凶兆の彗星と死の宣告
白亜の聖塔の最下層、湿った石壁に囲まれた独房に、突如として血のような赤が差し込んだ。それは天井の極小の鉄格子を通り抜け、冷たい床に不気味な光の帯を描き出している。差し込むのは、これまでエミリの唯一の時計であった穏やかな月光ではない。夜空を切り裂くように現れた、燃えるような尾を引く大彗星「神の警告」の禍々しい光だった。
聖都ルミナリアの全域に、狂乱を告げる教会の鐘の音が重々しく響き渡っていた。民衆の悲鳴と祈りの声が、遠く地を這う地鳴りのように聖塔の石壁を震わせている。天から降り注ぐ赤い光は、エミリの青白い肌を染め、両手首を縛る「聖塔地下牢の鉄枷」の錆びた金属を怪しく光らせていた。
「……美しいな」
エミリは、喉の渇きと寒さでかすれた声で呟いた。彼女は鉄枷の重みに耐えながら、天井の隙間から覗くその赤き星を見つめていた。その瞳は、恐怖ではなく、純粋な知的好奇心と冷徹な観察眼で輝いている。その時、螺旋階段の奥から、複数の荒々しい足音と甲冑の擦れる音が響いてきた。いつもガブリエルが訪れる際の、あの静寂を伴う足音とは明らかに違う。
重厚な鉄扉が激しく開き、松明の不気味な炎とともに、漆黒の法衣をまとった異端審問所・強硬派の衛兵たちがなだれ込んできた。そしてその中央から現れたのは、教皇クレメンス12世の紋章が刻まれた黄金の印章を持つ特使だった。その後ろには、氷のような無表情を張り付かせた枢機卿ガブリエル・アルドブランディーニが、影のように佇んでいる。
「異端者エミリ・フォン・ローゼン!」
特使は羊皮紙の巻物を広げ、罪人を断罪する冷酷な声を響かせた。
「天に現れし赤き災厄は、お前が呼び寄せた悪魔の証である。教皇クレメンス12世閣下は、聖都の浄化のため、お前を『火刑囚』と定め、三日後の夜に大審問広場にて生きたまま焼き尽くすことを命じられた。これが教皇閣下の直接の勅命である!」
火刑。その言葉が冷たい独房に落とされた瞬間、エミリの背筋に冷たい戦慄が走った。父アルベルトが迎えた、あの炎と煙に巻かれた凄惨な最期が脳裏をよぎる。しかし、彼女は唇を噛み締め、恐怖を自らの知性の奥底へと押し込めた。彼女は視線を特使から、その背後に立つガブリエルへと移した。
ガブリエルは完璧な「聖職者の完璧な偽装」をまとい、微動だにせずエミリを見下ろしていた。その漆黒の瞳は深淵のように暗く、彼の「微表情解読の眼」が、エミリの呼吸のわずかな乱れや、鉄枷を握る指先の微かな震えを捉えている。しかし、その瞳の奥には、彼自身の内なる神への不信と、彼女を失うことへの狂おしいほどの焦燥が隠されていた。
特使はガブリエルに向き直り、傲然と告げた。
「ガブリエル枢機卿。教皇庁認可『天文暦』によれば、この彗星は六日後に太陽に呑まれて消滅すると予言されている。それこそが、異端を排除した神の勝利の証となる。三日後の火刑の準備は、異端審問所・強硬派がすべて執り行う。あなたのぬるい審問はここまでだ」
ガブリエルは無言で特使の言葉を聞いていた。彼には、教皇の勅命を法的に覆す手段がなかった。一族の義務、聖職者としての地位、そのすべてが、エミリの即時処刑を受け入れるよう彼に圧力をかけている。
その時、静寂を破ったのは、エミリの乾いた笑い声だった。
「ふふ……教皇庁の『天文暦』ですか。相変わらず、神の名を借りたお粗末な改ざんばかりですこと」
「何だと、無礼な異端者が!」
特使が激昂して手を上げようとしたが、ガブリエルが静かにその前に立ち塞がった。彼の冷徹な威圧感が、特使の動きを止める。
「待ちなさい、特使殿。この女の妄言に、どのような欺瞞が隠されているか暴くのも私の職務だ。エミリ、お前は何を言っている?」
ガブリエルはあえて冷酷な尋問官の声を装い、エミリに言葉の武器を与えるための「神学的二重問答」を仕掛けた。エミリはガブリエルの意図を瞬時に察知し、天井の鉄格子の外にある彗星を見つめた。彼女の脳内で「高速脳内計算シミュレーション」が起動する。
前々夜に計算した月光の移動角度「一分間に約零点五度」という自転定数。そして、現在彗星が位置する星座の座標、その移動速度と高度。それらの数値を、彼女の脳内にある三次元の楕円軌道方程式へと代入していく。頭脳の中で、黄金の歯車が凄まじい速度で回転し、彗星の真の軌道が描かれていく。脳への過大な負荷により、こめかみに鋭い痛みが走るが、彼女はそれを無視した。
「この彗星の運行速度と高度から計算すれば、教皇庁が予言する『六日後に太陽に呑まれる』という軌道は、数学的に完全に破綻しています。この星は、太陽に到達する前に、特定の星座の影へと滑り込みます。消滅するのは六日後ではなく、正確に三日後の深夜、秒単位で予測可能です」
エミリはガブリエルをまっすぐに見つめ、不敵に微笑んだ。その瞳の輝きは、絶望の檻にあってなお、無限の星空を支配しているかのように気高い。
「枢機卿閣下。もし私の予測が外れ、彗星が三日後に消えなければ、私は自ら火刑台に上がり、一言の悲鳴も上げずに焼き尽くされましょう。しかし、もし私の予測が完全に的中し、教会の『天文暦』が嘘であることが証明されたなら――」
エミリは一歩前に踏み出し、鉄枷を大きく鳴らした。
「私の審問権を、異端審問所の管理下から、あなたの『直轄管理下』へと移してください。教皇庁の無謬性を守るためにも、真実を予測した私を、あなたの手元で監視し続ける大義名分ができるはずです。この賭け、乗っていただけますか?」
独房の中に、張り詰めた静寂が降りた。特使はエミリの狂気じみた提案に呆れ果てていたが、ガブリエルは彼女の言葉の裏にある「教会の欺瞞の破壊」という絶対的な勝機を見抜いていた。
ガブリエルはゆっくりとエミリに近づき、その氷の瞳で彼女のすべてを射抜くように見つめた。二人の視線が交差し、言葉にできない官能的な緊張感が暗闇の中で火花を散らす。彼は自らの聖職者としての破滅を賭ける覚悟を決め、静かに口を開いた。
「良いだろう。その賭け、私が引き受けよう」
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!