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死の流砂、底なしの恐怖を固めよ

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赤黒い夕闇が砂漠の地平線を呑み込んでいく。風は熱を帯び、巻き上がる鉄砂が漆黒の甲冑――「玄鉄甲」の表面を容赦なく叩いていた。細かな砂粒が金属の隙間に侵入し、一歩進むたびに「ジャリ……ジャリ……」と、耳障りで重苦しい金属摩擦音を響かせる。


 榛剛顕の右肩は、先ほどの激突の衝撃で自動拘束機構が作動し、完全に半ロック状態となっていた。右腕は鉛のように重く、指先まで痺れが走っている。動くのは左腕のみ。剛顕はその強靭な左腕一本で、怯えて身を縮める沙耶をしっかりと抱きかかえていた。彼のすぐ後ろでは、陸が激しい打撲を負った脇腹を押さえ、荒い息を吐きながら不格好な足取りでついてきている。


 前方の暗がりに向かって、野盗の若頭・狂風が残した足跡が点々と続いていた。だが、その足跡は不自然に蛇行し、やがて完全に砂の海へと消えている。視界を遮る黄砂の霧。鉄砂の磁気が視覚と感覚を狂わせる中、剛顕の「鉄振感知」だけが、風の咆哮の奥から不気味な大地の「震え」を捉えていた。それは、獲物を待ち受ける落とし穴のような、流動する大地の脈動だった。


 ――ズゥ、と不意に足元が沈んだ。


 剛顕が踏み出した左脚が、砂の抵抗を失って虚空へと落ちる。大地の底が抜けたかのような感覚。流砂だった。それも、ただの流砂ではない。風によって細かく砕かれた超微粒子の鉄砂が、地下水脈の微かな湿気と混ざり合い、底なしの泥濘と化した「流砂の罠」である。


 通常の人間であれば、時間をかけて沈んでいく。しかし、剛顕の肉体を縛る玄鉄甲は、五百キロを超える絶対的な質量を有していた。物理法則は無慈悲である。重力加速度と超重量が相乗し、剛顕の巨躯は一瞬にして膝まで砂に呑み込まれた。さらに、その衝撃で周囲の砂地が液状化を起こし、周囲数十尺の砂が同心円状に激しくうねり始める。


「ア、アニキ……!?」


 陸が悲鳴を上げた。助けようと手を伸ばしかけるが、剛顕は鋭い眼光だけでそれを制した。五百キロの鉄塊が沈みゆく渦に、負傷した陸が近づけば、二人まとめて奈落の底へ引きずり込まれるのは明白だった。剛顕は沙耶を頭上へと高く掲げ、自らの身体が沈む速度を少しでも遅らせようと試みる。


 だが、もがけばもがくほど、砂の流動性は増していく。もがきによって砂粒の間に隙間が生じ、水のように滑らかになった砂が、玄鉄甲の質量をさらに深く吸い込んでいくのだ。腰。すでに剛顕の腰までが、赤黒い大地の胃袋へと呑み込まれていた。衣服の隙間から侵入した細砂が、皮膚をやすりのように削り、全身の傷口が悲鳴を上げる。内力を練ろうとすれば、即座に胸の封印機構が作動し、肺胞が破裂して血を吐くだけだ。真気の魔法はここには存在しない。あるのは、ただ無慈悲な重力と摩擦の恐怖だけだった。


「おじさま! いや、おじさま!」


 沙耶が剛顕の左腕の中で泣き叫び、小さな手で必死に彼の兜にしがみつく。剛顕は無言だった。兜の奥の瞳は、絶望に染まることなく、冷徹に砂の流動を観察していた。呼吸を極限まで細く長くする「逆流息」を維持し、肺の容積を縮小させて内臓への圧迫を和らげる。だが、砂圧は容赦なく胸当てを締め付け、呼吸のたびに肋骨が悲鳴を上げた。


 その時、砂煙を切り裂いて、褐色の肌を持つ大男が姿を現した。砂漠の案内人、アリマだった。彼は流砂の境界線ギリギリの硬い岩場に立ち、手にした真鍮の星読み盤を握りしめながら叫んだ。


「動くな、将軍! 力で抗うな! 砂が液状化している! 暴れれば暴れるほど、砂は水になってあんたを呑み込む!」


 アリマの声は、猛烈な風に煽られながらも、剛顕の耳へと届いた。


「砂の粒子を固めるんだ! 大地は死んでいない、振動を伝えろ! 砂粒同士の隙間を物理的に押し潰し、摩擦力を無限に高めるんだ! あんたのその重さを、大地の圧縮力に変えろ!」


 振動――。砂の圧縮。


 剛顕の脳内で、諸葛寛の「質量力学」の教えが火花を散らした。『気は虚であり、質量は実である』。流動する砂は、振動の周波数によってその性質を劇的に変化させる。一定の強力な振動を与えれば、砂粒同士が互いに噛み合い、流体から強固な固体へと転移するのだ。物理法則を利用した、大地の固体化。


 剛顕は静かに目を閉じた。痛覚忘却術を起動し、全身を襲う激痛と恐怖を脳の深部から完全に遮断する。動くのは、自らの肉体の精密な制御のみ。


 剛顕は、ロックされていない左脚と、麻痺の残る右脚の筋肉へと意識を集中させた。内力は使えない。だが、榛一族の頑強な血統と、幼少期からの過酷な特訓によって培われた、異常なまでの筋繊維の制御能力がそこにあった。剛顕は、大腿部からふくらはぎ、そして足裏の筋肉群を、目視できないほどの超高速で微細に振動させ始めた。


 キィィィン――。


 玄鉄甲の足裏から、物理的な高周波の振動が、流砂の底へと伝わっていく。その振動は、砂粒の間に介在する微かな空気と水分を弾き出し、砂粒同士を強制的に衝突・結合させていった。


 踏地固(とうちこ)の起動である。


 剛顕の足元で、ジュウジュウと砂が擦れ合う不気味な音が響き、泡が弾け飛ぶ。次の瞬間、底なしの泥濘であったはずの砂地が、剛顕の足裏を境界線として、コンクリートのように強固な「岩石」へと物理的に変化し始めた。砂の流動性が完全に失われ、極限まで圧縮された鉄砂が、剛顕の五百キロの質量を支える強固な足場を形成していく。


「な……何だ、これは!? 砂が固まっていく……!」


 陸が目を見開いた。剛顕の足元を中心に、うねる流砂の表面が不自然に静止し、灰黒色の強固な大地が広がっていく。剛顕は、固まった足場を一歩踏み締めた。ジャリ、という軽い音ではない。ズシン、と強固な岩を踏み抜く重厚な音が、砂漠に響き渡る。


 剛顕は、足裏の超高速振動を維持したまま、ゆっくりと、しかし確実に流砂の底から自らの身体を引き上げ始めた。一歩踏み出すたびに、筋肉の急激な伸縮による摩擦熱で、足裏の肉が焦げるような凄絶な熱傷の激痛が走る。だが、剛顕の表情は鉄の兜の奥で完全に静止していた。彼は動かぬ山となり、自らの質量を大地の防波堤へと変え、流砂の罠を完全に克服して見せたのだ。


 アリマが差し出した頑丈なロープを掴み、剛顕は沙耶を抱えたまま、ついに乾いた硬い岩場へと生還した。足裏の筋肉は完全に裂け、鎧の隙間から赤黒い血が砂を濡らしていたが、その佇まいはまさに大自然の脅威をねじ伏せた魔神そのものだった。


「信じられん……。流砂を物理的に固めて歩く人間がいるとはな」


 アリマは畏敬の念を込めて剛顕を見つめ、深く頭を下げた。剛顕とアリマの間に、言葉を超えた砂漠の信頼関係が、この瞬間完全に確立された。


 しかし、生還の余韻に浸る時間は与えられなかった。彼らが一時的な隠れ家として使用していた、崖のふもとの「炭鉱の物置小屋」の方角から、血相を変えた陸の部下(囚人の生き残り)が走ってきたのだ。その身体は傷だらけで、息は完全に絶え絶えだった。


「大将軍……陸の兄貴……大変だ! 奴ら、赤狼幇の本隊が……!」


 男は地面に倒れ込みながら、血を吐いて叫んだ。


「狂風の野郎が、首領の『赤狼』を連れて、手薄になった物置小屋を強襲しやがった……! 俺たちは必死に防いだが、沙耶ちゃんが……沙耶ちゃんが連れ去られた!」


 その言葉が響いた瞬間、周囲の空気が物理的に凍りついた。剛顕の巨大な鉄躯から、これまでとは比較にならない、大地を揺るがすほどの静かなる「殺気」が立ち上る。兜の奥の眼光が、赤黒い夕闇の中で野獣のように鋭く輝いた。復讐の行軍は、最初の血の決戦へと突入しようとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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