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死線の針、鉄の皮膚に滲む血

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暗黒の檻に、生温かい血の匂いが立ち込めていた。


 床に跪いた黒彪の巨躯が、恐怖と畏敬のあまり小刻みに震えている。その目の前で、石牢の壁に背を預けた榛剛顕は、兜の奥の瞳を静かに閉じていた。


 胃腑を内側から焼き焦がす黒蠍の毒液。そして、五百キロの玄鉄甲を無理に駆動したことによる、肋骨のひび割れの悪化。痛覚忘却術によって脳の手前で遮断されていた凄絶なダメージが、肉体の物理的な限界となって一気に噴出していた。兜の隙間から、ドロリとした暗赤色の血が絶え間なく床へと滴り落ちる。


 沈黙する鉄塊の前に、音もなく一つの影が滑り込んできた。老看守の伴である。


 伴は、床に転がる囚人たちの惨状と、吐血した剛顕の姿を一瞥し、その濁った瞳に鋭い光を宿した。彼は無言のまま、剛顕の前に跪くと、懐から一枚の汚れた布を取り出した。それは、かつて剛顕の父・榛烈大将軍が率いた榛家軍の、古びた一等兵の階級章だった。


 伴はそれを剛顕に見せた後、素早く立ち上がり、背後の闇に向かって手招きをした。暗闇から現れたのは、鉱山用の頑丈な鉄製台車を押した黒彪の手下たちだった。黒彪は未だに震えながらも、剛顕の無言の圧力に従い、手下たちに台車を近づけさせた。


 五百キロの鉄甲をまとった大男を、看守の目を盗んで移送する。それは物理的な不可能に挑むに等しい大事業だった。黒彪と二人の屈強な囚人が、剛顕の両脇を抱えようとしたが、その凄まじい質量に息を呑んだ。剛顕は自らの右脚を踏み締め、わずかに残った筋力を爆発させて、自重を台車の上へと滑り込ませた。鉄の車輪がきしみ、鈍い金属音が石牢に響く。伴が素早く車輪の軸に獣脂を塗り、音を物理的に殺した。


 極秘の移送が始まった。


 監獄の最下層から、かつて使われていた古い排水坑道を通り、裏手の崖へと続く狭い泥道を登る。車輪が一歩進むたびに、剛顕の体内で折れた肋骨が物理的に擦れ合い、肺を内側から突き刺した。剛顕は「逆流息」を極限まで細くし、肺の膨らみを最小限に抑えることで、肋骨による肺胞の完全な破裂を防いでいた。だが、激しい振動が台車から伝わるたびに、彼の口元から新たな血が溢れ出た。


 どれほどの時間が経っただろうか。台車が停止し、冷たい夜風が剛顕の顔を叩いた。そこは、監獄の裏手の断崖絶壁にへばりつくように建てられた、古びた木造の庵――「葛葉の薬草庵」であった。周囲には、荒野の毒草や泥の匂いに混ざり、ツンと鼻を突く薬草の苦い匂いが立ち込めている。


「……連れてきたか。急げ、そこに寝かせろ」


 庵の奥から、掠れた、しかし冷徹な声が響いた。白髪を長く伸ばし、粗末な道士服を纏った老医師・葛葉である。その傍らでは、弟子の蘭が、すでに大釜で沸かした薬草液と、無数の純銀の針を並べて待機していた。


 剛顕の巨躯が、頑丈な木の寝台へと移された。自重によって木製の寝台がきしみ、今にも壊れそうな音を立てる。葛葉は無言のまま、剛顕の胸当ての隙間に特殊な真鍮の鏡を差し込み、鎧の内側の肉体を観察した。その鋭い眼光が、驚愕に微かに揺れる。


「これは酷いな……。黒蠍の毒によって胃壁がただれ、内出血が始まっている。それだけではない。玄鉄甲の自動拘束機構が、日中の無理な戦闘によってさらに数ミリ縮小している。折れた肋骨が、肺の表面を物理的に削り取っているぞ。このまま鎧の縮小が続けば、一刻と経たずに肺が完全に押し潰され、窒息死する」


 葛葉の診断は、冷酷なまでに現実の物理的限界を突きつけていた。奇跡の霊薬も、この鉄の締め付けを物理的に排除することはできない。


「治療を始める。だが、 General(将軍)、覚悟しろ。お前の経絡は玄鉄甲の針によって完全に封印されている。内力を一滴でも練れば、経絡が自己破裂して即死する。私はこの細く長い『経絡調整針』を、鎧の隙間から直接お前の肉体に刺し込み、圧迫された経絡を物理的に逃がす。その痛みは、肉体を引き裂かれる拷問を遥かに超える」


 葛葉は、長さ五寸を超える純銀の「経絡調整針」を手に取った。その先端は、冷たい月光を浴びて青白く輝いている。


「蘭、始めろ」


 蘭は無言で頷くと、冷たい薬草液に浸した布を使い、剛顕の鎧の隙間から覗く、化膿し血に染まった皮膚を洗浄し始めた。炎症を起こした熱い肉体に、冷たい薬草液が触れた瞬間、ジュウと微かな蒸気が立ち上るような感覚が剛顕を襲う。だが、それはこれから始まる地獄の序章に過ぎなかった。


 葛葉が一本目の経絡調整針を、剛顕の右肩の装甲板の隙間に差し込んだ。狙うのは、鎧の封印針が最も深く食い込んでいる経絡の結合部である。


 ツ、と銀針が肉を貫き、歪んだ骨格の隙間へと滑り込んでいく。


 次の瞬間、剛顕の右腕の筋肉が、本能的な拒絶反応によって激しく痙攣した。鋼のように硬直した筋肉が、銀針の侵入を物理的に拒もうとする。針が経絡の深部に達した瞬間、全身の経絡を電流が駆け抜けるような、凄絶な物理的激痛が剛顕の脳を直撃した。


 ドクン、と剛顕の心臓が激しく脈打った。心拍数の暴走――それは玄鉄甲にとって「内力解放の予兆」と見なされる。鎧の胸当て板が、不気味な低い振動音を立てて脈動し始め、さらに内側へと締め付けを強めようとした。鎧の自壊モードの起動が、物理的な数値として迫っていた。


(……静めろ。心臓の鼓動を、大地と同調させろ……)


 剛顕は兜の奥で歯を食いしばり、痛覚忘却術を極限まで研ぎ澄ました。痛みを「敵の攻撃」と見立て、その衝撃を不動鉄心功の要領で足裏から寝台の木枠へと逃がしていく。だが、葛葉が二本目の針を、最も圧迫の激しい胸郭の隙間へと刺し込んだ瞬間、最大の試練が訪れた。


 銀針が、折れた肋骨の破片と、鎧の経絡針が交差する「死線の交点」に接触したのだ。


「がっ……、はぁっ!」


 あまりの激痛に、剛顕の完璧だった呼吸の制御が一瞬にして乱れた。逆流息が途切れ、肺が急激に膨らもうとした。その瞬間、膨らんだ肺が、内側へと縮小していた玄鉄甲の胸当て板に物理的に強く圧迫された。


 ゴフッ、と、剛顕の口から大量の暗赤色の血が噴き出し、兜のバイザーの内側を赤く染めた。肺胞が物理的な圧力で破裂したのだ。意識が急速に白濁し、暗黒の奈落へと引きずり込まれそうになる。


(ここで意識を失えば、心拍が暴走し、鎧が俺を押し潰す……)


 剛顕の右手が、凄まじい力できしみを上げながら動いた。彼は自らの右手を胸元へと滑り込ませ、鎧の内側に忍ばせていた形見の「防人の兜の破片」をきつく握りしめた。そして、その鋭利な金属の角を、自らの胸の生身の肉へと深く突き刺した。


 グズリ、と金属が肉を裂く、局所的な「新たな激痛」が剛顕の脳に走った。全身を巡る経絡の鈍い激痛に対し、この鋭く鮮烈な痛みが、剛顕の麻痺しかけていた精神を物理的に強制覚醒させた。兜の奥の瞳に、再び鋭い野獣のような眼光が戻る。


 剛顕は再び呼吸を極細の「逆流息」へと戻し、心拍数を一定以下へと力任せに引き下げた。胸当て板の不気味な振動が、徐々に収まっていく。


「見事な精神力だ、 General。だが、まだ終わらんぞ」


 葛葉は剛顕の覚悟に応えるように、容赦なく三本目、四本目の銀針を刺し込んでいった。蘭が素早く薬草の湿布を鎧の隙間に押し込み、化膿した熱を物理的に冷却消炎していく。剛顕の肉体は、銀針が刺さるたびに激しく跳ね上がろうとしたが、そのたびに彼は兜の破片を自らの肉に深く突き刺し、精神の崩壊を力ずくで食い止め続けた。


 どれほどの時間が経っただろうか。庵の中に立ち込める薬草の湯気と、剛顕の全身から吹き出した青白い汗が混ざり合い、生温かい霧のようになっていた。


「……終わったぞ」


 葛葉が深くため息をつき、銀針の手を止めた。剛顕の胸部を圧迫していた鎧のきしみが、物理的に数ミリだけ緩和され、彼の呼吸は劇的に楽になっていた。肺を突き刺していた肋骨の破片が、経絡の再配置によってわずかに外側へと逃がされたのだ。


 剛顕は、血と汗に塗れた兜の破片を握りしめたまま、深く長い呼吸を一つ吐き出した。肉体は一時的に安定したが、全身を覆う玄鉄甲の重さは、未だ千斤のまま彼を縛り付けている。


 葛葉は純銀の針を薬草液で洗いながら、静かに剛顕を見つめた。その瞳には、深い悲哀と、朝廷の闇に対する冷徹な怒りが宿っていた。


「 General、お前の命は繋ぎ止めた。だが、これは一時的な応急処置に過ぎん。お前の経絡は未だ完全に封印されている。内力を一度でも練れば、これらの針が逆に肉体を内側から切り刻み、即座に死に至る。お前は最後まで、内力ゼロのまま、この重い鉄の枷と肉体の質量だけで戦わねばならんのだ」


 葛葉は一息つくと、剛顕の耳元に顔を近づけ、周囲を警戒しながら極めて低い声で囁いた。


「……私がこの流刑地に送られた理由を、お前に話しておかねばならん。私は、先代の皇帝(現皇帝の父)が崩御された際、その検死を行った。先帝は病死ではない。司馬無忌が密かに調合した、極微量の遅効性の毒によって暗殺されたのだ。現皇帝はその事実を知りながら、自らの即位のために沈黙した。そして、その陰謀の証拠を握る私をこの荒野に流し、先帝の忠臣であったお前の榛一族を、濡れ衣を着せて虐殺したのだ。軍部の解体こそが、彼らの真の目的だった」


 剛顕の瞳が、暗闇の中で激しく見開かれた。国への忠義、皇帝への忠誠――その全てが、権力闘争のために仕組まれた、血塗られた嘘だったのだ。一族の犠牲は、国家の秩序のためではなく、ただ一人の野心家と傀儡の皇帝の私欲のために捧げられたものだった。


「だが、この呪いの鎧を脱ぐ方法が、一つだけある」


 葛葉は、剛顕の玄鉄甲の関節部分に刻まれた、微細な三つの針穴を指し示した。


「この玄鉄甲を肉体を破壊せずに解除するには、朝廷が秘匿する三本の鍵――『金陽針』『銀月針』『人極針』を、正しい関節に刺し込む必要がある。辺境総督の雷震天は、その鍵を持っていない。第一の鍵である『金陽針』は、朝廷の犬となった江南の武林同盟の総本山に保管されているという。General、お前が生き延び、復讐を果たすためには、江南へと進むしかない」


 江南の武林――それが、次なる死地であり、枷を解くための唯一の道標だった。


 剛顕は無言のまま、自らの右手を強く握りしめた。復讐の大義は、今、一将軍の私怨を超え、帝国全体の歪んだ秩序を正すための「大義の戦い」へと昇華しようとしていた。


 しかし、その静寂を切り裂くように、遥か崖の下、鉄砂監獄の方向から、重苦しい鉄の鐘の音が響き渡った。


 ゴォォォン……、ゴォォォン……!


 庵の窓から外を窺っていた伴の顔面が、一瞬にして蒼白になった。


「……しまりがない。監獄長・暴君の牙だ。Generalの不在を察知しやがった。監獄全体の緊急捜索が始まったぞ。すぐに、この崖の上まで追跡の兵が押し寄せてくる!」


 夜の荒野に、無数の松明の赤い光が、まるで這い寄る毒蛇のように崖を登り始めるのが見えた――。

HẾT CHƯƠNG

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