砂嵐の崖、重撃の歩みを刻む
「ゴォォォン……、ゴォォォン……!」
最下層の檻から響き渡る、重苦しい鉄の鐘の音。それは、榛剛顕(ハリバラ・ゴウケン)の不在を示す、冷酷な警報であった。崖下から這い上がる松明の赤い光が、嵐の予感と共に「葛葉の薬草庵」の窓を不気味に照らし出す。
「急げ、奴らがこの崖を登り切る前に、将軍を元の檻へ戻す!」
老看守・伴(バン)の枯れた声が、緊迫した庵の中に響いた。老医師・葛葉(クズハ)と弟子の蘭(ラン)は、手早く経絡調整針を片付け、治療台の血を拭う。剛顕の五百キロを超える玄鉄甲(ゲンテッコウ)を、この急勾配の崖から看守たちの目を盗んで移送する。それは物理的な不可能に挑むに等しい大事業であったが、伴には迷いはなかった。
伴は黒彪(コクヒョウ)の手下たちを促し、頑丈な鉄製台車に剛顕の巨躯を乗せた。剛顕は唯一動く右脚をわずかに踏み締め、自重を台車の上へと滑り込ませる。車輪が悲鳴を上げるが、伴が素早く軸に地蠍油(チカツユ)を塗り、音を物理的に殺した。彼らは、かつて使われていた古い排水坑道の暗闇へと滑り込み、松明の光が薬草庵を包囲する寸前で、最下層の檻へと滑り戻った。
ガチャン! と、重い鉄格子の扉が閉まった瞬間、石畳の通路から激しい足音が響いた。現れたのは、監獄長「暴君の牙(ボウクンノキバ)」であった。松明の光に照らされた彼の顔は、怒りと猜疑心に満ちていた。
「……ふん、案山子め。まだ息をしていやがったか」
暴君の牙は、檻の壁に鎖で繋がれ、ぐったりと頭を垂れている剛顕の姿を睨みつけた。剛顕の全身は、毒の残渣による微細な痙攣を装い、血と汗に塗れていた。暴君の牙は鼻を鳴らし、剛顕の胸当てを鉄鞭の柄で激しく叩いた。鈍い金属音が響くが、剛顕は眉一つ動かさず、ただ沈黙を貫いた。暴君の牙は、この「鉄の怪物」が完全に壊れていると確信し、満足げに立ち去った。
翌朝、剛顕は自らの限界を深く悟っていた。内力を感知すれば即座に自壊モードが起動する玄鉄甲。葛葉の治療によって一時的に呼吸は楽になったものの、余命が削られ続けている事実に変わりはない。内力は完全に枯渇し、経絡を巡る気功は一切使えない。ならば、この五百キロの「重さ」そのものを武器にするしかない。
剛顕は、監獄の端にある、常に激しい砂嵐が吹き荒れる断崖絶壁「砂嵐の崖(サアラシノガケ)」での過酷な労働を志願した。看守たちは、動くのもやっとの囚人が自ら死地に赴くのを見て、嘲笑しながらそれを許した。同行したのは、剛顕の泥臭い質量戦闘に心酔し、勝手に弟子を名乗る若き囚人・陸(リク)だけであった。
砂嵐の崖は、数十メートルの猛烈な風圧が吹き荒れ、一歩踏み外せば崖下へと落下して即死する、極めて足場の悪い死地であった。吹き荒れる黒い砂が、玄鉄甲の表面を「シャリシャリ」と激しい音を立てて叩き、隙間から剛顕の生身の皮膚を切り裂いていく。
「……おいおい、大将軍。そんな錆びついた案山子のような体で、まだ足掻こうってのかい?」
崖の影にある崩落した石室から、破れた道士服を着た風変わりな老人が姿を現した。元・朝廷の軍師であり、現在は荒野に隠棲する「諸葛 寛(ショカツ カン)」であった。彼は古びた真鍮の算盤を弾きながら、奇妙な笑みを浮かべて剛顕を見つめた。
「気は虚であり、質量は実である。虚に頼る気功使いどもは、実の重さに押し潰されて死ぬ。お前が嵌められているその玄鉄甲は、五百キロの絶対的な『実』だ。お前は今まで、その重さに逆らって動こうとしていた。だから、筋肉が裂け、骨が軋むのだ」
諸葛寛は、算盤の珠を一つ弾き、剛顕の足元を指し示した。
「風に対抗して踏ん張るのではない。この数十メートルの風圧を、自らの質量の一部として吸収しろ。横方向の風のベクトルを、縦方向の重力エネルギーへと変換し、地面に突き刺すのだ。それが、お前の目指す『重撃歩法(ジュウゲキホホウ)』の理だ」
剛顕は無言のまま、諸葛寛の言葉を脳内で反芻した。質量と重力、慣性の法則。内力のない己にとって、これこそが唯一の武理であった。
剛顕は一歩を踏み出そうとした。だが、その瞬間、猛烈な突風が崖の横から吹き付けた。五百キロの鎧の質量が、風の圧力によって横方向へと暴走する。慣性の法則に従い、剛顕の巨躯は制御を失い、崖の端へと滑り出した。足元の緩い shale(頁岩)が、ガラガラと音を立てて奈落の底へと崩れ落ちていく。
「あ、アニキ!」
陸が悲鳴を上げた。剛顕の体が、崖の縁から宙に浮きかけた。だがその瞬間、剛顕は右腕を伸ばし、自らの四肢を縛る重い鉄鎖を、崖の突き出た岩角へと力任せに叩きつけた。
ギギィィィン!
凄まじい金属摩擦音と火花が散り、鎖が岩に深く食い込んだ。剛顕の巨躯は、崖の縁で辛うじて踏みとどまった。だが、その代償は小さくなかった。急激な静止の衝撃波が、剥き出しの関節へと逆流し、膝の軟骨が物理的に激しく摩耗する「ゴリゴリ」という不快な音が兜の内側に響いた。裂けた右手のひらから、新たな血が滲み出し、鎖を赤く染める。
諸葛寛はそれを見て、ケラケラと笑った。
「愚か者め! まだ力で耐えようとしているな。お前の骨格を、一本の巨大な鉄柱に変えろ。地面の岩盤と一体化するのだ。足裏の筋肉を微細に振動させ、大地の固有振動を掴め!」
剛顕は、岩に絡みついた鎖を引き戻し、再び崖の端に立った。嵐の風圧が、彼の漆黒の鎧を激しく揺らす。だが、今度は目を閉じた。視覚を捨て、「鉄振感知」に全てを委ねる。風が鎧のプレートを叩く微細な振動、そして足裏から伝わる、崖の岩盤の「地鳴り」を全身で聴き取る。
(大地の固有振動と同調する……)
剛顕は呼吸を極細の「逆流息」へと戻し、心拍数を極限まで下げた。そして、全身の骨格を完璧な垂直の「一本の鉄柱」として整える。「不動鉄心功」の極致。彼は横から吹き付ける風の圧力を、自らの鎧の質量と一体化させ、それを全て「垂直方向の重力」へと物理的に変換した。
そして、一歩を踏み出した。
ズウゥゥゥン!
それは、歩みではなかった。大地の底を揺らす、巨大な鉄槌の衝撃であった。剛顕の足裏が地面に激突した瞬間、大地の固有振動と共鳴した「地裂歩(チレツホ)」の衝撃波が、クモの巣状に足元から広がった。崖の端の頑丈な岩盤が、物理的な振動によって一瞬にして粉砕され、巨大な岩石の塊が、轟音と共に崖下へと崩落していった。
風を切り裂き、大地を踏み抜く。これこそが、内力ゼロの剛顕が編み出した「重撃歩法」の完成の瞬間であった。
陸はその圧倒的な光景を目撃し、全身の血が沸き立つような興奮に震えていた。これだ。これこそが、自分が求める本物の武の姿だ。陸は無言で、自らも近くにあった数十斤の重い岩石を背負い、剛顕の踏み込みの姿勢を真似て、不格好ながらも崖の上で歩みを刻み始めた。剛顕はそれを見つめ、無言のまま、わずかに顎を引いて頷いた。言葉のない、しかし強固な師弟の絆が、砂嵐の中で静かに結ばれていく。
だが、その時であった。剛顕の「鉄振感知」が、崖の下から伝わる異様な微振動を察知した。それは、自然の嵐の音ではない。馬の蹄が地を叩く、不規則で狂暴な振動――。
剛顕が目を凝らし、崖の下の無法地帯「鉄砂の街」を見下ろした。砂嵐の合間から、黒い煙が立ち上るのが見えた。煙が上がっているのは、街の端にある古い炭鉱の物置小屋の方向だった。
そこは、剛顕がかつての副官の遺児である少女・沙耶(サヤ)を、密かに隠してある場所であった。
陸が息を呑み、指を差した。
「アニキ、あれは……赤狼幇(セキロウホウ)の野盗どもだ! 奴ら、沙耶ちゃんのいる物置小屋に向かってやがる!」
砂嵐を突き抜けて、不吉な略奪の雄叫びが崖上まで微かに届く。剛顕の兜の奥の瞳に、野獣のような鋭い殺気が宿った。
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