴は、李薬庵の言葉を遮るように、冷徹な声で言い放った。彼は寝台から身体を起こし、目隠しの下にある「見えない瞳」を、老医師の方向へと向けた。
「一族の無念を晴らさぬまま、静寂の中で生き延びるなど、私にとっては死よりも屈辱だ。耳が聞こえなくなるのが先か、奴らの首をすべて刈り取るのが先か……それだけの話だ」
「お前という奴は……」
李薬庵は無聴の瞳に宿る、決して消すことのできない「復讐の狂気」を見て、深い溜息を吐いた。そして、諦めたように首を振り、部屋の奥の棚から、厳重に封印された小さな木箱を取り出した。木箱を開けると、中から一丸の、青白く澄んだ光を放つ丸薬が現れた。その薬が放つ冷気が、治療室の温度を僅かに下げたかのように感じられる。
「……どうしても進むというなら、これを持っていくがいい。これは『氷心丹(ヒョウシンタン)』。私が極寒の地に咲く希少な薬草から調合した、耳神経の炎症を一時的に抑える薬だ」
無聴は右手を伸ばし、その冷たい丸薬を手のひらに受け取った。
「それを服用すれば、激しい頭痛と引き換えに、数時間だけ耳の痛みが消え、聴覚が極限まで安定する。……だが、忘れるな。これは一時的に神経を無理やり活性化させるだけの『劇薬』だ。薬効が切れた瞬間、お前の失聴のプロセスは、通常の数倍の速度で加速する。まさに、未来の聴力を前借りする、悲劇の処方箋だ」
無聴は、手のひらの上で青白く冷たく光る氷心丹をじっと見つめた。その冷気は、彼の指先から、凍てついた心臓へと直接伝わっていくようだった。
「あと何度、私はこの世界を聴くことができるのか」
無聴の呟きは、雨の音にかき消されるほど静かだった。しかし、その声に宿る覚悟は、鉄のように硬く、揺るぎなかった。彼は紫音の温かい手の温もりを右手に感じながら、その劇薬を強く握りしめた。彼の復讐の旅路は、自らの身体を灰にするカウントダウンとともに、再び動き出そうとしていた。
「あと何度、私はこの世界を聴くことができるのか」――無聴が握りしめた氷心丹が、冷たく光る。
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