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闇に消えた尾と揺らぐ聖者

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約束の「三日目の深夜」が、聖都ルミナリアに静まり返る闇とともに訪れた。


 大聖堂の最も高い東翼のテラスに立ち、若き枢機卿ガブリエル・アルドブランディーニは、凍てつく夜風に身を晒していた。深紅の法衣が風をはらんで不気味に羽ばたき、彼の右手薬指に嵌められた赤いサファイアの印章指輪が、微かな月光を浴びて血のように暗く光っている。彼の漆黒の瞳は、夜空の天頂、黄道十二星座の境界を渡る不気味な大彗星「神の警告」へと釘付けにされていた。


 教皇庁が毎年発行する公式の「天文暦」は、この彗星が「六日後の正午、太陽の光に呑まれて消滅する」と予言していた。それこそが不信仰者への神罰であり、教皇の無謬性を証明する「奇跡」として、聖都の全信徒に布告されていた。だが、白亜の聖塔の地下牢に囚われた異端の少女、エミリ・フォン・ローゼンが脳内だけで導き出した楕円軌道方程式は、全く異なる真実を告げていた。


――三日後の深夜二時、彗星はペガスス座の足元に滑り込み、大気の塵と星座の影に遮られて、忽然と姿を消す。


 ガブリエルは懐から、精密な銀の懐中時計を取り出した。針は深夜一時五十九分を指している。あと一分。


 もし、エミリの計算が間違っていれば、彼女は明日、異端審問官マルクスの手によって火刑台へと送られる。そしてガブリエル自身も、異端を庇った哀れな聖職者として失脚し、すべてを失うだろう。だが、もし彼女の計算が正しければ――。


 秒針が静かに十二の刻みを越えた。深夜二時。


 ガブリエルは息を止めて天を見上げた。その瞬間、夜空を引き裂くように赤く燃え盛っていた彗星の尾が、まるで目に見えない巨人の手に覆い隠されるかのように、すっと光を失った。瞬きをするほどの短い間に、赤い光は星座の暗闇へと完璧に滑り込み、塵の一片さえ残さずに消滅した。


 静寂が、世界を支配した。


 予言された奇跡の「六日後」ではない。エミリが三日前に予言した「三日後の深夜二時」ちょうどに、彗星は完全にその姿を消したのだ。


 ガブリエルの胸の中で、何かが音を立てて崩れ去った。それは、彼が生まれてからずっと身にまとってきた「教会の無謬性」という名の、偽りの信仰だった。神を代弁するはずの教皇庁が、民衆を支配するために天体の運行すら改ざんしていたという決定的な嘘が、一人の少女の美しい数式によって白日の下に晒されたのだ。神を信じられなかった彼が、今、確実な世界の理(ことわり)の前にひざまずきそうになっていた。彼の内なる神への不信は、もはや引き返せないほど決定的なものとなった。


「……本物だったのか」


 掠れた声が、冷たい風にさらわれて消える。ガブリエルの胸を支配したのは、信仰の喪失による絶望ではなかった。それは、あの独房で冷たい鉄枷に繋がれながら、誰よりも自由な瞳で星を見上げていたエミリ・フォン・ローゼンという存在への、狂おしいほどの知的、そして個人的な「執着」だった。


 彼は翻る法衣を乱暴に掴み、大聖堂の螺旋階段を駆け下りた。もはや、一秒の猶予もなかった。マルクスがこの彗星の消滅に気づき、自らの敗北を隠蔽するためにエミリを闇に葬ろうとする前に、彼女を救い出さねばならない。


 深夜の白亜の聖塔。地下最下層へと続く湿った石造りの階段は、まるで地獄の底へと続いているかのように暗く、冷たい。ガブリエルは護衛騎士ユーリに命じて、周囲の見張りを完全に遠ざけさせていた。静まり返った廊下を進む彼の耳に、かすかな「チリン、チリン」という真鍮の鈴の音が届いた。


 角の向こうから、盲目の老召使いマリア・リッチが、洗濯物の籠を抱えてゆっくりと歩いてくる。彼女の腰に下げられた小さな真鍮の鈴が、彼女の歩調に合わせて涼やかな音を響かせていた。目が見えないマリアは、ガブリエルの気配を察すると、その場で深く頭を下げた。


「ガブリエル枢機卿閣下、こんな深夜に……主の祝福が、あなた様の祈りにありますように」


「下がって良い、マリア。私はこれより、罪人の魂を救うための『最後の告解』を聞く」


 ガブリエルは一切の感情を排した冷酷な「神の代理人」としての仮面を被り、厳かに命じた。マリアは疑うことなく再び頭を下げ、静かに廊下の奥へと去っていった。真鍮の鈴の音が遠ざかり、再び地下牢が完全な静寂に包まれるのを確認すると、ガブリエルはエミリの独房の重厚な鉄扉の鍵を開けた。


 錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、扉が開く。


 独房の中は、天井の極小の鉄格子から差し込む微かな月光だけが、石床の上に銀色の円を描いていた。エミリは壁に寄りかかり、座り込んでいた。長引く監獄生活と、限界まで「高速脳内計算シミュレーション」を繰り返したことによる脳の疲弊は深刻で、彼女の呼吸は浅く、青白い肌は月光の下で透き通るように儚げだった。両手首を繋ぐ重厚な鉄枷が、冷たい石床の上で鈍く光っている。


 ガブリエルが静かに独房に入り、扉を閉めると、エミリはゆっくりと睫毛を持ち上げた。その灰色の瞳は、光を失うどころか、夜空のどの星よりも強く、不敵に輝いていた。


「……消えましたね、閣下」


 エミリの薄い唇から、微かな、だが確信に満ちた言葉がこぼれた。彼女は当然の結果として、美しく、そしてどこか皮肉めいた微笑を浮かべていた。


「プトレマイオスの天動説暦は、今この瞬間に死にました。私の計算した楕円軌道の前に、教皇庁の『神の予言』はただのペテンに過ぎなかった。約束を、果たしてくださいますか?」


 ガブリエルは彼女の前にひざまずいた。彼の漆黒の瞳は、激しい感情の渦に揺れていた。信仰の死、一族への背信、そして何よりも、目の前にいるこの気高い少女への抑えきれない情執。彼は震える手で、懐から「審問用の鍵」を取り出した。


「……ああ、約束だ。お前の知性は本物だった。お前をこの汚れた火刑台で死なせるわけにはいかない」


 ガブリエルはエミリの両手首を引き寄せた。冷たい鉄枷が彼女の傷ついた皮膚を締め付けているのを見て、彼の胸に鋭い痛みが走る。彼は鍵を南京錠の穴に差し込み、一気に回した。


 ――ガチャン。


 重厚な金属音が、狭く湿った独房の石壁に跳ね返り、静寂を引き裂いた。エミリの肉体を縛り、囚人としての絶望を象徴していた冷たい鉄枷が、その重みとともに石床の上へと崩れ落ちた。


 その瞬間、ガブリエルの指先が、枷から解放されたエミリの傷ついた手首に触れた。鉄の冷たさとは対照的な、驚くほど熱く、柔らかな肉体の温もりが、彼の指先を通じて全身へと駆け巡った。触れ合うことすら許されない聖職者としての絶対的禁忌を犯したという実感が、ガブリエルの呼吸を完全に奪った。彼の指先が、彼女の裂傷の周りでかすかに震える。


 エミリは逃げることも、手を引くこともしなかった。彼女はただ、至近距離にあるガブリエルの端正な顔、その冷徹な仮面の下で激しく揺れ動く漆黒の瞳を、じっと見つめ返していた。


「手が……震えていますよ、枢機卿閣下」


 エミリは囁くような声で、自らのもう片方の手を、ガブリエルの震える手の上に、そっと、だが確固たる意志を込めて重ね合わせた。重ねられた手の温もりが、ガブリエルの冷たい理性を甘美に破壊していく。


「お前は……自分が何をしたか分かっているのか。私は教皇庁を、神を裏切ろうとしているのだぞ」


「神を裏切る? いいえ、あなたは真実の前にひざまずいただけです」


 エミリはガブリエルの瞳の奥にある深い孤独を射抜くように、真っ直ぐに見つめ続けた。


「あなたはもう、偽りの神の代理人ではいられない。あなたのその冷たい仮面の奥に隠された、真理への渇望を、私は知っています。私を救うことは、あなた自身をこの白亜の檻から救い出すことでもあるのです」


 彼女の言葉は、ガブリエルが何年も心に押し込めてきた「神への不信」と「自由への渇望」を、容赦なく白日の下に引きずり出した。ガブリエルは、自らの魂が、この異端の少女の圧倒的な知性と気高さの前に、完全に屈服したことを悟った。彼は彼女の手首を握る力を強め、触れ合うことすら許されない絶対的禁忌の中で、二人の指先は深く、狂おしいほどに重なり合った。


 言葉にならない熱情が、冷たい独房の暗闇の中で静かに、だが激しく燃え上がる。


 その時、廊下の奥から再び「チリン、チリン」という微かな真鍮の鈴の音が響いてきた。盲目のマリアが、忘れ物を取りに戻ってきたのだろうか。足音がゆっくりと独房の前を通過していく。


 二人は動きを止め、至近距離で互いの吐息を感じながら、息を殺した。ガブリエルの広い胸と、エミリの華奢な体が、暗闇の中で重なり合うように密着する。マリアは扉の向こうで、二人の静かな呼吸と、ガブリエルがエミリの魂を救うために唱える(と彼女が信じている)囁き声を、ただの「聖なる祈り」として受け流し、再び歩き去っていった。


 鈴の音が完全に消え去った後も、二人は手を重ねたままであった。ガブリエルは、自らの地位も、名誉も、信仰も、すべてを投げ打ってでも、目の前にいるエミリを救い、彼女と共に世界の真の姿を見上げるという、後戻りできない背徳の愛を、自らの魂に深く刻み込んだ。


「……ここから、お前を連れ出す。直轄管理への移送の手続きを急ごう」


 ガブリエルはエミリの額に自らの額を軽く寄せ、誓うように囁いた。それは、偽りの神ではなく、ただ目の前の少女と、無限の星空に捧げる彼の最初の「真実の祈り」であった。

HẾT CHƯƠNG

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