劫火の旋律、痛覚なき鎌
「ジジ……、ジリ……」
右耳の奥で、不快な金属ノイズが虫の羽音のように這い回っていた。調律を終えたはずの古琴「寒蝉(かんせん)」の残響が、破損した耳神経を容赦なく刺激する。日常の音が歪み、雨の音も、木材が燃える音も、すべてが不自然に低くこもった濁音となって右耳へと流れ込んでいた。そして左耳は――完全な無音の深淵。どれほど激しい嵐が吹き荒れようとも、左側からは塵一つの音すら届かない。世界は半分、死んでいた。
「無聴(ムチョウ)様……!」
紫音(シオン)の声が、右側からかすかに、しかし引き裂かれるような焦燥を伴って響いた。音としては聞き取れなくとも、彼女が彼の右手を握りしめる指先の震えが、すべてを物語っていた。手のひらに素早く刻まれる指文字――『火、矢、が、来、ま、す』。
次の瞬間、凄まじい熱風が無聴の肌を撫でた。屋根を突き破って降り注いだ無数の火矢が、かつて両親が愛した廃楽坊「聴雨軒(チョウウケン)」の古い木床に突き刺さり、一瞬にして猛烈な炎を噴き上げる。乾いた梁が軋み、爆ぜる。炎が酸素を貪る「ゴォォ」という重低音が、無聴の脳髄を直接揺らした。熱せられた空気が激しく対流し、気圧が急激に変化していく。
床の藁の上では、霧雨の毒針に倒れた鉄爪の陸(リク)が、苦しげな呼吸を漏らしながら昏睡していた。避難させる猶予はない。炎の包囲網が、彼らの退路を塞ぐように狭まっていく。
その時、燃え盛る本堂の正面扉が、凄まじい力で叩き割られた。火の粉が舞い散る中、ぬっと現れたのは、巨大な影だった。
玄音楼(げんおんろう)江南分壇の戦闘部隊「骸衆」を率いる先鋒隊長――骸鬼(ガイキ)。身長二メートルを超えるその巨躯は、全身が無数の古い傷跡で覆われ、不気味なほど血の気がない。その両手には、自身の身の丈をも超える巨大な大鎌が握られていた。骸鬼の瞳には生気がなく、ただ獲物を屠るためだけの無機質な殺意が濁っていた。
骸鬼が一歩を踏み出す。その瞬間、無聴の皮膚は、大鎌が空気を切り裂く「風のうねり」を捉えた。左耳の沈黙を補うように、全身の毛穴が気流の変化を敏感に感知している。
無聴は静かに「寒蝉」を構えた。壊れた太鼓の皮で作られた琴袋から引き出された漆黒の古琴は、特製松脂(とくせいまつやに)によって鋼糸の摩擦を極限まで抑えられ、静かに青い共振光を放っていた。
「無駄だ、盲目の琴打ちめ。骸鬼様は痛覚を持たぬ。貴様の細い剣気など、肉体で受け止めて圧殺してくれるわ!」
闇の奥から骸衆の雑兵たちの嘲笑が響く。だが、無聴にはその言葉すらも歪んだ雑音にしか聞こえない。ただ、骸鬼が巨大な大鎌を頭上で旋回させ、燃え盛る柱をなぎ倒しながら突進してくる「地響き」だけが、足裏を通じて正確に伝わっていた。
骸鬼の大鎌が、火の粉を散らしながら無聴の首元へと迫る。無聴は指先を鋼糸にかけ、内力を込めて弾いた。一直線に放たれる真空の刃「寒蝉一閃・宮音」。
しかし、弾いた瞬間、無聴の表情が微かに強張った。炎の熱風が引き起こす激しい空気の歪みが、放たれた剣気の直進軌道を不自然にねじ曲げたのだ。真空の刃は骸鬼の肩をかすめ、背後の燃える柱を切り裂くに留まった。骸鬼は痛覚を持たない「無痛功」の使い手。肩の肉が裂け、黒い血が噴き出しても、その顔には眉一つ動かす気配すらない。むしろ、傷を負ったことでその突進速度はさらに増し、巨大な鎌が容赦なく無聴の脳天へと振り下ろされる。
(熱風が音波を屈折させている……。気の焦点を結べない……!)
右耳の耳鳴りが激しさを増し、熱気による眩暈が無聴の平衡感覚を奪いかける。大鎌の刃が、彼の鼻先数寸にまで迫っていた。避ける肉体的な猶予はない。無聴の脳裏に、死の静寂がよぎる。
その刹那、無聴の背中を、紫音の華奢な身体がぴったりと押し包んだ。彼女の体温と、心臓の激しい鼓動が、脊椎を通じて無聴の肉体へと直接伝わってくる。紫音は青竹の笛を口元に寄せ、極限の内力を込めて「共鳴の調べ」を奏で始めた。
――トオォォ……。
それは耳で聴く音ではなかった。手首、肘、鎖骨を伝わって無聴の内耳へと直接届く、純粋な物理的振動。紫音の笛の音波は、炎の熱風を物理的に切り裂き、その隙間にある「冷たい空気の通り道」を、無聴の脳内(心象風景)に青い光の線として鮮やかに描き出した。対流の歪みが補正され、骸鬼の肉体がどこにあるのかが、熱量の変化とともに完璧に視覚化される。
「……調律する」
無聴は静かに息を吐き、聴風呼吸法で自身の心拍を極限まで下げた。彼は骸鬼を「殺す」ための剣気を放つのではない。痛覚を持たない肉体をどれほど切り裂こうとも、その突進を止めることはできない。狙うべきは、ただ一つ。
無聴は、特製松脂の効果で摩擦をゼロにした「寒蝉」の最も太い第一弦に、血に染まる指をかけた。そして、紫音が示した冷たい気流の軌道に乗せるように、魂の底から弦を弾き放った。
――ツィィィン!
放たれたのは、音波を極限まで圧縮した極細の無音剣気。その真空波は、周囲に舞い散る燃え盛る炎の粉(火の粉)を螺旋状に巻き込み、劫火の渦となって直進した。骸鬼はそれを肉体で受け止めようと、大鎌を構えたまま突進を止めない。
だが、無聴の放った剣気は、骸鬼の肉体ではなく、彼が握る巨大な大鎌の「関節部分の結合ピン」へとピンポイントで命中した。
キィィン、という硬質な金属疲労の音が響いた瞬間、骸鬼の大鎌の刃が、結合部から物理的に爆発するように弾け飛んだ。痛覚を持たない骸鬼も、武器を失った重さの急激な変化には対応できず、その巨躯が前方に大きくつんのめり、床の燃える瓦礫の中に激しく転倒した。
「陸を……!」
無聴は紫音の肩を抱き寄せ、もう片方の腕で昏睡する陸の襟首を掴み上げた。聴雨軒の天井は完全に火に包まれ、巨大な梁が崩落する轟音が響いていた。無聴は皮膚が感じる「崩落の気圧変化」を心眼で読み取り、落下する燃える木材の僅かな隙間を縫うようにして、本堂の外へと飛び出した。
背後で、かつて両親の美しい音楽が響いていた「聴雨軒」が、凄まじい音を立てて完全に崩壊し、夜空に向かって巨大な火柱を上げた。思い出の地は、完全に灰燼に帰したのだ。
激しい豪雨が、無聴の白い目隠しを冷たく濡らした。彼は雨の中に立ち尽くし、燃え尽きた我が家を「無音の闇」の中で見つめていた。左耳は沈黙し、右耳には「ジジ……」という不快なノイズだけが残されている。一族の過去を完全に失い、彼の復讐心は、悲哀から「完全なる修羅」へと移行しようとしていた。
その時、激しい雨のカーテンを切り裂いて、冷たい「殺気」が無聴の肌を刺した。
音は一切しない。しかし、風の流れが不自然に二つに裂け、無聴の喉元へと直進してくる。闇の中から、一本の錆びた鉄剣が、無言のまま真っ直ぐに突き出されていた――。
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