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無傘の街、無音の弦

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江南の空は、まるで破れた墨壺のように、絶え間なく陰鬱な霧雨を降らせ続けていた。


水郷の街「臨雨鎮」の黒い瓦屋根は濡れそぼり、迷路のように張り巡らされた水路には、灰色の波紋が無数に広がっている。この街の住人は皆、深く笠を被るか、頑丈な油紙の傘を差して、俯きながら足早に通りを往き交う。雨の日、この街で傘を持たずに歩くことは、単なる不注意ではない。それは死を意味していた。


「雨の日に傘を持たぬ者は、すべて我が楼の敵とみなし、その場で処刑する」


それが、臨雨鎮の闇を支配する暗殺組織「玄音楼」の江南分壇主、鉄山が定めた冷酷な掟――臨雨鎮の禁「無傘の死」であった。傘を差さぬ者は隠密の暗殺者か、あるいは反逆者とみなされ、瓦根の上から放たれる風切り音のしない毒針の餌食となる。ゆえに、この街の雨音には、常に死の気配が混じり合っていた。


その臨雨鎮の片隅に佇む、三階建ての古びた酒楼「酔雨楼」。


暖簾をくぐると、湿った木の匂いと、安酒のツンとした香りが鼻腔を突く。外の冷たい霧雨とは対照的に、楼内は煮炊きの煙と客たちの雑多な話し声で満ちていた。しかし、その賑わいもどこか押し殺されたように低い。


酒楼の最も薄暗い隅の席に、その男は静かに座っていた。


男の名は曲無聴。端正だが血の気のない白い顔立ちに、両目を覆う白い布が異様な陰影を落としている。色褪せた灰色の長衣を纏い、その背には黒い布で厳重に包まれた長大な物体を背負っていた。一族の遺品であり、無聴の唯一無二の武器である「血染めの古琴・寒蝉」である。


無聴は盲目であった。しかし、彼にとって世界は暗闇ではない。むしろ、常人には捉えられない極微細な音に満ちた、極彩色の方位図であった。


(瓦を叩く硬い雨音……軒先から滴り落ちる規則的な一滴……泥濘を踏みしめる泥の粘り気……)


無聴の耳は、周囲のあらゆる環境音を三次元の立体図面として脳内に描き出していた。彼はまだ、両耳で完璧に世界を聴くことができる「左耳健聴期」にいた。だが、その耳の奥には、常に燻るような微かな熱い疼きが存在していた。音律剣気を放つたびに、自身の経絡を削り、聴覚を物理的に破壊していく呪いの代償。その前兆が、すでに彼の耳の奥で静かに牙を剥いていたのだ。


「おい、無聴。そろそろ一曲頼むよ。客たちが退屈している」


酔雨楼の主人であり、無聴を盲目の流しとして雇っている柳雨生が、そろばんをパチパチと叩きながら声をかけてきた。柳雨生は無聴がただの盲目の琴師ではないことを察しつつも、詮索せず、衣食住を提供して見守ってくれる数少ない理解者であった。


無聴は無言で頷き、背の黒い布を解いた。現れたのは、漆黒の桐木で造られ、一族の血を吸って鈍い光を放つ古琴「寒蝉」であった。その鋼鉄の弦に、細く傷だらけの指先をそっと添える。


調弦のために一本の弦を弾く。


――ツィン。


澄んだ、しかしどこか物悲しい金属音が響いた。その瞬間、無聴の脳裏に、かつて音律剣気の基礎を教え、そして一族を裏切って玄音楼に売り渡した実の叔父、曲向臣の冷酷な横顔がフラッシュバックした。怒りと哀しみが胸を締め付ける。無聴は静かに息を吐き、感情を押し殺した。


その時、酔雨楼の重厚な木の扉が、乱暴に蹴り開けられた。


吹き込んできた冷たい風雨とともに、数人の男たちがどたどたと足音を荒らげて踏み込んでくる。客たちの雑談が一瞬にして凍りつき、酒楼内は静まり返った。


「おいおい、湿気た面して飲んでんじゃねえよ!」


傲慢な声を響かせて入ってきたのは、臨雨鎮の武力を支配する「鉄拳門」の若頭、剛大であった。筋骨隆々の体躯に派手な着物を羽織り、腰には鉄のナックルをぶら下げている。鉄拳門は玄音楼に多額の賄賂を贈り、その忠犬として街の住民から暴虐な税を搾取している暴力組織であった。


剛大の背後の配下たちは、一人の痩せこけた初老の民を引きずっていた。その男は全身泥まみれで、傘を持っていなかった。


「この野郎、雨の日に傘を持たずに路地を走っていやがった。玄音楼の旦那方の掟を忘れたわけじゃねえよな?」


剛大は男の髪を掴み、床に叩きつけた。男は恐怖に震えながら命乞いをする。


「お、お許しを、剛大様! 娘が急な病で、薬舗へ急ぐあまり傘を忘れてしまい……!」


「言い訳はいらねえんだよ。掟は掟だ。無傘の者はその場で死罪だが、俺の慈悲で、まずはその動いた足を叩き折ってやる!」


剛大が凶悪な笑みを浮かべ、拳を振り上げた。周囲の客たちは関わり合いを恐れ、一斉に目を背ける。店主の柳雨生が慌てて割って入ろうとするが、剛大の配下が抜刀し、その胸元に刃を突きつけた。取り返しのつかない暴力が、今まさに執行されようとしていた。


酒楼の隅で、無聴は静かに「寒蝉」の弦の上に指を置いた。


(足音の重心、関節の軋み、呼吸の乱れ……すべて聞こえる)


無聴は「聴風呼吸法」を発動し、自身の肺の伸縮音すら極限まで消し去った。彼の脳内(心象風景)において、剛大と配下たちの肉体が透明な気の流れ(経絡)として描き出され、最も輝く「死穴(弱点)」が赤く浮かび上がる。剛大たちの粗暴な呼吸音や衣服の擦れる音が、無聴にとっては格好の標的であった。


殺せば、玄音楼を刺激し、この街での復讐の準備が台無しになる。だが、罪なき弱者が目の前で踏みにじられるのを、曲一族の血が許さなかった。


(殺すのではない。経絡を一時的に麻痺させ、武器を落とさせる……)


無聴の左耳の奥が、拒絶するようにキリキリと激しく疼き始めた。音律剣気を放てば、また少し世界が静かになる。だが、彼の指先に迷いはなかった。無聴は、降る雨の一滴が軒先の瓦に当たり、最も高い音を立てて弾ける「瞬間」を耳で待った。


雨音が瓦を叩いた、その刹那。


無聴の指先が、寒蝉の極細の鋼糸を静かに弾いた。


――ピン。


それは、激しい雨音に完全に掻き消されるほどの、極微細な音波であった。しかし、放たれた振動は空気の分子を極限まで圧縮し、目に見えない無声の剣気「音律剣気」となって、剛大の配下たちの手首に向けて一直線に走った。


「ぎゃああっ!?」


突如として、剛大の配下三人から悲鳴が上がった。彼らは自身の腕に何が起きたかも理解できぬまま、激しい痺れに襲われ、握っていた刀が床へと甲高い音を立てて滑り落ちた。彼らの手首の経絡は、音波の共振によって完全に一時麻痺していた。


「な、なんだ!? 何が起きた!」


剛大は驚愕し、周囲を見回した。傷一つないのに、配下たちは腕を押さえて苦悶の表情を浮かべている。誰が攻撃したのか、どこから刃が飛んできたのかすら分からない。酒楼内は、嵐の前の静けさのような異様な沈黙に包まれた。


剛大の視線が、ゆっくりと薄暗い隅に座る盲目の琴師、無聴へと向けられた。無聴はただ静かに、琴の弦を撫でているだけに見えた。しかし、その佇まいから放たれる底知れぬ静けさに、剛大の背筋に冷たい戦慄が走った。


「ちっ、不気味な店だ……引き上げるぞ!」


剛大は吐き捨てるように言うと、痺れた腕を抱える配下たちを引き連れ、逃げるように酔雨楼から立ち去っていった。


騒動が収まり、客たちが安堵の息を漏らす中、無聴は静かに寒蝉を黒い布で包み直した。彼の左耳の奥から、一筋の細い血が静かに流れ落ち、灰色の衣の襟元を赤く染めた。高音域の雨音が、先ほどよりも僅かに曇って聞こえる。感覚を失う恐怖が、冷たく彼を侵食し始めていた。


しかし、無聴はそれを拭い去り、気配を消した。その時、彼の絶対音感が、酒楼の片隅から発せられる「規則的で澄んだ呼吸音」を捉えた。それは、他の客たちの怯えた呼吸とは明らかに異なる、自身の琴の音色を完璧に理解した者の呼吸であった。


無聴が見えない目を向けると、そこには青い竹笛を大切そうに抱え、彼の放った一撃の独特な「音色」に静かに聴き入る一人の可憐な少女が座っていた――。

HẾT CHƯƠNG

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