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執務室の捜索と消えたインク

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大聖堂の東翼に位置するガブリエルの枢機卿執務室は、厳格な静寂に支配されていた。壁一面を埋め尽くす重厚な神学書、黒光りするマホガニーの机、そして冷え切った暖炉。完璧な「聖職者の部屋」であるはずのその空間に今、不浄な土足の音が踏み荒らしていた。


「もっと徹底的に探せ! あの若き枢機卿が、魔女の描いた地動説の星図をこの部屋に隠匿しているのは疑いようがないのだ!」


 声を荒らげているのは、野心的な若き司祭ベネディクト・ロッシであった。彼は大司教ヨハネス・フォン・ハプスブルクの密偵として、ガブリエルの地位を奪う機会を虎視眈々と狙っていた。ガブリエルが異端の女天文学者エミリ・フォン・ローゼンの審問を二週間も引き延ばしたという事実、そして彼女の独房でガブリエルの白い法衣の袖口に炭墨の汚れが付着していたというマルクスからの報告。それらは、ガブリエルを国家反逆罪で失脚させるに足る十分な容疑であった。


 衛兵たちが本棚をなぎ倒し、床板を叩き、ガブリエルの私物を乱暴にひっくり返していく。その様子を、部屋の隅で直立不動のまま見つめている老人がいた。アルドブランディーニ公爵家から派遣されている老執事、オットー・ブラウンである。一分の隙もない黒い執事服をまとい、白髪を端正に整えた彼の表情は、鉄の仮面のように無感情であった。しかし、その鋭い眼光は、荒らされる部屋ではなく、捜索を主導するベネディクトの指先を冷酷に観察していた。


「ベネディクト司祭、ここまでの捜索で、閣下が異端と関わっているという物証は何も出ておりません。これ以上の不敬は、アルドブランディーニ公爵家に対する宣戦布告とみなされますが?」


 オットーの静かだが重みのある警告に、ベネディクトは鼻で笑った。


「黙れ、老いぼれ。公爵家の威光など、教皇庁の正義の前には無力だ。……おお、これだ!」


 ベネディクトの指先が、マホガニーの机の最下段にある隠し棚の隙間に触れた。カチリ、と微かな音がして、引き出しの裏から一枚の巻物が姿を現す。それは、紛れもなく上質な仔羊の皮で造られた羊皮紙であった。エミリが獄中で描き、ガブリエルが没収したはずの、あの地動説の星図――。


「見つかったぞ! これこそが、若き聖者が異端の魔女と密通していた動かぬ証拠だ!」


 ベネディクトは勝利を確信し、狂喜の声を上げた。彼は即座に、大聖堂の回廊で待機させていた大司教ヨハネスをこの執務室へと呼び寄せた。


 数分後、深紅の法衣に身を包んだヨハネス大司教が、傲然たる足取りで部屋へと入ってきた。その肥満体から放たれる圧倒的な世俗の権力欲が、荒れ果てた執務室の空気をさらに重苦しくする。


「ヨハネス閣下、ご覧ください!」


 ベネディクトは膝をつき、恭しく羊皮紙を両手で捧げ持った。


「これこそが、ガブリエル枢機卿がその権力を利用して隠し持っていた、悪魔の地動説を証明する星図にございます。これで、あの小生意気な若造を審問所へ引きずり込むことができます!」


 ヨハネスは冷酷な笑みを浮かべ、その太い指で羊皮紙を受け取った。彼はガブリエルの一族の台頭を激しく警戒しており、この機会に彼を完全に社会的・政治的に圧殺するつもりであった。ヨハネスは期待に胸を膨らませながら、羊皮紙の紐を解き、机の上に大々的に広げた。


「さあ、見せてみろ。魔女が描いたという、呪われた星の軌道を――」


 だが、広げられた羊皮紙を目にした瞬間、ヨハネスの言葉が凍りついた。ベネディクトもまた、目を見開いたまま石のように硬直した。


 そこには、何もなかった。


 ただの、真っ白な、不純物一つない仔羊の皮が、ランプの光を虚しく反射しているだけだった。数式も、惑星の楕円軌道も、エミリの筆跡も、どこにも存在しない。完璧な、無地の羊皮紙だった。


「……これは、どういうことだ、ベネディクト」


 ヨハネスの声が、地を這うような低音へと変わる。怒りと屈辱が、彼の頬を赤黒く染め上げていく。


「な、なぜだ!? そんなはずはございません! 私は確かに、これが没収された星図であることを確認したのです!」


 ベネディクトは狂乱したように羊皮紙を掴み、裏返したり、光にかざしたりした。しかし、どれだけ探しても、そこには一滴のインクの跡すら残っていなかった。


「私の執務室で、一体何をしておられるのですか、大司教閣下」


 その時、開け放たれた扉の向こうから、氷のように冷徹な声が響き渡った。


 一同が振り返ると、そこにはガブリエル・アルドブランディーニが立っていた。深紅の法衣を乱れなくまとい、その表情には一切の動揺も、怒りすらもない。ただ、絶対的な気高さを湛えた漆黒の瞳が、侵入者たちを冷たく見下ろしていた。彼の右腕は法衣の袖の中で不自然に静止していたが、その無駄のない立ち振る舞いは、完璧な「神の代理人」そのものであった。


 ガブリエルは静かに歩を進め、散らかった室内を一瞥した。そして、ヨハネスの前に立つと、深く、しかし冷ややかな一礼を捧げた。


「謹慎中の私を励ますために、わざわざお越しいただいたわけではなさそうですね。ベネディクト司祭、私の公式な執務机から、白紙の羊皮紙を盗み出して、大司教閣下にどのようなペテンを働こうとしたのですか?」


「ガ、ガブリエル! お前、何か魔術を使ったな!? この羊皮紙には、確かに星図が描かれていたのだ!」


 ベネディクトが指を指して叫ぶが、ガブリエルは冷酷な笑みを浮かべるだけだった。彼には、この星図の秘密がとっくに分かっていた。エミリの父アルベルトが遺したこの星図には、特殊な柑橘類の汁と銀塩インクが使用されていた。それは、暖炉の熱にかざすことで初めて化学反応を起こし、真の軌道が浮かび上がるという、科学的なギミック(隠し暖炉の熱で浮かぶ星図)であった。熱を奪い、部屋を完全に冷やし込んでおけば、それはただの白紙に戻る。ガブリエルは捜査が入ることを予見し、事前に暖炉の火を完全に消し去り、部屋の温度を極限まで下げておいたのだ。科学の理を知らない盲信者たちには、この「消えるインク」のトリックを見破ることなど、逆立ちしても不可能であった。


「魔術、ですか」


 ガブリエルはため息をつくように呟き、ヨハネスに向き直った。


「大司教閣下。この若き司祭は、私を陥れるために虚偽の密告を行い、閣下の高貴な御手を汚させたようです。私の無実がこの通り証明された以上、この不敬極まりない捜索と、私に対する名誉毀損の責任は、誰が取るべきなのでしょうか?」


 ヨハネスの額に、怒りの青筋が浮かび上がる。彼は自分が、この野心的な若造の「誤報」によって、アルドブランディーニ公爵家を敵に回すという決定的な失態を犯したことを悟った。教皇庁内部の派閥政治において、この不手際はヨハネスの権威を著しく失墜させる致命傷になりかねない。


「……ベネディクト・ロッシ」


 ヨハネスの声は、凍りついていた。


「か、閣下! お許しください! 私は、私は本当に――」


「黙れ、無能者が!」


 ヨハネスは激昂し、ベネディクトの頬をその肉厚な手で激しく張り倒した。凄まじい音が室内に響き、ベネディクトは床板の上に這いつくばった。ヨハネスはガブリエルを睨みつけ、屈辱を押し殺しながら言い放った。


「私の部下が、お前の不審な動きに惑わされ、大いなる誤解を犯したようだ。この愚か者は、ただちに下級司祭へと格下げし、聖都の最果ての巡礼地へと左遷する。……これで、アルドブランディーニ家との間に、余計な摩擦が生じないことを願う」


「寛大なご処置、感謝いたします、大司教閣下。主の正義が守られたことを、嬉しく思います」


 ガブリエルは完璧な微笑みを浮かべ、再び頭を下げた。ヨハネスは忌々しげに踵を返し、泣き叫ぶベネディクトを衛兵たちに引きずり出させながら、執務室を去っていった。


 重厚な扉が閉まり、部屋には再び冷たい静寂が戻った。


 ガブリエルは、机の上に残された白紙の羊皮紙を静かに手に取った。冷たい仔羊の皮。これに熱を加えた時、そこに浮かび上がる楕円軌道の完璧な美しさを思い出し、彼の胸の奥で、エミリへの狂おしいほどの執着が再び熱を帯びる。彼はエミリの父の知性に、そしてその知性を完璧に受け継いだエミリという少女に、魂の深淵で完全に屈服していた。


 だが、安堵の息を吐き出そうとしたその瞬間、背後から冷たい視線を感じた。


 振り返ると、老執事オットー・ブラウンが、静かにガブリエルを見つめていた。その表情には、主人を救った安堵など微塵もなかった。ただ、すべてを見透かしたような、冷徹な一族の「監視者」としての眼光だけが宿っていた。オットーの視線は、ガブリエルの不自然に静止した右腕、そして彼が白紙の羊皮紙を見つめる、あまりにも情熱的な瞳の揺らぎを、克明に捉えていた。


「――ガブリエル様」


 オットーの低い声が、静まり返った部屋に響く。


「お怪我をされた右腕は、本当はどこで痛められたのですか? そして……その白紙の羊皮紙に、一体何を見ておられるのですか」


 ガブリエルは無言でオットーを見つめ返した。身内からの、逃れられない蜘蛛の糸が、静かに彼の首元へと伸びようとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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