第七話:儚き命と偽りの診断
白亜の聖塔の地下牢に立ち込める空気は、夜が明けてもなお、凍てつくように冷たかった。湿った石壁は容赦なく体温を奪い、天井の隙間から差し込むかすかな光だけが、ここが地獄の底であることを辛うじて示している。
エミリ・フォン・ローゼンは、冷たい石床の上に崩れ落ちるように座していた。両手首を縛る「聖塔地下牢の鉄枷」が、動くたびに擦れて鈍い音を立てる。昨夜、狂信的な審問官マルクス・ヴァイスによる抜き打ち捜索を、ガブリエルがその肉体をもって防いでくれた。その際に彼が支払った代償――白い法衣の袖口に付着した「炭墨の汚れ」という致命的な物証を、マルクスに見られてしまったという冷たい焦燥が、今もエミリの胸を支配している。
だが、それ以上に彼女の肉体は限界に達していた。何日も続いた不眠と、カビの生えた黒パンと濁った水しか与えられない「聖塔の配給食」による深刻な栄養失調。そして、ガブリエルの前で地動説の正しさを証明するために、脳内計算シミュレーションを極限まで酷使し続けた代償は、容赦なく彼女の生命力を削り取っていた。
「――では、火星の逆行現象について、もう一度説明してもらおうか、エミリ」
鉄格子の向こうから響くガブリエルの声は、いつも通り氷のように冷徹だった。その背後には、緊張した面持ちで羽ペンを握る若き書記官レオ・バルトリが控えている。ガブリエルは完璧な「聖職者の完璧な偽装」をまとい、冷酷な断罪者として振る舞っていた。マルクスや大司教ヨハネスの密偵が、いつこの独房の影から聞き耳を立てているか分からないからだ。しかし、その漆黒の瞳だけは、エミリの顔色の悪さを、狂おしいほどの焦燥とともに凝視していた。
エミリは乾いた喉を鳴らし、気高さを失わないよう背筋を伸ばそうとした。彼女の「毒素麻痺の精神耐性」が、激しい立ち眩みと頭痛を理性の領域から強引に切り離す。だが、言葉を紡ごうとした瞬間、視界が急激に歪んだ。
「火星の楕円軌道は……太陽を焦点の一つとする……」
声が掠れ、途切れる。エミリの視界は白く染まり、思考の歯車が唐突に回転を止めた。両手首の鉄枷が「ガチャン」と耳障りな音を立てて石床に激突し、彼女の華奢な体が、そのまま前方へと崩れ落ちた。
「エミリ――!」
その瞬間、ガブリエルの冷徹な仮面は完全に粉砕された。彼は教皇庁の威厳も、周囲の目もすべて投げ打ち、鉄格子を乱暴に開けて独房内へと滑り込んだ。地面に激突する寸前のエミリの体を、彼の強靭な左腕がしっかりと抱き止める。
「エミリ! 目を開けろ! エミリ!」
ガブリエルは彼女を抱き抱え、その青白い頬を震える手で包み込んだ。その手の温もりだけが、死人のように冷え切った彼女の肌に伝わっていく。彼の右腕は、かつて薬草学者マルタを救った際の古傷のせいで不自然に強張っていたが、それでも必死に彼女の体を支えていた。
「閣下!?」
書記官レオが驚愕の声を上げる。ガブリエルが囚人に対して見せた、なりふり構わぬ狼狽。それは、聖職者として決して見せてはならない「情執」の証明だった。だが、ガブリエルはレオの視線に気づくことすらできないほど、激しく動揺していた。
「レオ! 今すぐ医師を呼べ! ヘンリック・ヴィンターをここへ連れてこい! 早くしろ!」
ガブリエルの怒号が、暗い地下牢に響き渡る。レオは弾かれたように立ち上がり、螺旋階段を駆け上がっていった。
ガブリエルはエミリを冷たい石床から引き剥がし、自らの深紅の法衣でその体を包み込んだ。彼女の胸に耳を当てると、微弱で不規則な鼓動が、消え入りそうな灯火のように刻まれている。神を信じないはずの彼が、この時、生まれて初めて、胸の中で届かぬ祈りを叫んでいた。
(死なせるな……。神よ、いや、世界の理よ。私の光を、この暗闇から連れ去らないでくれ……!)
その時、独房の入り口に不気味な影が立ちはだかった。
「ふん、実に見苦しい。閣下、異端の魔女が仮病を使って審問を逃れようとしているだけです。そのような小細工に惑わされるとは、次期教皇候補の名が泣きますな」
現れたのは、主席審問官マルクス・ヴァイスだった。その落ち窪んだ瞳には、ガブリエルの袖口の「炭墨の汚れ」を起点とした、絶対的な疑惑の光がギラギラと燃え盛っている。マルクスは一歩踏み込み、エミリを冷たく見下ろした。
「ただちに冷水を浴びせ、鉄の鞭で叩き起こすべきだ。主の審問を遅らせることは、悪魔の猶予を与えることに他ならない」
「黙れ、マルクス!」
ガブリエルはエミリを抱き締めたまま、マルクスを射抜くような鋭い眼光で見上げた。その声には、一族の威光と枢機卿としての絶対的な覇気が宿っていた。
「この女の審問は、私の直轄であると言ったはずだ。容疑者が自白する前に死ねば、誰がその背後にある異端のネットワークを暴く? お前の無骨な拷問は、教皇庁が最も求める『真実の改心』を物理的に不可能なものにする不手際だ!」
「しかし、閣下――」
マルクスがさらに言葉を重ねようとしたその時、白髪を端正に整えた老医師ヘンリック・ヴィンターが、急ぎ足で独房へと入ってきた。その白衣からは、清潔な薬草の香りが漂っている。
「下がられよ、審問官殿。これよりは医師の領域だ」
ヘンリックはマルクスを穏やかに、しかし毅然とした態度で制し、エミリの傍らにひざまずいた。彼は検死用の銀製計器を取り出し、彼女の脈拍と瞳孔を素早く確認する。ヘンリックは人道主義者であり、拷問による虚偽の自白を激しく嫌っていた。そして何より、彼はエミリの亡き父アルベルトの知性に深い畏敬を抱いていたのだ。ガブリエルとヘンリックの視線が、一瞬だけ交差した。言葉は交わされなかったが、二人の間には、エミリを救うという「沈黙の同盟」が結ばれた。
「……極度の飢餓、そして精神的疲弊による心不全の兆候です。容疑者の肉体は、今や一本の糸で繋がっているに過ぎない。マルクス審問官、もし今、彼女にこれ以上の審問、あるいは拷問を行えば、彼女はその場で即死します」
ヘンリックの言葉に、マルクスは鼻で笑った。
「魔女の命など、主の御前では塵に等しい。死ねばそれまでのこと」
「死ねば、彼女が抱く『悪魔の数式』は永遠に闇に葬られ、教会は彼女の改心を公に証明して神の栄光を示す機会を失うことになる」
ヘンリックは、教皇庁が最も逆らえない「医学的・法的な論理」を突きつけた。
「改心なき異端の死は、教会の無謬性に対する敗北を意味する。それは、審問所としての致命的な失態ではありませんか?」
マルクスは言葉に詰まり、屈辱に顔を歪めた。医師の「医学的無謬性」を盾にした正論の前には、狂信的な彼であっても法的に一歩後退せざるを得なかった。ガブリエルは自らの権力だけで審問を止めようとすれば、マルクスに密通を確信される危険があったため、このヘンリックの客観的な診断を借りるしかなかったのだ。
「……ならば、どうするのだ、医師」
マルクスが忌々しげに問いかける。ヘンリックは懐から羊皮紙を取り出し、素早い手つきで公式な診断書を執筆し始めた。
「容疑者は重病であり、即時の審問は死を招く。魂の救済のためには、最低二週間の治療と、外部のノイズを遮断した静養が必要である――。これを、私の公式な診断書として提出します。ガブリエル閣下、この期間中、彼女の管理は閣下の直轄とし、厨房責任者のゲルトルート・リンクに、滋養のある食事を秘密裏に手配させることを推奨します」
ガブリエルは静かに頷き、自らの「枢機卿印章指輪」をその診断書に押し当てた。赤い封蝋が、二週間の法的延期を確定させる盾となった。
「分かった。マルクス、この診断書に基づき、エミリ・フォン・ローゼンの審問を二週間延期する。彼女の身柄は、引き続き私の直轄管理下に置く。下がれ」
マルクスはガブリエルとヘンリックを交互に睨みつけ、最後にエミリの青白い顔を忌々しげに見つめると、無言で踵を返して独房を去っていった。その足音が遠ざかるのを確認し、レオが独房の扉を閉めると、一同は深い息を吐き出した。
「……命を救うための延期工作には加担しましたが、これは一時しのぎに過ぎません、ガブリエル閣下」
ヘンリックは立ち上がり、周囲の目を警戒しながら、懐から極めて小さな琥珀色のガラス瓶を取り出した。中には、薄い青色の液体が揺れている。それは、彼が郊外の薬草学者マルタから極秘裏に入手している、痛みを和らげ精神を安定させる秘薬「忘憂草の雫」だった。
「これは彼女の脳の衰弱を防ぎ、不眠による狂気から理性を守るためのものです。しかし、過剰に摂取すれば記憶を失う危険がある。閣下、自らの手で、彼女の唇にこれを一滴だけ流し込んでください。彼女の理性を維持するための、これが唯一の生命線です」
ガブリエルは、その冷たいガラス瓶を受け取った。ヘンリックは深く一礼し、レオを伴って独房を去っていった。レオは去り際、ガブリエルに対して、自らもこの「背信」の片棒を担ぐ覚悟を決めたような、静かな一瞥を残した。
独房には、再び静寂が戻った。
ガブリエルは、腕の中で静かに呼吸を続けるエミリを見つめた。彼女の肌は氷のように冷たく、その細い首元には鉄枷による痛々しい擦り傷が赤く腫れている。彼は自らの右腕の激痛を無視し、彼女の体を優しく石床に横たわらせると、琥珀色の瓶の栓を抜いた。
薬草の、どこか甘く切ない香りが漂う。ガブリエルはエミリの薄い唇に指先を添え、その微かに開いた隙間に、青い「忘憂草の雫」を一滴だけ、慎重に落とした。
エミリの喉が小さく動き、薬がその体内へと吸い込まれていく。しばらくすると、彼女の苦しげだった眉間の皺が徐々に和らぎ、呼吸が深く、安定したものへと変わっていった。
ガブリエルは彼女の傍らにひざまずいたまま、自らの不自由な右腕を見つめた。エミリを守るために、彼は自らの地位、名誉、そして信仰のすべてを泥に塗る道を選んだ。だが、その胸を支配しているのは、後悔ではなく、彼女の命を繋ぎ止めたことへの、狂おしいほどの安堵と甘美な背徳感だった。
「……眠れ、エミリ。お前が目覚める時、私はお前のために、さらなる偽りの盾を用意しておこう」
ガブリエルは彼女の亜麻色の髪にそっと触れ、その額に自らの冷たい指先を滑らせた。それは、神を裏切った聖職者が、自らの新しい「信仰」に捧げる、静かなる誓いだった。
だが、彼らが勝ち取った二週間の猶予は、新たなる陰謀の幕開けに過ぎなかった。地上の聖堂では、ガブリエルが異端の女を特別に優遇しているという不穏な噂が、すでに大司教ヨハネスの耳へと届きつつあった。
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