鋼鉄の巨壁、鎧の継ぎ目
玄音楼江南分壇の地下牢。湿った冷気と、血の匂いが混ざり合う暗闇の奥で、曲無聴の右耳は不快な「ジジ……」という金属的な雑音を拾い続けていた。左耳は、すでに完璧な沈黙の闇に閉ざされている。かろうじて生きている右耳に届く音も、水底から響くように低く、そしてひどく濁っていた。
「無聴様……」
背後に寄り添う紫音の、僅かに震える呼吸が、無聴の鎖骨を通じて脳へと伝わる。金角の双剣が放った破片を肩に受け、彼女の青い振袖は赤く染まっていた。彼女が握りしめる青竹の笛――その歌口の付近には、先ほどの極限の共振によって生じた、肉眼では見えないほど微細な亀裂が「ピキリ」と走っている。笛を構える彼女の指先が、微かに震えていた。彼女の痛みと、笛の限界が、無聴の胸に冷たい焦燥を呼び起こす。
だが、立ち止まることは許されない。退路はすでに骸衆の警備兵たちによって塞がれつつある。無聴が足裏に意識を集中すると、濡れたレンガの床から、地響きのような鈍い振動が伝わってきた。
「ギチ……ギチ、ギチ……」
重厚な鋼鉄同士が擦れ合う、不気味な金属摩擦音。それは、叫び声すら外部に漏らさない防音壁に囲まれた地下牢の、最深部へと続く巨大な石扉の前から響いていた。
暗闇の霧を切り裂くようにして現れたのは、身長二メートルを超える鋼鉄の巨人――鉄山の身辺警護を務める「剛腕(ゴウワン)」であった。頭の先からつま先まで、分厚い黒鉄の甲冑で完全に身を包み、その手に抱えた塔のような巨大な鋼鉄の盾が、床の泥水を重く跳ね上げる。
「金角と銀角を屠ったと聞いてみれば、ただの満身創痍の盲人と小娘か。鉄山様を煩わせるまでもない。ここで、その薄汚れた琴ごと踏み潰してくれよう」
剛腕の声は、甲冑の奥で反響し、重く濁った唸りとなって響いた。無聴には、その言葉の半分も聞き取れなかった。しかし、相手が放つ圧倒的な「殺気」と、巨大な盾が前方の空気を物理的に押し出す「気圧の急上昇」を、皮膚の毛穴が敏感に捉えていた。
紫音は無言で無聴の背中にその華奢な身体をぴったりと押し当てた。彼女の体温と、痛みに耐える激しい心拍が、脊椎を通じて無聴の肉体へと直接伝わってくる。彼女は微かに裂けた唇に笛を寄せ、息を吹き込んだ。
――トオォォォン……。
歌口の亀裂のせいで、その笛の音は以前よりも僅かにかすれ、かすかな掠れを帯びていた。だが、その骨伝導の振動は、無聴の脳内に「青い光の同心円」を描き出す。無聴の「絶対音感・経絡視」が起動した。暗闇の視界の中で、立ち塞がる剛腕の巨大な質量が、巨大な赤い障壁として浮かび上がる。
「フンッ!」
剛腕が地響きを立てて突撃してきた。巨大な盾を前面に押し出し、その圧倒的な質量を以て、無聴たちを壁ごと圧殺せんとする猛進。突進に伴う猛烈な風圧が、無聴の衣服を激しくはためかせる。
無聴は「寒蝉」の鋼糸に血の滲む指先をかけた。特製松脂が塗布された弦は摩擦を失い、青く澄んだ光を放っている。彼は内力を第一弦に集中させ、鋭く弾いた。
――寒蝉一閃・「宮(きゅう)」!――
一直線に放たれた真空の刃が、猛進する剛腕の胸元を直撃した。しかし、次の瞬間、地下牢に「ギィィィン!」という耳を劈くような激しい金属衝突音が響き渡った。無聴の放った鋭い剣気は、剛腕の極厚の鋼鉄甲冑に傷一つつけられず、火花を散らして虚しく弾け去ったのだ。
「ぬるいわ!」
衝撃波の強烈なキックバックが弦を通じて無聴の指先に逆流し、彼の脳髄を激しく揺さぶる。右耳の奥で「ジジ……」というノイズが一段と高くなり、無聴は一瞬、平衡感覚を失いかけてよろめいた。
剛腕の突進は止まらない。彼は巨大な盾を振り上げ、無聴の脳天に向けて叩きつけようとした。この狭い通路で直撃を受ければ、肉体ごと粉砕されるのは確実だった。
(通常の剣気では、あの甲冑を貫くことはできん。正面突破は自滅を招くだけだ。ならば……)
無聴は瞬時に判断した。彼は「水影の無音歩」を発動し、足裏の内力で濡れた床との摩擦音を完全に相殺しながら、滑るように右側へと移動した。剛腕の振り下ろした巨大な盾が、無聴が先ほどまでいた石床を直撃し、「ドゴォォン!」と凄まじい地響きを立ててレンガを粉々に粉砕した。
「ハハハ! 逃げ回るだけか、ネズミめ!」
剛腕は巨大な鉄拳を振り上げ、今度は横薙ぎに拳を振るってきた。拳が空気を引き裂く凄まじい風圧が、無聴の右肩をかすめる。鋭い風圧によって、無聴の長衣の袖が裂け、右肩の皮膚から血が滲み出た。内力が激しく消費され、彼の身体を疲労の重みが支配する。
だが、無聴の心は恐ろしいほど冷徹だった。彼は、剛腕が動くたびに発せられる「甲冑の軋み音」に、残された右耳の全神経を集中させていた。
「ギチ……シャリ、ギチ……」
濁った大音響の裏側で響く、鋼鉄と鋼鉄が擦れ合う僅かな摩擦音。無聴の「絶対音感・経絡視」は、その摩擦音の「反射と漏れ」を、心象風景の中で解析し始めていた。どれほど極厚の甲冑であっても、人間が関節を動かして動く以上、物理的な「隙間」が必ず存在する。音が内部から漏れ出ている場所――そこが、鎧の継ぎ目だ。
(脇の下に二ミリ、首元の喉輪の隙間に一ミリ……気の流れが、そこで僅かに露出している)
剛腕の体内の経絡は、甲冑の防壁に守られているが、関節が大きく動く瞬間、その「死穴」が僅かに外気と繋がる。無聴の脳内に、赤い巨大な鎧の影の中に、二箇所の小さな、輝く「青い点」が浮かび上がった。
「これで、潰してやる!」
剛腕が再び巨大な盾を構え、地響きを立てて二度目の突進を仕掛けてきた。今度は逃げ場をなくすため、盾を斜めに構え、通路の壁を削りながらの突撃。逃げ道は完全に塞がれたように見えた。
紫音の背中からの呼吸が、一瞬、恐怖で強張るのが伝わってきた。だが、彼女は笛を吹き続けた。そのかすれた音波が、無聴に「敵の突進の正確な気圧変化」を伝え続ける。
(耳で聴くな、心で聴け……。気の隙間を射抜く)
無聴は「寒蝉」の極細の弦に、裂けた指先をそっとかけた。彼の心は、絶対の静寂の中にあった。剛腕の突進が、彼の鼻先にまで迫る。
――今だ。――
無聴は「水影の無音歩」を極限まで使い、滑り込むようにして、剛腕の構える巨大な盾の「下」をすり抜けた。盾の底が、無聴の目隠しの布をかすめていく。完全な無音の移動に、剛腕の反応が一瞬だけ遅れた。
突進をすれすれで回避した瞬間、剛腕の右腕が、盾を支えるために大きく跳ね上がった。その瞬間、彼の右脇の下の甲冑の継ぎ目が、僅かに開いた。
無聴は身を翻しながら、「寒蝉」の最も細い弦を、爪の先で正確無比に弾いた。
――寒蝉・「経絡穿ち(けいらくうがち)」――
空気を引き裂く音は一切しなかった。放たれたのは、針のように極細に圧縮された、無音の真空剣気。それは、剛腕の脇の下の僅か二ミリの甲冑の「継ぎ目」を完璧にすり抜け、体内の経絡の深部へと侵入した。
「……がはっ!?」
剛腕の突進が、唐突に停止した。巨大な盾が、彼の開いた手からすり落ち、床に重い金属音を立てて転がった。
剛腕は全身の動きを止め、その場に棒立ちになった。甲冑の表面には、傷一つついていない。しかし、彼の体内に侵入した極細の剣気は、彼の武功の根源である経絡の「死穴」を直接撃ち抜き、体内で爆発させていた。気の流れを完全に断たれた巨躯が、不自然に小刻みに震え始める。
「ば、馬鹿な……。俺の甲冑を、どうやって……」
剛腕の言葉は、口元から溢れ出た大量の血とともに、ゴボリと音を立てて途切れた。身長二メートルを超える鋼鉄の巨躯が、糸の切れた人形のように、濡れたレンガの床へと崩れ落ちた。
――ズゥゥゥン!!!――
重厚な鋼鉄の鎧が床に激突する、凄まじい大音響が地下牢に響き渡り、やがて、完全な静寂が戻った。剛腕はピクリとも動かない。外傷は一切ないが、その体内の経絡は完全に破壊されていた。
無聴は「寒蝉」を静かに抱え直した。彼の指先からは、ぽたぽたと新たな血が滴り落ち、床の泥水を赤く染めている。彼の内力は限界に近づき、右耳の奥の「ジジ……」というノイズは、今や彼の頭蓋を直接締め付けるような激しい頭痛へと変わっていた。日常の音は、さらに遠く、歪んだ沈黙の向こうへと去りつつある。
だが、無聴は歩みを止めなかった。崩れ落ちた剛腕の背後で、最深部を遮っていた巨大な石扉が、自重を支えきれなくなったかのように、ゆっくりと、不気味な軋み音を立てて開き始めた。
「ギギギギ……」
石扉が完全に開いたその時、無聴の残された右耳の、歪んだノイズの隙間を縫うようにして、奥の闇から微かな、ひどく不規則な「音」が届いた。
それは、鎖が擦れ合う「チャリ……」という鈍い響きと、今にも消え入りそうな、浅く苦しげな「人間の呼吸音」だった。
(この気配は……)
無聴の白い目隠しの奥で、凍てついた瞳が僅かに揺れた。その浅い呼吸の主が誰であるかを、彼の絶対音感は、完璧に記憶していた。
瞎子(カツシ)が、そこにいる。――
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