残された余韻、迫り来る包囲網
霧雨(キリサメ)の冷え切った骸が冷たい石床に転がり、崩落しかけた地下金庫の天井から、容赦のない雨水が滝のように滴り落ちていた。激戦の余韻が立ち込める暗闇の中で、曲無聴(キョク・ムチョウ)はただ静かに立ち尽くしていた。
彼の左耳は、完全な無音の深淵に沈んでいた。耳の奥の経絡が激しく破裂したあの瞬間から、世界の左半分は、まるで分厚い石壁で遮断されたかのように一切の音を失ってしまった。これが「左耳完全失聴(さじかんぜんしっちょう)」という、逃れられぬ呪いの現実だった。右耳だけが、雨漏りの鈍い水音と、遠くで鳴り響く玄音楼(げんおんろう)の警報の鐘を、歪んだ低周波の唸りのように辛うじて拾っている。高音域の澄んだ響きはすべて消え去り、世界は不気味なほど重く、こもった沈黙に支配されていた。
「……陸(リク)」
無聴は右耳の微かな感覚だけを頼りに、床に倒れ込んでいる鉄爪の陸(テッソウ・ノ・リク)の気配を捉えた。陸の肩には霧雨の放った黒い毒針が深く突き刺さっており、その呼吸は浅く、体温は刻一刻と奪われている。このままここに留まれば、警報を聞きつけた玄音楼の増援に包囲され、命を落とすのは明白だった。
無聴は痛む指先で古琴「寒蝉(かんせん)」を背負い直すと、昏睡する陸の巨体を無言で背負い上げた。指先は鋼糸との激しい摩擦で完全に皮が剥がれ、温かい血が容赦なく流れ落ちていたが、その痛みすら今の無聴には遠い世界の出来事のように感じられた。
「水影の無音歩(すいえいのむおんほ)」を起動する。無聴は足裏に内力を集中させ、浸水し始めた通路の水面を滑るように走り出した。一滴の水しぶきも上げず、波紋すら立てない。左耳が聞こえないという致命的なハンデは、彼の平衡感覚を著しく狂わせていた。左側へ傾きそうになる身体を、右耳の微かな残響と、皮膚が感じる湿った空気の抵抗だけで強引に制御する。暗闇の迷路を抜け、激しい豪雨が降りしきる臨雨鎮(りんうちん)の夜の街へと、彼は影のように滑り出した。
たどり着いたのは、街の片隅にひっそりと佇む廃楽坊「聴雨軒(チョウウケン)」であった。かつて無聴の両親が全盛期に美しい調べを奏でていたその場所は、今や埃と雨漏りの音だけが支配する無聴の隠れ家となっていた。
古びた木の扉を静かに押し開けると、暗闇の中から一人の少女が音もなく駆け寄ってきた。青い振袖を揺らし、美しい青竹の笛を大切そうに抱えた少女――紫音(シオン)であった。
彼女は無聴の姿を見るなり、その唇を激しく動かして何かを叫んだ。しかし、無聴の耳には、彼女の澄んだはずの声は届かなかった。右耳の奥で「ジジ……」と不快な金属ノイズが弾けるだけで、言葉としての意味は完全に失われていた。左耳に至っては、絶対的な静寂が横たわっているだけだった。無聴はただ静かに首を横に振り、背負っていた陸を床の藁の上にそっと横たえた。
紫音は一瞬だけ絶望に目を見開いたが、すぐに状況を理解した。彼女は無聴の耳元から流れる一筋の血を見て、その小さな手を伸ばし、無聴の震える右手をそっと包み込んだ。その手の温もりだけが、無聴の凍てついた心を現実へと繋ぎ止める唯一の錨だった。
紫音は無聴の手のひらを開くと、自身の細い指先を押し当て、素早く文字を書き始めた。一族に伝わる、言葉を介さない魂の対話技術――「指文字意思疎通術(ゆびもじいしそつうじゅつ)」であった。
『お、か、え、り、な、さ、い。陸、の、毒、は、私、が、抑、え、ま、す。あ、な、た、は、調、律、を』
手のひらの皮膚を通じて、紫音の指先が描く文字が、無聴の脳内に確かな意味となって伝わってくる。無聴は静かに頷き、懐から奪還した黄金色の器――「特製松脂(とくせいまつやに)」を取り出して床に置いた。紫音はそれを受け取ると、すぐに陸の治療に取り掛かった。彼女は李薬庵から学んだ応急処置を施し、毒の巡りを遅らせるために陸の肩の経絡を素早く突いていく。
無聴は本堂の薄暗い隅に座し、膝の上に「寒蝉」を水平に置いた。一族の血を吸った漆黒の古琴は、水に濡れてその鋼糸の張力が僅かに狂い、不穏な不協和音を放ちたがっていた。このままでは、次の戦闘で音律剣気を放った瞬間、強烈なキックバックによって右耳の鼓膜も完全に破裂し、即座に絶対の静寂――すなわち、全聾に至るだろう。
無聴は特製松脂の器を開けた。独特の松の樹脂と薬草の匂いが、こもった空気の中に広がる。彼は血に染まる指先で黄金色の松脂を掬い、寒蝉の鋼鉄の弦に一本ずつ、丁寧に塗りたくっていった。
耳が聞こえなくとも、指先の触覚が弦の微細な歪みを正確に捉えていた。松脂が弦に馴染むにつれて、鋼糸の無駄な摩擦音(ノイズ)が消え去り、筐体全体が青い静かな共振を始める。さらに無聴は、旧邸跡の地下から回収していた、亡き従姉・響子の形見である「壊れた太鼓の皮の琴袋(こわれたたいこのかわのことぶくろ)」を取り出した。その頑丈な防音性と防水性に優れた革袋に寒蝉を収め、調律の狂いを引き起こす雨水と湿気から武器を厳重に保護する。
調律を終えた無聴は、自身の胸元に手を当てた。衣の奥には、母の形見である「亡母のお守り」が身につけられている。内部の金属プレートは泥平の銛を防いだ際に激しく凹んでおり、もはや次の致命傷を防ぐ盾としては機能しないかもしれない。そして懐には、李薬庵から託された「氷心丹(ひょうしんたん)」が、青白く不気味な冷気を放ちながら眠っている。服用すれば一時的に聴覚を極限まで活性化させることができるが、その後に失聴のプロセスを激しく加速させる劇薬。それは、自身の命を前借りする最後の禁忌だった。
その時、聴雨軒の外の空気が、不自然に細かく震え始めた。風の音が急激に冷たさを帯び、無聴の皮膚に突き刺さるような「殺気」が伝わってくる。
紫音は陸の治療を一時的に終えると、再び無聴の傍らに駆け寄り、彼の手を強く握りしめた。彼女の指先は、今までにないほど激しく震えていた。彼女は無聴の手のひらに、焦燥を込めて一気に文字を刻み込んでいく。
『鉄、山、が、狂、っ、た。霧、雨、の、死、を、知、り、街、の、協、力、者、を、皆、殺、し、に、す、る、と。官、衙、を、動、か、し、あ、な、た、を、雨、夜、の、殺、人、鬼、と、し、て、指、名、手、配、し、た。街、は、完、全、に、封、鎖、さ、れ、た』
手のひらから伝わる紫音の指の震えが、事態の深刻さを無聴に告げていた。鉄山(テツザン)は狂乱し、無聴をおびき出すために、臨雨鎮に潜むすべての「曲一族の協力者」――あの瞎子やチビ、盲人街の人々までもを虐殺しにかかっているのだ。公権力を背景にした圧倒的な鉄の包囲網が、この聴雨軒のすぐ近くまで迫っていることを、無聴は皮膚が感じる空気の気圧の上昇から直感した。
無聴は静かに立ち上がった。彼の両目は白い布で覆われ、左耳は完全に沈黙している。残された右耳の聴力も、いつ完全に失われるか分からぬ極限の死線。しかし、彼の胸の奥で燃え盛る復讐の炎は、世界の沈黙に比例するように、ますます冷徹で、鋭い殺気へと研ぎ澄まされていった。
「世界がどれほど静まり返ろうとも、私の弦は、奴らの喉元を切り裂くまで止まらない」――。
第1段階のクライマックス、鉄山との決戦の火蓋が、今切って落とされる。
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