沈黙の弾圧、牙を剥く狼
「ゴォォォン……、ゴォォォン……」
地を這うような重低音が、百花楼の地下隠し部屋の分厚い石壁を物理的に震わせ、湿った空気を激しく波立たせた。五度。臨雨鎮の役所が非常事態を告げるための、官衙の巨大な鐘の音だ。それは表通りの妖艶な喧騒を一瞬にして掻き消し、不気味な静寂を街に落とし込んでいく。
曲無聴の左耳は、冷徹な虚無が支配する完全な沈黙のままであった。右耳の奥では、まるで錆びた針で鼓膜を引っ掻くような「ジジ……、ジジジ……」という金属ノイズが激しく弾け、鐘の音を歪んだ怪物の咆哮のように変調させていた。日常の音が、また少し遠ざかっていく。無聴の瞳を覆う白い目隠しの奥で、微かに眉がひそめられた。
サキが扉の隙間から外の気配を窺い、青ざめた顔で振り返る。
「五声の鐘……。代官所の捕頭どもが玄音楼の骸衆と合流したわ。花街の入り口が封鎖され始めている。曲様、彼らの狙いは――」
その時、地下室の木扉が、一族の暗号とは異なる、不規則で焦燥に満ちたリズムで叩かれた。独孤九が静かに、しかし神速の動作で錆びた鉄剣の柄に手をかける。サキが短刀を懐に忍ばせ、警戒しながら扉を僅かに開けた。
「サキ姉ちゃん! 瞎子(カツシ)の親父殿が……!」
転がり込んできたのは、全身泥まみれになり、息を切らせて激しく咳き込む物乞いの少年、チビだった。その小さな顔は泥と涙、そして殴られたような青い痣で無惨に腫れ上がっている。紫音がすぐに駆け寄り、震えるチビの身体を抱きとめた。
無聴は無言のまま、お千代に修繕されたばかりの灰色の長衣を揺らし、チビの正面へと歩み寄った。衣服に刷り込まれた「吸音石の微粉末」が、彼の移動に伴う衣擦れの音を完全に消し去っている。無聴は床に膝を突き、チビの濡れた肩にそっと手を置いた。その手のひらに伝わる激しい鼓動と震えが、少年の恐怖の深さを何よりも雄弁に物語っていた。
「チビ、落ち着きなさい。何があったの?」
紫音がチビの顔を拭いながら、喉を震わせて尋ねる。その振動が無聴の骨を通じて、微かな状況の輪郭を伝える。
チビはしゃくり上げながら、言葉を絞り出した。
「鉄山(テツザン)の野郎が……骸衆を引き連れて、盲人街に乗り込んできたんだ! 盲目の琴打ちの居場所を吐けって、動けない婆ちゃんや子供たちを片っ端から引きずり出して、棒で殴りつけて……! 誰も喋らないのを見て、鉄山は笑いながら盲人街の小屋に火を放ったんだ!」
無聴の胸の奥で、氷のように冷たい怒りが、静かに、しかし狂暴に燃え上がり始めた。指先が「寒蝉」の袋を握りしめ、包帯から滲み出た微かな血が漆黒の布を濡らす。
「瞎子の親父殿は……親父殿は、俺たちの隠れ家を絶対に吐かなかった。鉄山の目の前に立ちはだかって、『目が見えぬ者に、光を追う足音など聞こえぬわ』って笑い飛ばしたんだ。そしたら、鉄山が両腕の剛鉄の腕輪を打ち鳴らして……凄まじい音波で、親父殿の耳の穴から血が吹き出すまで殴り倒したんだ! 親父殿は、そのまま江南分壇の地下牢へ引きずり込まれていった……! 無聴の兄ちゃん、お願いだ、親父殿を助けてくれ!」
少年の悲痛な叫びが、地下室の湿った空気を引き裂く。無聴の右耳の中で、ノイズが「キィィン」と高い悲鳴に変わった。瞎子。同じ暗闇の中で生き、街の足音を聞き分けて自分を支えてくれた無二の友。彼が、自分のために耳を潰され、地獄の底へと囚われたのだ。
無聴が「寒蝉」を背負い、立ち上がろうとしたその時、部屋の隅から老いた影が静かに歩み寄ってきた。薬草の匂いを漂わせた老人――李薬庵が、無聴の細い手首を掴んだのだ。老医師の指先が、無聴の脈を厳しく、しかし深く案じるように探る。
「曲殿、動いてはならぬ。今のそなたの脈は、引き裂かれる寸前の琴の弦と同じだ。骸鬼との死闘、そして水中の逆流で、そなたの『経絡摩耗限界点』はとっくに限界を超えている」
李薬庵の声は、重く、非情な宣告となって無聴の右耳に響いた。
「これ以上の戦闘は、そなたの残された右耳の鼓膜をも物理的に完全に破壊する。音律剣気をもう一度でも放てば、そなたの脳髄はキックバックに耐えきれず、即座に『絶対の静寂』――全聾へと至るだろう。二度と、紫音の笛の音も、この世界のいかなる音色も聴くことはできなくなるのだぞ。それでも行くというのか!」
「李先生……」
紫音が息を呑み、無聴の袖を強く掴んだ。彼女の瞳には、引き裂かれるような悲哀と恐怖が浮かんでいた。無聴が完全に音を失うこと。それは、二人の魂の共鳴が、物理的な繋がりを永久に失うことを意味していた。
紫音は無聴の手のひらを開くと、震える指先で素早く文字を書き殴った。
『お、ね、が、い。行、か、な、い、で。私、が、代、わ、り、に』
無聴は、手のひらに伝わる彼女の指先の温もりと、微かな涙の滴を感じていた。しかし、彼の白い目隠しの奥にある、見えない瞳は、すでに冷徹な修羅の光を宿していた。
無聴は静かに、しかし拒絶の余地を一切残さない力強さで、紫音の手のひらに指先を走らせた。
『私のために、友が血を流している。この耳など、最初から惜しくはない』
一族を滅ぼされ、感覚を奪われ、沈黙の世界へと追いやられていく運命。だが、その沈黙を恐れるあまりに、義理を捨て、友の犠牲の上に自身の五感を守るというのなら、己が奏でる音楽はただの「欺瞞の音」に成り下がる。そんな耳など、曲無聴には不要だった。
無聴は背中の「壊れた太鼓の皮の琴袋」の紐を、強く、限界まで引き絞って結び直した。調律を終えた「寒蝉」が、彼の背中で静かに青い共振光を放ち、戦いの時を待っている。懐の「特製松脂」の香りが、微かに彼の鼻腔をくすぐった。
独孤九が錆びた鉄剣を肩に担ぎ、不敵な笑みを浮かべる。
「へっ、いい面構えだ。耳を失うのを恐れて引き籠もる琴師なんぞ、俺も相棒とは呼びたくねえからな。サキ、奴の地下牢の隠しルートを吐き出しな。俺が表門で大暴れして、役人どもの目を引きつけてやる」
サキは覚悟を決めたように頷き、懐から一枚の古い絹布を取り出した。
「鉄山のシルク倉庫の地下牢へ繋がる隠し通路は、裏庭の『第三の染料桶』の底にあります。そこから潜入すれば、警備の薄い水路の真上に出られる。曲様、どうか、瞎子の親父殿を……!」
無聴は無言で頷き、お千代が仕上げてくれた灰色の吸音長衣のフードを深く被った。泥平の銛を防いで変形した胸元の「亡母のお守り」が、衣服の奥で冷たく皮膚に触れる。そして懐には、最後の劇薬「氷心丹」が、青白い冷気を放ちながら静かに眠っていた。右耳が完全に潰れるその瞬間のための、命の前借りの薬だ。
無聴が雨夜の闇へと一歩を踏み出そうとしたその瞬間、紫音が彼の前に立ち塞がった。彼女はもう、彼を止めるような文字は書かなかった。ただ、青竹の笛を強く握りしめ、無聴の手のひらに力強く、一文字ずつ刻み込んだ。
『私、も、い、く。あ、な、た、の、耳、に、な、る』
無聴は、彼女の指先から伝わる揺るぎない覚悟を受け止めた。全聾へと向かう自分を、最後まで見捨てず、暗闇の先まで共鳴し続けるという少女の誓い。無聴は静かに頷き、彼女の小さな手を一度だけ強く握り返した。
外では、江南の冷たい激しい雨が、百花楼の瓦屋根を無慈悲に叩き続けている。無聴が「寒蝉」を背負い立ち上がった時、紫音が静かに彼の右手を握りしめる――。漆黒の雨夜の向こう、牙を剥く狼の巣窟へと、二人の無音の潜入行が、今、始まった。
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