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放浪の義剣、花街の隠れ処

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「ジジ……、ジジジ……」


右耳の奥を這う不快な金属ノイズは、豪雨の音さえも不自然に歪めていた。そして左耳は、冷徹な虚無が支配する完全な沈黙。どれほど雨脚が地を叩こうとも、左側からは何の音も届かない。世界は半分、死んでいた。


聴雨軒(ちょううけん)が燃え尽きた泥濘の山道。無聴(むちょう)の喉元に突き出された一本の錆びた鉄剣は、雨粒を弾いて鈍く光っていた。音はしない。しかし、押し出される「空気の気流」が、無聴の剥き出しの皮膚に冷たい殺気となって突き刺さる。


「……何者だ」


無聴は古琴「寒蝉(かんせん)」を抱えたまま、微動だにせず、かすれた声で呟いた。彼の瞳を覆う白い目隠しは、雨と泥に濡れて重く垂れ下がっている。隣に立つ紫音(シオン)が息を呑み、無聴の袖を強く引く気配が、湿った衣擦れの振動となって伝わってきた。


闇の奥から、低く、しかし野太い笑い声が響いた。それは無聴の右側、僅かに残された聴覚の領域から聞こえてきた。


「へっ、さすがは玄音楼(げんおんろう)を震撼させる盲目の琴師だ。この大雨のなか、俺の『無音の突き』を肌だけで感じ取るとはな。だが、その身体でどこまで保つ?」


声の主は、乱れた長髪に無精髭を蓄え、破れた黒衣を無造作に羽織った男――放浪の剣客、独孤九(ドッコ・キュウ)であった。彼の腰には大きな酒瓶が揺れており、その中身が揺れる「タプ、タプ」という重い音が、無聴の右耳に届く。


独孤九は挨拶代わりに、錆びた鉄剣を不意に突き出した。風を斬る鋭い一撃が、無聴の喉元へと直進する。


無聴は「聴風呼吸法(ちょうふこきゅうほう)」を発動し、自身の肺の伸縮音すら消し去って、気流の変化に集中した。避ける時間はない。無聴は「寒蝉」の筐体を盾のように傾け、迫る剣先を物理的に迎え撃った。


――キィン!


錆びた鉄刃が寒蝉の漆黒の桐木に激突した。激しい衝撃波が、琴の筐体を通じて無聴の両腕の骨へと伝わる。その瞬間、骨伝導の振動が無聴の脳内に「青い光の軌道」を鮮やかに描き出した。剣の正確な長さ、角度、そして男の体軸の位置が、心象風景として浮かび上がる。


「ほう、琴を盾にするか!」


独孤九は不敵に笑うと、瞬時に「九天独歩剣(きゅうてんどっぽけん)」の変幻自在な歩法を使い、無聴の死角――完全に耳の聞こえない左側へと回り込んだ。風を斬る音は一切しない。常人であれば、背後からの奇襲に首を刎ねられていただろう。


しかし、無聴の足裏は、泥が踏まれる「湿った音の僅かな変化」を捉えていた。男の衣服が風に擦れる微かな摩擦音が、右耳の奥のノイズを切り裂く。


(左、三歩……!)


無聴は半身をひねり、指先を鋼糸にかけた。内力を込めて一本の弦を弾き、独孤九の剣先をミリ単位で弾き返そうとする。


――ベン……。


だが、弾かれたのは鈍く歪んだ不協和音だった。骸鬼との死闘で指先が火傷で固まっており、鋼糸を正確に引き絞ることができなかったのだ。内力が不完全に逆流し、右耳の奥に激しい疼きと一時的な耳鳴り(キ鳴り)が発生する。無聴の身体が微かに揺らいだ。


「そこまでだ、琴師」


独孤九はそれ以上追撃せず、錆びた鉄剣を鞘へと収めた。金属が擦れ合う「シャリィン」という音が、雨音の中に溶けていく。


「俺は玄音楼の犬じゃねえ。むしろ、あの腐れ組織の支配をヘドが出るほど嫌っている放浪者だ。お前の剣気の鋭さに興味があって試させてもらったが……その満身創痍の身体で、よくぞ俺の刃を受け流した。お前の覚悟、気に入ったぜ」


独孤九は腰の酒瓶を引き抜き、豪快に一口煽ると、泥の上に昏睡している鉄爪の陸(リク)を見下ろした。


「その相棒、霧雨の毒針をやられてるな。このまま雨に打たれてりゃ、夜明けを待たずに冷たくなりやがる。俺についてきな。安全な隠れ処へ案内してやる」


紫音は無言で無聴の手のひらに指先を走らせた。『この人、敵、ではない、信じて』。無聴は静かに頷き、寒蝉を琴袋に収め直した。独孤九は昏睡する陸をその逞しい肩に軽々と担ぎ上げ、雨夜の闇の中へと歩き出した。


案内されたのは、臨雨鎮の華やかな表通りから外れた、妖艶な灯りと湿った熱気が漂う花街の一角であった。雨水に濡れた古い木造の建物が並び、遠くから酔客の笑い声や三味線の音が、無聴の右耳にこもった雑音となって届く。


「ここが、百花楼(ひゃっかろう)だ」


独孤九が裏口の重い木扉を叩くと、やがて扉が開き、暖かな光と、おしろいや香水の甘く息苦しい匂いが漂ってきた。現れたのは、赤い着物を艶やかに纏った美女――百花楼の人気芸妓であり、裏で玄音楼に抵抗する女性たちを率いるサキであった。


「九(キュウ)……また面倒な客を連れてきて。でも、その盲目の琴師様は……」


サキの瞳に、鋭い光が宿った。彼女は無聴の正体が、玄音楼に追われる「雨夜の悪魔」であることを一目で見抜いていた。しかし、彼女の瞳の奥にあるのは恐怖ではなく、深い共感と決意だった。彼女の父親もまた、かつて玄音楼に利用され、消された宮廷楽器職人だったのだ。


「早く中へ。お千代(おちよ)の部屋へ運びなさい。役人どもの目が光っているわ」


百花楼の地下にある隠し部屋。そこは、外の喧騒が完全に遮断された、静まり返った空間だった。部屋の隅では、白髪交じりの優しげなお針子の老女、お千代が、眼鏡をかけて静かに針と糸を動かしていた。


独孤九が陸を寝台に横たえると、紫音はすぐに蘭から貰っていた簡単な傷薬と針を取り出し、陸の肩の経絡を突いて毒の巡りを完全に静める処置を開始した。陸の呼吸が、次第に穏やかになっていく。


お千代は無聴に近づき、彼の泥と血で汚れた灰色の長衣をそっと脱がせた。彼女の温かくしわがれた手が無聴の肩に触れた瞬間、無聴の脳裏に、かつて虐殺の夜に自分を庇って死んだ亡き母・静華の優しい面影がフラッシュバックした。無聴の冷徹な表情が、一瞬だけ、微かに和らぐ。


「まぁ、こんなにボロボロにして……。すぐに修繕してあげますからね、坊や」


お千代はお針箱から特殊な黒い粉末を取り出した。それは、音波を完全に吸収する特殊な漆黒の鉱石を極限まで細かく粉砕した「吸音石の微粉末(きゅうおんせきのびふんまつ)」であった。彼女は無聴の長衣の袖や裏地に、その粉末を丁寧に刷り込んでいく。これにより、彼が移動する際の衣擦れの音や足音は、完全に無音化されるのだ。


サキは無聴の傍らに座り、静かに語りかけた。その声は、無聴の右耳に、かすかながらも芯の通った響きとして届いた。


「曲様……あなたの復讐は、私たち虐げられたすべての者の希望です。鉄山は、あなたが生きていることを知って、街中に指名手配を敷きました。盲人街の瞎子(カツシ)たちにも、厳しい監視の目が向けられています。どうか、ここでは身体を休めてください」


無聴は無言で、手のひらに紫音の指文字を感じていた。『サ、キ、様、は、味、方、休、ん、で』。


世界は静まり返っていた。吸音石の粉末を刷り込まれた長衣が、お千代の手によって静かに縫い合わされていく。お千代の針が布を通る「サク、サク」という極小の振動だけが、無聴の骨を通じて伝わる、束の間の安らぎの時間だった。


しかし、その静寂は、長くは続かなかった。


「――ゴォォォン……」


突如として、地下室の厚い壁を物理的に振動させる、重く不穏な音が響き渡った。それは、臨雨鎮の治安維持組織が、重大な事態(非常事態)を街全体に告げるための、官衙の巨大な鐘の音であった。


お千代の針を持つ手が、一瞬にして止まった。サキの表情が強張り、独孤九は静かに錆びた鉄剣の柄に手をかけた。花街の華やかな喧騒が、一瞬にして不気味な静寂へと塗り替えられていく。


無聴の右耳の奥で、金属ノイズ「ジジ……」が、再び激しく弾け始めた。冷たい風が、地下室の僅かな隙間から吹き込み、彼の白い目隠しを揺らす。玄音楼の密偵たちの足音が、百花楼のすぐ外まで、静かに迫りつつあった――。

HẾT CHƯƠNG

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