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死に際の伝言、崩壊する防音壁

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剛腕が倒れた重厚な音とともに、地下牢の鉄扉がゆっくりと開き、湿った冷気と濃厚な血の匂いが曲無聴の鼻腔を突いた。左耳は完全な無音の闇。かろうじて生きている右耳の奥では、常に「ジジ……」という耳障りな金属ノイズが弾けている。日常のあらゆる音が水底から響くように低く、ひどく濁った世界の中で、無聴は白い目隠しの奥の感覚を極限まで研ぎ澄ましていた。


「チャリ……」


奥の闇から響いたのは、細い鎖が擦れ合う鈍い音。そして、今にも消え入りそうな、浅く不規則な人間の呼吸音だった。無聴の足裏が濡れたレンガの床を踏みしめるたび、吸音石の微粉末が刷り込まれた灰色の長衣が微かに湿った摩擦音を立てる。雨水に濡れたことで、お千代が施した無音の加護は衰えつつあった。


背後にぴったりと寄り添う紫音の、痛みに耐える熱い息遣いが無聴の脊椎へと直接伝わってくる。彼女の右肩の傷から流れる血が、無聴の長衣の背を温かく濡らしていた。紫音は微かに裂けた唇に青竹の笛を寄せ、静かに息を吹き込む。


――トオォォ……。


歌口に走った微細な亀裂のせいで、その音はかすれ、掠れた振動となって無聴の鎖骨を揺らした。だが、その不完全な共鳴感知こそが、無聴に暗闇の奥の光景を青い波紋として描き出す。壁に鎖で吊るされた、痩せ細った老人の姿が脳内に浮かび上がった。


「瞎子(カツシ)の親父殿……!」


無聴は「水影の無音歩」を使い、音もなく駆け寄った。瞎子は両腕を太い鉄鎖で縛られ、無残に吊るされていた。老人の衣服は引き裂かれ、むき出しになった皮膚は赤黒い鞭の跡で覆われている。何より無聴の胸を締め付けたのは、瞎子の両耳の穴から流れ落ち、顎のラインで黒く固まった乾いた血の塊だった。鉄山の暴虐な音波拷問により、彼の鼓膜は物理的に完全に破壊されていたのだ。


無聴は「寒蝉」の最も細い弦に血に染まった指先をかけ、爪の先で音もなく弾いた。極細の真空剣気「経絡穿ち」が、瞎子を拘束していた二本の鉄鎖の繋ぎ目を正確に切り裂く。自重を支えきれなくなった老人の身体が崩れ落ちるのを、無聴は両腕でしっかりと受け止めた。


「無……聴、か……?」


瞎子の声は、喉が潰れて掠れ、今にも消えそうだった。両目を失い、両耳の鼓膜までも破られた老人は、世界から完全に隔絶された暗黒の中で、ただ無聴の衣の匂いと、身体を支える手の温もりだけで友の存在を察知していた。


無聴は瞎子の胸元に右耳を押し当てた。「ドクン……ドクン……」と響く心音は、極めて遅く、そして不規則だった。命の灯火が、今まさに消えかけようとしている。無聴の心の中に、冷たい泥のような悲しみと、それを焼き尽くすほどの漆黒の怒りが同時に湧き上がった。


瞎子は最後の力を振り絞り、骨のように痩せた右手を伸ばした。そして、無聴の右手を強く握りしめると、その手のひらに自身の指先を押し当てた。言葉を失い、音を失った盲人同士の、手のひらを通じた魂の対話。


瞎子の震える指先が、無聴の手のひらにゆっくりと一文字をなぞる。


『風』


一画一画が、無聴の皮膚に深く刻み込まれていく。瞎子は掠れた声を振り絞り、無聴の右耳にその唇を近づけた。


「音が……聞こえなくなったら、風が吹く方向へ走れ。風は……嘘を、つかない……」


それが、瞎子がこの世界に残した最期の言葉だった。無聴の手を握りしめていた老人の指先から、ふっと力が抜けた。手のひらに残された指先が床へと滑り落ち、胸元から聞こえていた微かな鼓動が、完全に停止した。


「親父殿……」


無聴は声を失った。左耳の静寂が、今や右耳をも完全に支配したかのような錯覚に陥る。友は、自身の居場所を最後まで吐かぬまま、その耳を潰され、命を奪われたのだ。無聴の白い目隠しの奥から、静かに一筋の涙が流れ落ち、瞎子の冷たくなっていく頬を濡らした。彼の心の中で、復讐の炎が、あらゆる感情を凍りつかせる「冷徹な静寂」へと昇華していく。


「ハーハハハ! 実に美しい友誼だな、盲目のネズミどもめ!」


突如として、地下牢の奥の闇から、鼓膜を直接引き裂くような大音響の笑い声が響き渡った。無聴の右耳の奥で、金属ノイズ「ジジ……」が爆発的に跳ね上がり、激しい頭痛が無聴の脳髄を襲う。


闇の中から現れたのは、巨大な体躯に、両腕に嵌めた重厚なブロンズの腕輪を鈍く光らせた男――江南分壇主「鉄山(テツザン)」だった。彼は傲慢な眼光で見下ろし、鼻で笑った。


「その薄汚い物乞いは、最後まで貴様の潜伏先を吐かなかった。だが、無駄なことだ。こうして自ら地獄の底へと歩み寄ってきたのだからな」


鉄山は両腕を軽く回し、剛鉄の腕輪同士を打ち合わせた。「ギィン!」という鋭い高周波が防音壁に囲まれた地下牢の中で乱反射し、無聴の右耳を物理的に圧迫する。日常の音が完全に歪み、鉄山の声すらも嵐の奥から聞こえるように遠ざかっていく。


「知っているか、曲無聴。この地下牢はな、かつて一族の裏切り者どもが重用した人形師・傀儡翁(クグツオウ)が設計したのだ。奴は防音壁の裏に、特定の振動によって建物全体が共振し、自壊する構造的欠陥を仕込みおった。分壇の秘密を守るための自爆装置だな。貴様ら二人、この暗闇の底で瞎子とともに生き埋めにしてやろう!」


鉄山が獰猛な笑みを浮かべ、両腕を大きく広げた。彼の丹田から、暴虐な内力が両腕の「剛鉄腕輪」へと一気に流れ込んでいくのが、無聴の皮膚に伝わる熱量の急激な上昇で察知できた。


(来る……!)


無聴は瞬時に瞎子の遺体を紫音の腕へと託し、手のひらに『走(走れ)』と素早く書き込んだ。紫音は涙を浮かべながらも、瞎子の遺体を抱え、崩れかけた壁の影へと退避する。


「死ねい! 『震天咆哮(しんてんほうこう)』!」


鉄山が両腕の剛鉄腕輪を、全力で激しく打ち合わせた。


――キィィィィィィン!!!――


地下牢の防音壁が、一瞬にして凄まじい金属音の嵐に包まれた。それは単なる音ではない。空気そのものを物理的に爆発させる、目に見える赤い音波の衝撃波。その衝撃波が、傀儡翁が設計した地下牢の「共振柱」を直撃した。


「ミシ……ミシ、メキメキメキ!」


叫び声すら漏らさないはずの頑丈な防音石壁に、一瞬にして無数の蜘蛛の巣状の亀裂が走り始めた。天井のレンガが自重を支えきれなくなり、巨大な岩石となって無聴たちの頭上へと落下し始める。地下牢全体が、巨大な生き物のように激しく震え、崩壊を開始したのだ。


無聴は「寒蝉」を構え、鉄山に向けて突撃しようとした。しかし、瞎子の死による精神的な動揺から、体内の内力が一瞬だけ乱れた。 plucking(弦を弾く)指先が僅かにブレ、放たれた剣気は落下する巨大な岩石に当たって虚しく弾け散った。迫り来る崩落の質量に押され、無聴は一歩後退を余儀なくされる。


「ハハハ! 逃げ惑うが良い、暗闇の底でな!」


鉄山は崩落する天井を見上げながら不敵に笑い、奥の頑丈な隔壁の向こうへと身を引いていく。無聴たちの目の前で、巨大な岩石が次々と落下し、地下牢の入り口と退路を完全に塞いでしまった。背後も、前方ものしかかる瓦礫によって完全に遮断され、逃げ場のない密閉された地獄が完成しつつあった。


(退路は断たれた。音が……完全に消えていく。瓦礫が崩れる音すら、右耳にはもう届かない)


無聴の右耳の奥で、鼓膜が物理的に悲鳴を上げ、世界は急速に「完全な沈黙」へと向かっていた。頭上から迫る、何十トンもの岩石の質量。避けるべき方向すら、耳ではもう感知できない。


その極限の死線の中で、無聴の脳裏に、瞎子の最期の伝言が鮮烈に蘇った。


『音が聞こえなくなったら、風が吹く方向へ走れ。風は嘘をつかない』


(風を……肌で聴くのだ)


無聴は耳を澄ますことを完全に諦め、全身の皮膚の毛穴を巨大な鼓膜として機能させた。衣服をはためかせる熱風、そして、落下する巨大な岩石が空気を押し出すことで生じる「落下の風圧」を、肌の触覚だけで感知する。


「フッ……」


無聴の身体が、物理法則を無視したかのような最小限の動きで、右へ一寸、左へ二寸と傾いた。彼の鼻先や肩を、落下する巨大な岩石がかすめて床に激突していく。目も見えず、耳も聞こえない盲目の琴師が、空気の揺らぎ(気流)だけで、すべての瓦礫を完璧に回避していた。


さらに、無聴の皮膚は、崩落する瓦礫の隙間から、奥へと向かって不自然に「吸い込まれていく微かな空気の流れ」を捉えた。天井が崩れることで、内部の空気が一方向へと押し出されている。その気流の逃げ道こそが、鉄山が退避した安全な戦闘空間――「鉄山の練武場」へと繋がっているのだ。


「紫音、私の背中に!」


無聴は言葉を発せずとも、紫音の気配を気流で察知し、彼女の細い手首を掴んで自身の背中へと引き寄せた。紫音はかすれた笛を胸に抱き、無聴の背中にぴったりと身を伏せる。


無聴は「水影の無音歩」を極限まで使い、崩落する岩石の隙間を縫うようにして、気流が吸い込まれていく奥の闇へと、弾丸のように突入した。


背後で、彼らが先ほどまで立っていた地下牢が、完全に轟音(無聴にとっては無音の衝撃)とともに崩壊し、数千トンの瓦礫の下へと埋もれていく。


暗い通路を駆け抜けた先、視界が不自然に開け、空気の対流が「円形」に渦巻く広い空間へと到達した。そこは、ブロンズの反射板が幾重にも並ぶ、鉄山自身が設計した専用の「鉄山の練武場」だった。


待ち受けていた鉄山が、無聴たちが五体満足で這い上がってきたことに驚愕し、その顔を激しい怒りで歪めた。


「しぶといネズミめ。だが、ここが貴様らの墓場となることに変わりはない!」


鉄山が両腕の剛鉄腕輪を激しく打ち合わせた。凄まじい衝撃波が、練武場のブロンズ壁に反射して乱鳴し、地下牢の石壁にさらなる深い亀裂が走り始める――。

HẾT CHƯƠNG

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